来客のない玄関の扉だけをただただ映し続けている鏡を一瞥したのちに奥へ進むと、そこそこに広い空間がレギュラスを出迎えた。複数のソファが小さなテーブルを囲み、その近くには暖炉があり座って安らぐ人を暖めていたことだろう。壁際には彫りの深い木棚に名のある職人が手がけたティーカップやポットが飾られている。きっと在りし日には窓から光が差し込み、一家で団欒としたひと時を過ごしたに違いない。だが今は、そのすべてが埃を被っている。
 当然暖炉の火は消えているが、雨に濡らしたわけでもない。あつらえ向きに薪も多少の準備があるままで、すぐにでも使える状態だ。レギュラスは薪をくべてからコートのポケットから杖を取り出して一振りすると、たちまち火が上がる。この屋敷に入る前に、レギュラスがあかりをつけようとマグルはもちろん魔法使いでさえ気づかないような工作をしてきたから、身体を暖めるために暖炉を使っても問題はないだろう。冬の寒い中、任務でここにいるのだから家主も文句は言えまい。
 そうしてひとり掛けのソファに腰を下ろし、レギュラスは燃える炎を見つめながらここにかつていただろう知人、ライラのことを思い出した。







 彼女はアステル家の一人娘だ。純血の一族であり、魔法界でも有名な資産家のひとつでもあるアステル家のことは、ホグワーツに入学する前からよく知っていた。両親に連れられて出席したパーティーは立派で、その間に話した家だったから印象に残っている。
 ライラはどこか浮世離れしていた。まるでジェリーフィッシュのようにふわりと空気を纏って歩くたびにドレスの裾が踊り、同じように揺れる髪が綺麗で、レギュラスは見惚れてしまった。どこかを見つめる横顔が大人びているようで、それでいて何にも染まらない純粋さを持つ無垢な少女のようでもあった。そばに両親と兄がいたレギュラスは結局ライラに声をかけることはなかった。
 それが恋と名付けられるような感情があったのかはわからない。しかし、一年後彼女と同じ学校に通えるということにほんの少しだけ心がそわそわと落ち着けないでいた。
 次に彼女を見たのは、レギュラスがホグワーツに入学した日。レギュラスが最初の方に名前を呼ばれて組み分け帽子をかぶり、早々にスリザリンへと組み分けられた時、新入生が集まる大広間のテーブルに座っていたライラを見つけた。レギュラスは彼女を一目見ただけでわかった。しばらく前に同じ寮で学生生活を送ることを期待したあの少女だと。

「ハッフルパフ!」

 しかし、ライラはレギュラスと同じ寮にはならなかった。組み分け帽子が叫んだのは凡庸な生徒が行き着く先だと言われるハッフルパフ寮の名前だった。レギュラスはそのことにひどく落胆し、失望してしまったのだ。
 ライラに失望したのはレギュラスだけではなく、他のスリザリン生も同じだったろう。次の日からさっそく授業が始まったのだが、彼女が廊下を通るたびに充分聞こえるだろう声量でライラの悪口を言っていた上級生たちもいたくらいなのだから。しかし当のライラはそんなことを気にも留めずにただ風に流されるように、ほほえんで通り過ぎていた。

──そんな少し前のことを思い出しながら、レギュラスは目の前のライラになんと声をかけていいものかと思案していた。頬に腫れた跡と傷がついているライラはひとり、ホグワーツの湖のほとりで膝を抱えて座っていた。
 どうして自分は話をしたこともないライラと同じ場所にいるのかといえば、偶然だ。この場所はクィディッチを観戦するには良い穴場で、今日はスリザリンチームとレイブンクローチームの年明け初の試合があるためレギュラスはこっそりと試合を眺めるために、寒くないようコートやマフラーなどを着込んでここにやってきたのだ。
 そこにいたのがライラだ。ホグワーツ内ではひとりでいることに何も不都合などないというかのようにあふれる存在感を隠すことなく歩いているというのに、この湖のほとりではそうではなかったらしい。ひっそりと静まり返った湖の水面を見つめたまま、時折ふるふると寒さに身体を震わせる時以外は動こうとはしなかった。
 最初は無視してしまおうと思っていた。自分が興味のあることはクィディッチの試合であり、それ以外のことには目を向ける必要もないと考えていたからだ。けれど、どうしても目が離せなかった。湖面を見つめる彼女の瞳があまりにも寂しげに見えたせいかもしれない。もしくは、泣いているようにさえ見えてしまったからだろうか。

「……痛い?」

 気がつけばレギュラスは彼女に声をかけてしまっていた。自分でもなぜ話しかけたのかわからない。けれど、気づいた時にはその言葉を口にしていて、ライラは驚いた様子もなくこちらを振り向いた。
 まさか誰かがいると思っていなかったのだろう。ライラはレギュラスの姿をまじまじと見て、それから自分の頬に触れてから、困ったような顔をする。涙の跡こそなかったが、赤く腫れていただろう頬が痛々しかった。

「……私と話そうとする人がいるなんて思っていなかったわ」

彼女は静かにつぶやき、また視線を落とす。レギュラスはそのすぐ隣にしゃがむと傷をまじまじと観察する。引っ掻き傷のようなそれはおそらく彼女の家族がつけたのだろう。家族の顔にこんなひどい跡を残せるなんて、想像するだけでも怒りが湧く。

「痛くはないわ。ただ、跡が残っているだけ」
「君の顔にこんなことをするなんて、アステル家はいったいどんな教育をしているんだ? 僕なら許せないけど」

レギュラスの言葉を聞いてライラはふっと笑う。そして自嘲気味に言った。

「どうせすぐに治るものよ。それに、スリザリンの適性がなかった私なんてきっと両親には要らないものよ。だから、仕方ないわ」
「そんなことは……」

 ない、とは言い切れなかった。レギュラスの両親はレギュラスのことを愛してくれていると思うが、レギュラスがスリザリンではなければ愛してくれないのだと思う。グリフィンドールに入った兄が親戚一同から長らく責められているのがその証拠だ。そんなことはないのだと彼女に言い切れない自分にレギュラスは苛立った。

「私のことを気にしてくれてありがとう。……ええと、あなたは確か……」
「レギュラス・ブラック。レギュラスでいい。君は?」

 本当はライラのことは入学前からよく知っている。けれどもそれを伝えるのはなんだか気恥ずかしく感じた。まるで自分が彼女に興味があるみたいではないか。

「ライラ・アステルよ。違う寮の人と話すのは入学して初めてね」

 そうとも知らないライラは素直に名乗ると、レギュラスに笑いかけた。その時強い風が吹き、ライラはふるりと身を震わせた。見ればライラの鼻は赤く、もう随分長い時間ここにいるようだ。レギュラスは巻いていたマフラーを解いてライラに巻きつける。突然レギュラスが近づいてきたことに驚いたのか、ライラは大きく目を見開く。

「……ほら、これで寒くないだろう」
「ありがとう」

 やわく微笑むライラとは対照的にぶっきらぼうに言ったレギュラスだったが、本当はもっと言いたいことがあった。

──首に巻いた緑のマフラーが黄色のそれなどよりもよくよく似合うと。
 そんなことを言えるはずもなかったけれど。


- ナノ -