帰るつもりのなかった生家にいるだなんて一年前、いや数ヶ月前の自分は思いもしていなかっただろう。記憶の中の家がそっくりそのまま目の前にあり、数ヶ月経ってようやくシリウスは自宅にいることに慣れてきたくらいだ。
 ここにいると、昔のことが思い浮かんでは消えていく。弟のレギュラスが生まれて、その寝顔を覗き込んだのがシリウスの最も古い記憶。それからまだシリウスがブラック家の家風を理解できないことを理解するまでのしばらくは幸せだった気がする。あの時は無愛想だが無条件で頼れる父と優しい母がいた。本当にあの頃は幸せだった。けれどそれは長くは続かない。シリウスが知性を身につけてからだ。
 それからはこの家はシリウスにとっての地獄だった。眉間に皺を寄せて自分を見やる父に顔を引き攣らせて怒鳴る母、どうして理解できないのかと不思議そうな顔を浮かべる弟。そしてシリウスはこれっぽっちも理解できないが、父も母も弟もみなが疑うことなく信じている純血主義。嫌なことばかりが出てくるばかり、それだけでシリウス自身まで嫌な気分になってきた。
 好きだった母が嫌いになった。信頼していた父がひどくちっぽけなものに思えた。かわいい弟が得体の知れない存在に思えた。それを押し殺してまで家族のそばにいたいかと言われれば、そんなことは全くない。シリウスは子供ながら自分の人生は自分のものであると理解していたし、嫌いになった者達に指図を受けたくない。その思いが募ってシリウスはこの家から飛び出した。未成年はまだまだ幼い子供でまともな判断などできないと世間は言っているが、今のシリウスもそれは間違っていないと断言できる。
 友はみな自分の意見を尊重してくれて、先生達は自分たちのやることを叱りはしても体罰を用いて悪いことだと言い聞かせはしなかった。それは教員として当然のことであるのだが、それを考えるたびに自分の家族の異常性を何度も思い返した。その後友だと思っていた者に裏切りを受けて今でも大切な友が死に、自分は冤罪でアズカバンへ送られた。まさかその間に気の狂った母に自分のクローンを作られているとは思いもしていなかったが。
 その当人であるアルファードは自分の息子であるということにされて、最初は訳が分からなかった。およそ二年前に和解したリーマスにもいつ子供なんて作ったのだと問いつめられたものだ。だが当のアルファード本人はシリウスに悪感情など抱いておらず、あまつさえシリウスが望むなら自分を殺せなどというのだから、本来生理的に自分と同じ存在は受け入れられないものだろうがシリウスはアルファードを受け入れないことはできなかった。それはアルファードとウィーズリー家の双子が仲が良さそうな場面を見てからさらに彼がいなくなるのはいけないと思っている。その時のアルファードは表情に乏しいながらも彼らに対してどこか楽しそうに見えたのと、どうしてか学生時代の自分のような思えたからだ。かつての自分達ほど心を通わせているようには見えないのにもかかわらず。
 シリウスにとって、アルファードは家族ではなく、しかしアルファードはアルファードとして扱っていて、アルファードも同じように接している。自分の現し身として思うのはなんだか妙な気分になるから、そう思わないようにしている。

「アルファード?」

 そのまだホグワーツにいるはずの人影が見えた気がして、シリウスはふとその名を呼んだ。もう数日もすれば卒業試験でありN.E.W.T.の大事な試験があるはずで、これをアルファードはしっかり対策している時期だろう。まさか、とは思ったが振り返ってシリウスを見たその顔は自分と同じものだった。

「どうして、シリウス」
「なんでお前がここにいる?」
「少し思うことがあったからだ。それでシリウス、一住人としてお前の意見を聞きたい」

 この邸の守護を新しいものに変えようと思うんだが、シリウス、お前はどう思う?
 その言葉にシリウスは目を見開いてアルファードをじいと見た。アルファードが言っているのはこの邸が建って以来のとんでもないことだからだ。

「……この邸を作り変える気か?」
「ああ、それもいいな」

 声を上げはしないものの、おかしそうに笑みを浮かべるその様はシリウスも初めて見るもので、変なものを食べたような表情になってしまった。

「この邸の肖像画達はあまりにうるさいとは思わないか? それ以外にも不要なものが多すぎる」
「それには同感だが、どうやって剥がす気だ? 永久粘着呪文がかかっているだろう」
「だから言っただろう、守護の魔法を新しいものに変えると。ついでにそれらも取り払おうと考えている。内装を全て取り替えて、壁も壊せばさすがの肖像画も宙に浮いているわけにもいかない」
「どういう心境の変化があったんだ……」

