凄まじい量の書翰を夜が明ける前に終わらせた吏部のエースたち。夜が明ければ久しぶりの休みが待っていた
「これも侍郎と侍郎補佐がいたから叶ったんですよ、拝ませて下さい!」
「まるで夫婦のような息のピッタリ具合に憧れしか生まれません」
「神ですか、あの2人は!」
様々な迷言を残して一人、また一人と吏部から生きる屍たちが消えていった。ここ何ヶ月も休みを貰えず籠もりっきり働きまくりでいたものだから更に荒れまくる吏部に少々同情した名前は、絳攸と共に『休みのためだ』と鬼教官の如くのスパルタで吏部のエースたちを従わせサクサク仕事を終わらせたという。まるで鬼のようだと散々ブチブチ文句を垂れていたのに、仕事が片付いた途端に崇められる不思議。それもまたいつもの吏部であるから気にする様子もない名前は、すべてが終わり机に残された書き損じの紙に休みが貰えたエースたちの嬉し涙の跡を見つけ微笑んだ
「ふう。なんとか皆さんお休みに間に合いましたね」
「ああ……」
「………寝ちゃいましたか」
名前に返事をした直後、ゴンという痛い音を響かせ絳攸は机に頭をぶつけそのまま死んだように眠りについたようだった。お疲れ様、と声をかけ吏部の入り口に視線を向け微笑んだ
「紅尚書の分も頑張ったんですからお屋敷に連れて行ってあげたらいいと思うのですが。一緒に帰るだけでも嬉しいものですよ」
紅い扇がパラリと音をたてた。多分この音は肯定の意味だと理解した。しばらくして絳攸を迎えに、いや、抱えにきたのであろう紅尚書の家人らしき人たちに、絳攸は連れて行かれてしまった。自分では抱えていかないんだ…と名前の紅尚書の株は少しだけ減少したのを黎深は知らない
「尚書らしいと言えばらしいですけどね。せめてこの室から抱えて出て行かれたら株少し上がったんですけども…まあ絳攸のうすらぼや〜っとした今の頭に一緒に帰ったと言う記憶が残れば上出来ですね」
誰もいなくなった吏部で一人伸びをする。すっかり片付いた室はこんなにも広かっただろうか…筆や硯、書き損じの紙など後片付けをしながら明るむ空を見た
「まだ残っていたのかい」
暖かい湯気を両手に抱えて藍色の衣を纏う楸瑛がひょっこり現れた
「後片付けをしなくては終わった事にはならないんです。知っているでしょ」
「うん。だから手伝いに来たんじゃないか」
両手に持つ湯気を纏う袋を空いている机に置き、サクサクと片付けていく。お陰でものの数十分で片付いた事を喜んだ
「お疲れ様。ああ、可愛い顔にクマが」
「お茶のおかわりいりませんか楸瑛」
「おかわりは欲しいけど、頭にはいらないなー」
「遠慮しなくてもいいのに、さあ」
「いや、本当に、いらないからっごめんってば」
急須を持ち上げ遠慮なく楸瑛の頭上にかざす名前の手を必死に止める。名前の笑顔が怖い……
「冗談はさておいて、妓楼に行ったとばかり思ってました」
「さっきまではね。いたんだけど君が気になって様子見にきたんだ」
少しやつれたように見える名前の頬を撫で優しく笑む。ゆっくりと手を離しそのまま湯気のでる袋を掴んだ。ガサガサと開ければ美味しそうな蒸し饅頭が姿を現した
「作ったんですか?」
「そうだよ、と言いたいけど違うんだ。作って貰ったんだ」
夜遅くまで開いていて尚且つ美味いと評判の屋台のおばちゃんに作って貰ったと言う。頑張る人に優しいおばちゃんは楸瑛の話を聞いて快く作ってくれたと聞いて名前は驚いた
女性にはマメマメしいくらいマメマメ男ですけど私にもマメ男だったなんて
程良い暖かさの饅頭を皿に盛りお茶のおかわりを2人分注いだ楸瑛。普段以上にニコニコする彼が可愛くて名前は思わず頬杖をつく
「ありがとうございます」
「私にはこれくらいしか出来ないからね。でもいくら君でも、働き過ぎだ」
渡された饅頭を受け取り静かに口にした。珍しく言い訳が思いつかず大人しくならざるを得ない。申し訳なさそうに上目で楸瑛を見た
「………気をつけます」
「うん」
パクリと頬張れば程良い甘さのアンコが体中に染み渡る。たわいない会話をしていて、ふと思った事を聞いてみた
「妓楼にいた、んですよね。抜け出してきたんですか?途中で引き上げたんですか?」
「ん?ちょっと出掛けてくるって言って出てきたよ」
散歩してくる、みたいな言い方ですね……
ケロリと言い放った。さすが藍様、自由すぎる……そう思ったがそれも楸瑛らしいとさえ思った。少し安心したのか、とろりと瞼が下がってきた。頭では眠くはないのだが体が眠りを欲しているみたいで、さすがの名前でも我慢ができずとうとう瞼を閉じてしまった…
「………寝た?」
コトリ、と机に手が落ち規則正しい寝息が聞こえてきた
「よかった」
食べかけの饅頭を袋に入れ茶器を洗い定位置に戻してから、そっと名前を抱きかかえ吏部を出た。待たせていた軒に乗り込み出発する
***
まだ陽も明けきらない早朝、花街に響く一台の車輪の音
「おかえり藍様」
「ただいま。早速で悪いが頼むよ、胡蝶」
「名前さんならいくらでも只で泊めてあげるよ。今日も特別に、藍様の分だけでいいよ」
あははと乾いた笑いをする楸瑛に、奥の部屋に運んでと恒娥楼に通された。さすが名前、胡蝶に会うまではしっかり男に見えていたのに。しかし恒娥楼に身を預けてしまえばどうだろう、見事に周りに溶け込み愛らしい女人に見えてくるから不思議であった
………ここで働いても性別バレないんじゃないか?
