書斎を出て、向かい側に見える扉のノブに手を伸ばして回すと、その向こう側にはものにあふれた部屋があった。この屋敷の家具や装飾たちはすべて当主夫人の趣味であったらしい。レギュラスは扉を開けた先の装飾に満ちた部屋を見て、思わず眉を寄せた。レギュラスの好みと相反するものだったからだ。
 椅子ひとつ取ってもシルエットがすっきりとせず、レギュラス自身ならばもっとシンプルなデザインを選ぶ。これでもかというくらいにさまざまなデザインが彫られている背板には、なによりも座り心地の悪さを感じることだろう。窓を覆うように掛けられた繊細なレースのカーテンもおそらくかなり高価なものに違いない。しかしレギュラスはそういったものにはあまり興味がなかったし、そもそもこんな派手な部屋に長時間滞在したくはない。さっさと出てしまおうと後ろ手にドアノブを掴んで扉を押し開けようとした時だった。
 低めのキャビネットの上に写真立てがいくつかあることに気づいた。なぜか無性にそれが気になって、レギュラスはその写真立てのひとつを手にとった。

「……これは」

 それはこの部屋の主人、アステル夫人を中心とした闇の魔術の研究に携わる魔法使い達が集まっている集合写真だった。その中心で彼女はほほえんでいて、表情は朗らかに見える。
 そういえば、このアステル家は昔から闇の魔術の研究の中心にいたが、その中でもアステル夫人が研究を飛躍させたと言われていることを思い出した。彼女の功績のおかげで死喰い人の中でもそこそこのポストを得られたと言ってもいいほどだと聞いたことがある。きっと彼女は心から闇の魔術の研究が好きなのだろうと想像できる。ほかの写真も似たようなもので、研究者たちと自慢げに笑みを浮かべているものや、ホグワーツ在学中だろう頃のスラグホーン教授や同級生達と写っているものもあった。
 最後の写真立てに手を伸ばすと、その写真の中で彼女はライラの父と仲睦まじそうに寄り添って微笑んでいる。しかし、結局そこにライラの姿は見当たらなかった。
 家族写真はあってもその中にライラがいないことがどうしても気にかかった。なぜだろうかと考えながら写真を眺めていたとき、レギュラスはふとあることに気づく。ひとつの写真立てがそのキャビネットから落ちているのだ。床に落ちたそれは保護用のガラスが粉々に砕け、中身が飛び出してしまっていた。屈んでそれを覗き込むと、そこには若かりし頃のライラの両親と一緒に映る幼い少女がいた。おそらく幼い頃のライラだ。成長した彼女の面影もあるから間違いない。年齢にして五歳前後だろうか。
 写真の中のライラは満面の笑顔でこちらを見つめていて、ホグワーツ在学中の彼女とは似ても似つかぬ表情をしていて少し驚く。控えめにほほえむ印象があったのだが、この頃は違ったようだ。表情の管理は純血の家の娘たる教育の賜物なのかもしれないが、それにしてもこの写真の中のライラはあまりにも無邪気な笑顔に思えた。屈託のない笑顔で写真の外のレギュラスを真っ直ぐに見つめている。ライラの顔立ち自体は母親譲りらしい。二階の階段のつきあたりにあった家族の肖像画ではそれほど似ているとは思わなかったが、この写真を見れば納得する。やはり親子は似るもので、ライラの母はよくよく彼女に似ていた。とはいえ父親に全く似ていないということもなく、淡い瞳の色や髪の色は母ではなく父譲りだ。そのライラの父親も、彼女を抱きしめて優しげに笑んでいる。彼女の両親の表情には深い愛情が見てとれ、両親が健在であるレギュラスでさえうらやましいと思えるほどだった。
 この幸せが詰まった家族の写真だけがキャビネットから落下して割れてしまったのはさぞ残念なことだっただろう。けれどもどうして魔法で直さずにこのままにされているのだろう。疑問を感じつつも杖をひとふりして写真立てを直し、元の位置に戻そうとすると不自然な空間があることに気づいて手が止まった。
 キャビネットの上の写真立ては一定の間隔を空けて一列に並べられている。しかしこの写真立てがかつてあったはずの隙間は、端ではなく中央近くにある。風のいたずらや何かに触れて倒れてしまったとは考えにくい。まるで誰かが意図的に動かさなければ、意図して壊そうとしなければ先ほどの状態にはならないはずだ。

