レギュラスは杖を持ったまま、玄関ホールへと戻ってきた。扉のサンライトからは朝日がしっかりと差してきていて、当主の部屋にいた時よりも日が昇って空が明るい。この屋敷に入って真っ先に足を止めた大きな鏡の前に立つと、自分の姿がはっきりと見えた。

「……ライラ」

 レギュラスは鏡に映った自分の姿を見つめてから、そっと彼女の名を呼ぶ。当然返事はない。この杖を見つけてからこの玄関ホールに移動するまでに彼女の姿はまるきり見えないままだ。
 彼女はきっと来ない。それでも呼ばずにはいられなかった。

「これを、折ればいいんだろう」

 彼女はまだこの屋敷にいる。この杖が効力を保持している間、ライラはこの屋敷にずっと縛りつけられているのだ。だからこれを折ってしまえば彼女の残渣も消え失せる。レギュラスは根拠もないのにそれをなぜか理解していた。

「……もう君は死んでしまっているのに、それでも君と離れがたいと思ってしまうんだ。馬鹿だと笑ってくれ」

 鏡の向こうには自分ひとりの姿しか見えないけれど、それでもレギュラスは鏡に向かって話し続ける。

「君とまた会えてよかった。僕がここに来たことであの魔法が世に放たれなくてよかったとも思っている。ただ、君の生家を踏み荒らしてしまったこと、君の記憶を覗いてしまったことは謝るよ」

 そんなことをしても彼女に対する贖罪にはならないとわかっていても、謝罪の言葉を口にするしかなかった。彼女がここにいるという確証すらないというのに、レギュラスはそうせずにはいられない。

「もう夜が明けた。さよならだ、ライラ。この屋敷も僕の後の侵入者が出ないように、ここで燃やしていくよ」

 最後にもう一度だけ会いたかったなと思った。しかし、それも叶わぬ夢だろう。
 そうして杖を折ろうとした瞬間。

「……!」

 鏡の向こうでふわりとなにかが揺れた気がした。レギュラスが顔を上げると大鏡の向こう側にライラの姿がある。こちらに手を振り、寂しげな笑みを浮かべながら口を動かしているようだ。声は聞こえず、その口の動きもこの距離ではわからない。レギュラスはライラのその表情を見て、胸の奥から突き上げるような衝動を覚えた。今すぐにでも彼女を抱きしめたくなってその場で右手を杖から離して伸ばす。しかし指先は鏡にすら虚しく宙を切るだけで、届いたとしても彼女に触れることはない。空振りの手を下に下ろし、唇を引き結ぶ。
 すでにライラの姿はない。つい今しがた、彼女との今生での本当の別れをしたばかりだというのに、再び会いたいと願ってしまう自分が愚かしいと思う。けれど、ここで決断しなければライラはずっとここでさまよい続けるだけだ。レギュラスはふたたび杖を手に取る。そして大きく息を吸うと、手に力をこめて思い切り杖を折った。
 杖はあっけなく真っ二つになった。あたり一面に光が飛び散ることも、ライラの声が聞こえることもなく、レギュラスの長い長い夜は一瞬にして終わりを迎えた。これですべてが終わったのだ。
 レギュラスは玄関ホールの重い玄関扉を開け、日の照らす地面へ踏み出す前に玄関ホールを振り返る。そうして全身鏡からあえて視線を外し、床に向けて杖を振った。放った炎は瞬く間に燃え広がり、いずれ屋敷全体を覆いつくすほどの大きさとなるだろう。燃え広がっていく屋敷を見つめながらレギュラスは目を閉じて静かに呟き、レギュラスは後ろ手に玄関扉を閉めた。

 さよなら、ライラ。


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