そう思っても口にはしなかった。前につるっと口を滑らせてしまった事がありボッコボコに殴られたのだ。それを思い出した楸瑛はすっぱい顔をして敷かれた布団に名前を寝かせ自分も隣に横になりめったに見れない寝顔を堪能する
***
「お目覚めかな。お姫様」
もぞりと身じろぎ瞼を開けたら目の前には楸瑛がいた
「………最悪です」
何故、楸瑛の腕に抱かれているのか
何故、楸瑛と寝ているのか
何故、恒娥楼にいるのか
見たことのある気品高い室内は恒娥楼だと確信。しかし何故楸瑛が……まだぼやける頭で考えれば
「………盛りましたね」
「働き過ぎだからね。私は悪くないよ」
饅頭に睡眠薬。気付かずに食べてしまい眠りに落ちてしまったのだ。盛られなければ、多分きっとあの後も片付けをしていたのだろうなと振り返れば、楸瑛がした事は多少強引ではあったが睡眠時間を作って貰ったと思えば許してもいいかと思えた
「ありがとう楸瑛」
楸瑛の腕ががっしりと体を覆い邪魔で起き上がれないため、僅かに動く腕を小さく動かして人差し指を楸瑛の唇に当てにこりと笑んだ
「ちょ、不意打ちはいけないよ名前…」
「え、なにっ!?不意打ちって何で…ちょっとどこ触ってるんですかっ殴りますよ!」
「もう殴ってるじゃないか…」
ガタガタと室の扉が勢いよく開き覗きにきた妓女たちが一斉に雪崩れ込んできた。寝台から飛び起きようと楸瑛の腕の中でもがくが寝起きでは力がうまく出ずいつまでもジタバタともがいていた
「おや。何か用かな」
雪崩れ込んだ妓女たちに微笑めばおほほほ〜と一目散に逃げていった。その直後に胡蝶が滑り込んできて逃げていった妓女たちを呆れた顔で見送った
「まったくあの娘らは。しょうがないね。おはよう名前さん。藍様の腕の中はどんな夢色だい」
「灰色です」
そう言い切り、苦笑を浮かべた。
そんな名前を眺めて胡蝶は惜しいねぇと呟いた。男だとはわかっていても妓女より女らしく見えてしまう不思議。店に出てくれないかなと願ってしまう
「もう少し落ち着いたら昼餉にしようか。準備をしておくよ」
「すみません胡蝶さん」
「お礼なら今夜店に出てみないかえ?」
「それはお断りします」
名前ににっこりと返された。胡蝶は惜しいねぇと呟いて室から消えていった
「もし君が店に出るのなら私が買うよ。毎日だって」
「だから出ませんよ。貴方こそ夢から覚めなさい」
ベシンと楸瑛の頭を叩きのそりと寝台から降りた。窓格子から覗く昼の陽が休みの体に心地良く降り注いだ
「急に休みになると、何をしていいかわからなくなりますね」
そう零した名前に楸瑛は腕を広げて微笑んだ
「おいで」
「嫌です」
にっこり拒絶する。しかしなんだかんだで言いくるめられ楸瑛の膝に座らされ楸瑛の腕の中におさまってしまっていた。トクントクン、心臓の音が心地よくて名前の瞼は再びとろりと閉じそうになる
「我慢しないで名前」
心地良い声が耳に響いた。それは昼餉を待たずに楸瑛の胸に背中を預け静かな寝息を立てるのに十分な効果だった。心地良い重さを体に感じ楸瑛も静かに眠りにつくのに時間はかからなかった
それは、ある休みの日だった
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