「……これを、わざと壊したのか」

 レギュラスと同じこの屋敷の侵入者が写真立てを壊したとは思えない。どうして他の写真は無事なのに、わざわざこの写真立てだけを狙った理由はなんなのだ。無意識ならば不自然で、故意であればさらに不可解だけれど同時に納得もできてしまう。外からの侵入者よりも、内部の人間がなにか思惑をもって壊したと考える方がよほどしっくりとくる。では誰がこんなことをしたのか、そう考えた瞬間、その答えを導き出す前に頭が否定する。まさか、そんなはずはない。この写真立てを壊したのは、部屋の主人であるライラの母親だなんて。
 だってこんなに幸せそうな家族じゃあないか。純血の中心的な存在を誇るブラック家の嫡子であるレギュラスでさえうらやんでしまったくらいの家族だというのに、それを破壊しようなどと思うわけがない。きっとこれはたまたま倒れた拍子に壊れたのだ。そうでなければ説明がつかないではないか。
 そう思いながらも、頭のどこかで冷静な自分がその仮説に納得している。あの、皿が用意されていなかったライラの席。思い返せば、クリスマス休暇明けに家族と思われる相手に頬を張られていたこともあった。そういえばあれはいつのことだったろうか。幸せそうなアステル家の偶像がレギュラスの中でがらがらと音を立てて崩れていく。

 ライラはこの家で何があったのだろうか。考えれば考えるほどその謎が解き明かされそうな予感と、それを知ってしまったらもう戻れないのではないかという不安が入り混じる。それでも知りたい気持ちの方が勝ってしまった。
 レギュラスは夫人の私室を出て、向かい側のドアを見つめる。
『ライラ』
 扉に掘られたそれは彼女の名前。ここがライラの私室であった。





 彼女の思い詰めたような表情を見たのは、七年目のクリスマス休暇が明けた日だった。レギュラスもクィディッチを引退し、ホグワーツ最後の試験のために勉強漬けの毎日を送っていた頃だ。スラグホーンの気に入りであったレギュラスが「ひとりで勉強に集中できる場所がほしい」とお願いしてこの一年間優先して借りることができた魔法薬学の準備室にライラも招き入れ、二人で勉強していた。その時に、彼女の底の見えない瞳を見た。
 ライラは両親から、レギュラスがうける試験を受けなくてもよいと言われたらしい。それは彼女がまともな職につくことを諦めているのか、それともアステル家の後継なのだから職につかずともよいと思っているのだろうか。それは知らないが、ライラはレギュラスや他の生徒ほど勉強に打ち込む必要はないようだ。ただ、ずっと切羽詰まったような顔をしているのだ。気にならないと言えば嘘だ。けれど、聞いてしまったらライラはいつものような笑みを浮かべ、レギュラスの前からいなくなってしまいそうな気がして聞くことができず、ずっと教科書から視線を外せない。臆病なのは重々承知しているが、知り合って七年も経つというのにいまだに彼女に踏み込めない自分が情けない。

「レギュラス。私ね、少し悩んでいることがあるの」

 しかし、ライラ自身の方からレギュラスに声をかけてきた。よかった、これで彼女に話しかける正当なきっかけができた。レギュラスはホッとしながら、しかしなんでもないふうを装い視線を教科書から離さないままこたえる。

「悩みって? 卒業後の話かい?」
「そんなようなものかしら」

 彼女の悩みというのはレギュラスの想定していた回答のうちのひとつで、他愛のない質問にしては表情が見合っていないが、とりあえず話を聞いてみることにする。

「私ね、やりたいことがあるの。いいえ、やらなくてはいけないことかしら。けれどためらいもあって、迷っているの」

 やりたいことというのは、N.E.W.Tを受けなくてもできることなのだろうか、と疑問に思ったが深く突っ込んで尋ねてしまえばまた彼女は口を閉ざしてしまうだろう。だからそのままなにも言わないままでいた。話を聞く限り、どうやら彼女の悩みというのは彼女自身の人生に関わる重大なもののようで、進路に関する相談とはわけが違うようだ。それがなんなのか、レギュラスは知らない。そもそも彼女の好きなものすら知らないのだから未来像だって知らなくて当然だ。

「へえ……どんなことなんだ?」

 さもたった今興味が湧いたとでもいうふうに、視線をあげてライラに尋ねる。するとライラは少しだけ躊躇いがちに口を開いた。

「私の家の問題で、はっきりは言えないの。けれど、もし実現できたなら……いいえ、実現しなければならないことだと思っているわ」
「そうなんだ……」

 あまりにぼかした表現にレギュラスは思わずうつむく。ライラはたった今話している悩みの真相をレギュラスには教えてくれないのだ。それが悔しくて寂しい。

「……やっぱり、私では無理かしら」

 ライラのその少し消沈した声に、本当は聞き返してやりたかった。僕では君の助けになることは無理なのか、と。けれどもそれを声に出すことはなく、顔を上げて彼女の顔を見つめた。

「君がなにをしたいのかはわからないけれど、僕は応援しているよ」

 正直に言えば、君がなにをしたいのかを話してくれればさらに具体的に相談に乗ることができるのに、と言外に込めていたのだがそれが届いたかどうかはわからなかった。それでも彼女が安堵したように微笑んだからきっと大丈夫だと思うことにした。

「ありがとう、レギュラス」

 ライラがそう言ってレギュラスに向かって笑っただろうということはなんとなくわかったけれど、けれどなんだか、恥ずかしくて目を合わせられなかった。顔を背けなければレギュラスのその表情を見られてしまっただろうから。


 それがライラと顔を合わせた最後になるとは知らずに。それを知っていれば、あんな馬鹿なことはしなかったのにと今でも考えている。


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