 馬鹿馬鹿しいほどに真面だったアルファードがこんなことを考えるだなんて、何があったのだろうか。それとも目の前にいるのは偽物だろうか。もう自分と同じ顔を見るのは充分だ。

「ホグワーツを卒業したら、僕は“彼”の配下となることになっている」
「なんだと!?」
「ルシウスの計らいだ。僕が望んだことではない。……だから、その者共みなここに入らないようにするんだ。ご先祖様共の中にはそちらに話を伝える者もいるかもしれないから、肖像画達はこちらに利のあるもの以外は撤去する。たとえば、暖炉の上の一際大きな肖像画だ」

 アルファードがここまで確固たる意志を持つのは初めてで、しかしシリウスはそれを知らないはずなのにきっとそれは初めてなのだろうと察した。一年前にアルファードがシリウスを訪ねてきた時にはどこか所在のないような、今すぐにでも消えていなくなってしまいそうだったのが現在の彼にそれは見られない。アルファードがこのブラック邸を守ろうとするのはそれは、ここが自分の居場所とまでは言わなくとも大事な場所だと思っているからだろうか。それがアルファードにとってではなく不死鳥の騎士団の本部として大事だと認識しているからなのかはわからない。

「……それでお前は大丈夫なのか? 逆らった罰で殺されるかも知れない」
「それは、困るな。せっかく進路を決めたというのに」
「進路?」

 アルファードが言っているのは何のことなのか全くわからず、シリウスは彼の言葉を繰り返す。それにアルファードはシリウスにしっかりと視線を向けて、静かに笑みながら行った。

「ウィーズリー家の双子が、悪戯専門店を持っているのを知っているか?」
「ああ、ダイアゴン横丁に出しているんだろう? もちろん知っているさ。でもそれが何の関係があると?」
「その店の経理を僕に任せたいのだと。……別にそれは僕の夢ではないが、死喰い人となるよりはいいだろう」
「お前、奴らに殺されるかも知れないんだぞ」
「その時はその時だ。そう言っていても、僕があちら側に着くのはいけないんだろう?」
「当然だ」
「やはりそうなんじゃあないか」

 ふっとアルファードの口からかすかな笑い声に似た息がこぼれる。笑顔の作り方ひとつ最近まで知らなかったにしては彼の顔は自然で、人によっては美しいと形容する形を作っている。

「なんにせよ、僕は向こうには行かない。……そうすると、怒る奴がいるからな」

 どこか遠いところを見るようなアルファードの頭に浮かんでいる顔は同じものが二つ横並びになっている。そしてそれはシリウスにも見えた。

「そういう奴はかなりうるさいぞ。こちら側に戻ってくるまでつきまとって口出ししてくるだろうからな」
「ああ、今からその光景がすぐにでも浮かんでくる」

 シリウスとアルファードは全く同じ顔をしている、それは自他ともに皆が認める事実だ。だがシリウスはシリウスの、アルファードはアルファードの生き方を経てきているから全く同じ表情を浮かべることはないはずだ。けれど、今のアルファードとシリウスはよくよく似ている表情をしていた。自分の心の拠り所を見つけた安心感をまとったような顔。その二人は、二人の関係を何も知らない者が見たのなら間違いなく親子のそれだと思うだろう。

「アルファード、お前は自分で生きていきたいと思ってるか?」

「さあ、まだわからない」
「だがこの先生きていられるのなら、もし僕自身の願いがあるというのなら、僕はあいつらが夢を叶えるところを見てみたいとも思う」
「そうすれば僕がどう生きたいか、それも学べるかもしれないと思っている。それに、あいつらと一緒にいるのは思いのほか悪くはない」

「いい夢じゃないか。お前自身のことじゃないくても充分な第一歩だ」

 その言葉にシリウスは自分のことのように嬉しくなった。いつの日かシリウスがかけがえのない友と出会い、いつの日か彼らと一緒に入れる未来を夢見たあの頃を思い出したからだ。アルファードとシリウスは違う存在だ。だが、アルファードが同じようにこの家に囚われずにいられるのなら、それはシリウスにとっても嬉しいことであるのだ。

 アルファードがいつの日かこの鳥籠の楽園から放たれて羽ばたく日をシリウスも待ち望んでいる。




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