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忘却のイデア
 

「レーテ」


冥府を流れる川と同じ名は、口にした直後であろうともそれを記憶することを許さない。


「タナトス、これでお別れなわけじゃなくてよ。
そんな顔をなられてはいけませんわ」

「うるさい、バカ姉貴」


宙に浮かぶ彼女がこれ以上離れてゆかぬよう、ぎゅっとその細い体を抱き寄せる。
ふわふわとした、俺と同じ色の髪がさらりと俺の頬にかかった。


「ホントに、姉貴はどうしようもないくらいバカだ。
バカでアホで、おせっかいで、いっつもなに考えてんのか全然わかんないし、ふらふらどっか行っちゃうし、」

「ひどいわ」

「こっちの台詞だ。
俺の気持ちも考えないで、勝手に、いなくなる。ふざけんな」


何故、俺の姉貴が消えなくてはならないのか、俺には到底理解し得ぬことだった。
いや、消えるよりもずっと悪い。
俺や、俺ら姉貴を知ってる者すべてが彼女を忘れなければならない。


「ごめんなさいね。
けれど、最初から決められていたことは、貴方も知っておりましたでしょうに」

「だからってあんまりだ」

「いいえ、納得せねばならぬ事物なのですよ。
それに、私はわたくしめの身よりも、貴方のこれからを案じますわ、タナトス」

「俺は、ただ終わりを与えればいいだけだ。
誰が死のうが、誰を殺そうが、俺には関係ない。それどころか、俺は俺自身を殺せない真実を抱える方が怖い。
レーテを忘れてしまえば、俺はこれから何を思い出して死ぬ事を望めばいいんだ?
俺は、忘れたくない」


俺らは元の形がないものだから、その役割を全能神から与えられた時こそはっきりと具現化できる。
だが、レーテはそれを許されることさえ忘れられてしまった。
あの全知全能の神達にさえ……

具現化できないものは、皆の中に帰るしかない。


「どうか、忘れてくださいな。
私は貴方の中に生きるのですから、離れ離れになるわけではないのです。
死は、誰にも忘れられるものではないがゆえに、私は貴方からは離れることが許されません。
ずっと一緒でしてよ」


――さぁ、離しなさい――

その言葉で緩んだ俺の腕の中からするりと抜け、彼女は水晶が割れるように散った。
最期の一欠片が、地に落ちる。


「レー    ・
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パリン、と何かが割れる音がした。
周りを見回すが、そこには何もない。

石畳でできた神殿の廊下には、何も置かれず、何も散らばることがない。
強いていうなれば、かつて大地母神デメテルが涙した時に床に落ちた雫達が成した花だけが、大理石の上で咲き誇っているだけ。

淡い花々は、どこか哀愁を漂わせる。



「なにか、」



大事なものをなくした、




そんな残留した思念を連れ去るかのように、俺の耳には、ただ川のせせらぐの音だけが聞こえていた。



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本当は忘れたくなかったもの。
たぶん誰にもいっぱいあると思います。

レーテは忘却を具現化したメガミサマ



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