客人を迎える応接間はこの無人の屋敷の中では比較的綺麗なままだった。蜘蛛の巣が張る壁やほこりがつもった床はやはり他の部屋と同じく荒れ果てているのだが、腰かければ柔らかだろうソファや机の上の花瓶などは埃をかぶっているものの割れたり欠けたりしている様子はない。最悪、調査が長引いた時にはここで眠り夜を明かすことができるだろう。……なんとなく、かつて主人がいた部屋のベッドでは夢見が悪いだろうと思っているから、寝るならばここだと決めた。
 時計を見れば短い針は左にきっかり九十度だけ傾いている。屋敷の調査を行ってから数時間が経過していおり、窓から差し込む光はすでに藍と黒が混ざった色に染まっていた。ちょうどミニテーブルに置いてあった古めかしいランタンに火を灯すと、室内がぼんやりとした橙色の明かりに包まれる。
 この数時間で目立った成果はなにもない。それは闇の帝王からの指令も、レギュラス自身の抱く謎の解明にも全く進展がないということだ。しかし焦っても仕方がない。ただ昔のことを思い出しつつ、念入りに調査をするしかないのだ。
 ふと窓の外を眺めると、木々の隙間から湖が見え隠れして、雲の切れ目からのぞく月や星を映してきらきらと輝いている。その景色に見惚れて、レギュラスは思わず視線を止めた。亡き知り合いの家でこんなにも凪いだ気持ちになるのはおかしいとは思うけれど、不思議と心地よい。

「君もそう思っていたのかな、ライラ」

 窓の向こうは雲のかかった星空と湖だったけれど、窓には反射するレギュラスと、その隣にライラの姿があった。つい隣を向くも、彼女はそこにいない。鏡の向こう側にだけいる彼女に向けて語りかけるように、レギュラスは口を開いた。
 ライラは首を縦にも横にも振らず、じっとレギュラスを見つめ返していた。







  天気のいい休日の中庭で、兄のシリウスと喧嘩をした。
 口論の火種は、二人の両親から届いた手紙をシリウスが目を通すことなくレギュラスの前で破り捨てたことだ。しかしその手紙はブラック家の嫡男として相応しくない行動を取り続けるシリウスをたしなめるもので、そもそもこれほどまでに両親がシリウスに対して厳しく当たるようになった原因は、彼が周りの期待を全て放り捨ててグリフィンドール寮に入ったからである。

「どうして父上と母上を悲しませるんだ、シリウス。ふたりがどんな気持ちでいるかわからないのか」

 感情を制御しきれないレギュラスは荒くなる声を止められないままぶつけた。対して、シリウスは淡々と答える。

「僕の考えなんてわからないだろ、少なくともレギュラス、お前には」

 この時点でシリウスに対話の意思さえなく、レギュラスは怒りとともに悲しみ、困惑さえ覚えていた。同じ血を分けた家族なのに、どうしてこんなにも分かり合えないのだろうか。同じ家族なのだからいずれはわかり合えるはずなのだと、愚かにもそんなことを必死に考えていた。
 けれども両親の失望や悲しみ、苦しみなんてシリウスにとっては些細なことで、しかしレギュラスにとってはとても大切なことだった。逆に、レギュラス達から見ればほんの取るに足りないことだとしてもシリウスから見れば無視できないこともあっただろう。たとえ兄弟であろうともそれぞれに思想があり、考え方が違うのだと、そんな誰かにとっては当然のことをレギュラスはまだ理解できないでいた。

「……ああ。シリウス、あなたの考えていることなんて僕にはわからない。……あなたは、僕の兄なんかじゃあない」

 わかり合えない、つまりは血がつながっていないようなものだと勢いに任せて口から出したこの言葉は忘れたくても忘れられないほどに覚えている。そしてシリウスの、呆然とした顔も。きっと、その言葉を口にした後悔したは後にも鮮明に覚えているだろうけれど、その場で謝ることなんてできなかった。

「……そうかよ」

 それだけ言うと彼は冷ややかな視線をレギュラスに向けた後に足早に去ってしまい、後に残されたのは凍りついたように動けないレギュラスだけだった。
 あんな言葉をシリウスにぶつけるつもりはなかったのだ。本当はなんとかシリウスと両親の仲をとりもって、わだかまりを消して、ふたたび仲の良い幸せな家族に戻りたかった。けれどもレギュラスにはできなくて、あまつさえ、ひどい言葉をぶつけてしまった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分はただ、シリウスが両親に逆らって家から離れようとするのが悲しくて、引き留めたかっただけなのに。
 ぐるぐると頭の中で後悔だけが渦を巻いていて、いろんなことが同時にレギュラスを責め立てる。なにも考えられないまま、力なく近くのベンチに座り込んだ。三年生以上の生徒はほとんどがホグズミード村へ向かっているためにレギュラスの無様な姿は多くの人に見られずにすんだのだが、まだホグズミードに行けない下級生たちはちらりとレギュラスに視線を向けて、目をそらしてはそそくさと立ち去っていく。普段ならばその態度に苛立ちを覚えるはずだが、今のレギュラスにはその気力もない。ただぼんやりとどこか遠くを見ているようで、しかし何も見ていなかった。

 ぽつりとレギュラスの肩を一粒の水滴が濡らした。ふと空を見上げればどんよりとした雲が垂れ込めていて、さっきまで晴れていたはずの青空を隠してしまっている。雨足はわずかに強くなってきているけれど、それでもそこから動く湧いてこない。このまま濡れてももう構わないとすら思えた。

