「次は優しく出来るかどうかわからない」





閉められたドアを暫くぽかんと見つめてから、エルフェは何事もなかったかの様にその場を離れた。

歩く事十数分。
雀の根城が遠く彼方に見える様になった頃に漸く彼女は立ち止まって……そして腹の底から息を吐き出した。





「〜〜〜ッはぁぁぁあ…っ」





途端にぶわっと吹き出す冷や汗を、エルフェは肩で息をしながら拭う。



アジトに足を踏み入れた瞬間から……否、それよりもずっと前から自分を見据えていた“目”。

居場所どころか、殺気も気配も全くと言っていい程悟らせない視線。



エルフェとて暗殺者だ。
どうにか感づく事だけは出来た。

……けれど正直、勝てる気はしなかった。

礼を言いにいくだけだとまともな武装はしていない上に、相手は恐らくかなりの格上。追われたら逃げきれるかも怪しい。



そんなモノに始終監視されていたのだ。生きた心地がしなかった。

平静を装いはしたものの、隠しおおせていたかも自信がない。



全くなんてザマなの、とエルフェは深い溜息を吐く。

とその時、甲高い音で携帯が啼いた。
ヴァリアー支給の端末を開けば、そこには短いメッセージと位置情報。

歩いて程ない場所を指す赤いマーカーを目指して数分、エルフェは路肩に止まる黒のリムジンを見つけた。



側に控えた運転手がドアを開け、エルフェは中へ乗り込んだ。

そして向かいに座る人物に問う。





「こんな所まで出てきて、大丈夫なの?九代目」





穏やかに微笑むその老人こそが、ドン・ボンゴレ・ノーノその人であった。

報告ならちゃんとするのに、とぼやく少女に彼は柔和に笑んだ。





「待ちきれなくてね。君の口から直接聞きたかったんだよ」

「ふうん」

「それに今は君がいる」

「やめてよ、あたし今まともな武器持ってないんだから」

「おや、珍しいね」

「お礼を言いに行くのに武器なんか必要ないでしょ」





……最も、あたしの思い違いだったみたいだけど。

そうエルフェは心中で嘆息する。



先日の任務でエルフェは雀と交戦し……そして重傷を負った。

ともすれば利き腕を失う事になるかもしれない、剣士生命に関わる程の傷を全治一ヶ月に留めてくれたのは麻倉軌章……雀の参謀と恐れられる男だった。



下手をすれば左腕を切り落とさねばならなかったのだ。

お礼が言いたい、とエルフェは言ったが、任務で大失態を演じてしまった後……それも、敵と通じ油断した挙げ句の始末だ。

XANXUSが首を縦に振る筈もなかった。

けれどティモッテオが、あることを条件にそれに許しを出したのだ。



……それは、雀の意志、目的……その片鱗を掴む事。

……最も、スパイと呼べる程大それた物でもないが。 





「……九代目、あれは雀なんて可愛いもんじゃないわ。鷹でも生温い…まるであれはそう、ヒュドラとでも言えばいいのかしら」





エルフェも幼い頃、寝物語で聞かされた無数の頭を持つ巨大な怪物。



何が雀よ、とんだ化け物集団じゃない。



先程の緊張と恐怖を思い出し、またじわりと滲む冷汗に辟易しながらエルフェは言う。





「あれはかなりの手練れ揃いよ。…正直、あたしが本気出してもかなうかどうか」

「君にそこまで言わせるとは」

「全くよ、やんなっちゃうわ」





けれど、そう言いながらもエルフェは何処か楽しげに、「例えかなわなくったって…ただでは負けないわ」と呟いた。



死ぬなら喉笛を食いちぎってからよ、と彼女は爛々と目を輝かせる。

蒼銀の瞳に冷たい焔が宿る。
まるで残酷な心無い女神の様な美しい横顔に、老人は哀しげに微笑んだ。





「……けれど、彼らと争う理由はない。その必要はないよ」

「ええー、折角久しぶりに本気出せると思ったのに」

「あまり年寄りを心配させないでおくれ」

「はぁい」





少女が無事に“少女”に戻ったのを確認して、ティモッテオは運転手に「ヴァリアー本部まで」と指示を出す。



ぼんやりと外を眺めながら、エルフェはあの麻倉軌章という男を思い出す。



丁度目の前に座る老人の様に、柔和で穏やかな笑みを浮かべた男。

だがそこはやはり若さ故か、苛烈な油断ならないオーラを滲ませる彼はまるで、嵐を控えた海の様に静かで、人を落ち着かせない何かを持っていた。



獰猛な本性を上手に隠すことの出来る男。

一番危険で、そして苦手なタイプだ。
出来れば近寄りたくない。



……けれどエルフェは、左手の甲に溶ける様に触れた、酷く柔らかで甘美な感触をまだ忘れられないでいた。



……ちょっと乾燥してたな。

そう思い出してからエルフェは後悔した。



追い払う様にぶんぶんと頭を振って、銀糸をぐしゃぐしゃにかき乱す。

どうしたのかと問う老人に何でもないと返して、淡く染まる頬を隠すようにエルフェは窓を開けた。



……熱も感触も、中々消えてはくれなさそうだ。



ああもう、と呟いた声は風にかき消された。






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