「……レギュラス? こんなところでどうしたの……あなた、大丈夫?」

 心配を濃縮したような声が聞こえて顔を上げれば、そこにはライラの姿があった。雨除けの魔法を使っているから彼女は濡れてはおらず、それになんだかほっとする。

「なにかあったの? いいえ、それを聞くよりも先に屋内へいきましょう。……ほら、やっぱりあなたの手、とても冷たいわ」

 ライラはレギュラスの濡れた手をそっと握ると、そのまま歩き出した。彼女の体温で手があたたまっていくのを感じながら、レギュラスは何も言わずに引かれるままについていく。先ほどまではあんなに力が抜けてベンチから立てなかったというのに、今はそれが嘘のようにしっかりと歩けていることに気がついた。

 温室のドームの中に入るまでライラが足を止めることはなかった。雨が降っているにもかかわらず太陽光が降り注ぐそこは、まるで草木が花開く春のようだ。ようやっと立ち止まったライラは振り返ってレギュラスに杖を向け、彼の身体へ乾燥呪文をかけた。レギュラスがこの魔法をかけると時間と効率を求めるためにどうしたって暴風を吹き当ててしまうのだが、ライラの杖から吹く風は彼女自身をあらわしているように穏やかだった。

「ごめんなさい、勝手にここまで連れてきてしまったわ。でも私と話しているあなたの姿を他の人にはあまり見せない方がいいと思ったの」

 ライラはそう言って少し困ったように笑みを浮かべた。

「いや……ありがとう。確かに僕の家を疎む生徒からすれば、僕が雨に濡れた無様な姿はきっと格好の餌食になっていたと思う。君のおかげで助かったよ」

 この言葉は事実だ。先ほどの打ちひしがれていたレギュラスはそこまで考えが及ばなかったのだが、別の寮にも、そして同じスリザリン寮にもブラック家を邪魔者扱いする家はいくつもある。その者たちに見られでもしていれば、あとで何を言われるか分かったものではない。

「……なにか、あったの? 私ではあなたの力にはなれないかもしれないけれど、それでも心配よ」

 何事もなかったかのように振る舞うレギュラスだが、ライラの顔は晴れない。これでは先ほどレギュラスにあったことさえも筒抜けなのかもしれない。
 彼女は優しい。確かに純血の家の娘だとしても、彼女の性格はスリザリン向きでは決してない。それこそ、愚鈍なまでにお人好しで温厚なハッフルパフがよく似合う。

「……兄と、少し口論をしたんだ。僕が感情を抑えきれずに心にもないことを言ってしまった。それを勝手に後悔していただけだよ」

 こんなことを彼女に話しても仕方がないと思いながらも、レギュラスは気がつけばうつむきながら自分の心情の一部を話していた。きっと彼女があまりにも優しいから、言うはずもなかったことを吐露してしまったのだろう。レギュラスの言葉を聞いたライラはそっと目を伏せて小さく口を開く。

「少し、わかるわ。その気持ち」

 そう言ったライラの声は聞いたことがないくらいかたく、驚いてレギュラスは彼女を見つめた。
 レギュラスの視線に気がつかないライラは、その顔に表情を浮かべていなかった。仮面を被っているかのようで、瞳の奥だけがゆらりと揺れている。レギュラスは自分の心臓が大きく脈打ったような感覚に陥った。
 しかし、レギュラスに無言で見つめられていることに気づいたライラは、すぐにいつものような明るい笑顔を見せた。まるで、つい今しがたの無表情の顔など浮かべていないと言いたげで、レギュラスはそれについて言及できない。けれど、今の一瞬の出来事を幻だったとは思えなかった。彼女は確かに何かを隠していて、それはきっと触れられたくない部分なのだろうということも感じ取れてしまったのだ。なぜだかわからないが、触れてはいけない部分を暴いてしまいそうな恐怖が襲ってきて、レギュラスはそれをごまかすように口を開いた。

「君にも同じような経験があるのか?」
「ええ、家族とね。……私がハッフルパフに入った時からあまりわかり合えないことがあって。時には感情的になってしまって、心にもないことを言っては後悔してしまうのよね」

 ライラの話に、レギュラスは彼女の家庭環境を思い出した。スリザリンに入ることを望まれていたのにハッフルパフに入ってしまった彼女に対して彼女の家族の反応は容易に想像がつく。きっとレギュラスの両親のように、失望や落胆したに違いない。数年前、レギュラスの兄も同じようにスリザリンに入らなかったときにレギュラスたちも同じような経験を味わっているからだ。

「私は家族を愛しているし、家族も私のことを愛してくれているのは痛いほどにわかっているのにね。でも時々どうしようもなく寂しくなってしまうのよ」

 そう言ったライラは眉を下げて困ったように笑っていた。レギュラスはそんな彼女をじっと見つめる。境遇はシリウスとよくよく似ていても、彼女はシリウスとは全く異なるように感じる。それは性格の違いでもあるかもしれないが、ただそれだけではない。

「君の家の事情はよく知らないけど、それでも君はまだ家族と話せばきっとわかり合えるよ」

 レギュラスの言葉にライラは目を見開いた。そしてふっと息をつくとどこか眩しいものを見るような表情でレギュラスを見た。

「……ありがとう。本当はあなたを励ましたかったのに、逆に励まされてしまったわ」

 レギュラスはその言葉を聞くと少し照れくさくなって視線を逸らす。その時に深く沈んでいた気持ちがいつのまにか浮上していることに気づいた。
 ライラはハッフルパフに入ってしまったけれど、それでも家族を愛しているのならばシリウスとは違う。きっと彼女は家族との関係を修復することができるだろうとレギュラスは思った。それも、ライラのやわらかな笑顔でなぜか吹っ飛んでしまったけれど。


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