しばらくの間、レギュラスはライラの日記の前から動くことができなかった。だらりと四肢は脱力して、けれど視線は日記の最後のページから離すことができない。それなのに脳裏にはライラの顔が消えなくて、彼女の声が耳の奥にこびりついて離れないのだ。

「……君の本心に気づけなかった僕を馬鹿だと笑ってくれるか、ライラ」

 闇の魔術の研究をしているアステル家にいるのだから、ライラももちろん闇の魔術に通じているはずだと信じて疑いもしなかった。しかし違ったのだ。彼女は純血主義でもなんでもなく、シリウスと同じように家族と思想が異なる、けれど家族と一緒にいたかっただけの普通の女の子だった。そんなライラのことをレギュラスはずっと勘違いしていたのだ。

「僕は君を傷つけていたんだろうな」

 日記を閉じて、その裏表紙を指でそっと撫でる。目を閉じるとあの日のライラの言葉がよみがえってくるようでじんと目頭が熱くなるようだった。
 ライラが家族を愛する気持ちは真実だ。それなのに家族と同じ思想を共有できないというのはどれほどつらいことだろう。そして自分の考えや思いを相手に理解してもらえないと知ったときの悲しみはどれほどのものだろうか。もし自分がその立場ならと思うだけで胸が締めつけられるようだ。互いに思い合っているのに、全てを肯定できないのはどれほどの悲劇だろうか。レギュラスにはその全貌を完全に理解することはできない。レギュラスがその立場になってしまうことがあれば、痛いほど理解できるのかもしれないけれど。
 きっと、レギュラスはライラをたくさん傷つけてきたことだろう。無知で彼女の気持ちを顧みることのなかったレギュラスは、彼女がどれだけ苦しんでいたのか想像することさえできなかった。どうして今までライラの本心に気づくことができなかったのかと悔しくてたまらない。
 けれど、ライラのことを気にしてやらなかったレギュラスのことを、彼女は光であると綴っていた。そんなはずがないのに。本当に光であったならば、きちんとライラ自身を見て、話を聞いて、そして異変に気づけていたはずだ。
 違う、そうじゃないんだ。僕はそんな大層なものなんかではなくて、ただ単に傲慢なだけだったんだ。君のことを理解しようとしていなかっただけなんだ。自分勝手に君の隣人であるふりをして、本当はなにひとつわかっていなかった愚か者なんだ。
 日記の表紙に触れると、ざらりとした表紙の感触が指先に伝わる。この日記を書いた少女はどんな思いを込めてこれを書いたのだろうか。なにを思って彼女はこれを書き記したのだろうか。……ライラの思いを垣間見たばかりだというのに、すぐにわからなくなってしまって、喉元が引き絞られるように痛むような気がした。

 レギュラスは重い足取りでライラの部屋を出た。日記は彼女の部屋のデスクの上に置いたまま、部屋の扉を閉めるのも忘れてそのまま廊下に立ちすくむ。ライラの足取りを追うためにここまできたのに、決意が揺らいでしまいそうだった。自覚した途端にライラに顔を向けることができなくなって、どうすればいいのか分からなくなってしまったのだ。
 ふと視界の端でなにかが動いたような気がして顔を上げると、廊下の壁にかかる絵画、その光の反射の中にライラがいた。唯一その場の光源である階段の明かりと黒が基調の絵画によって彼女の後ろ姿が鮮明に見える。ライラはじいとレギュラスを見つめていたが、ゆっくりと背を向けて廊下の先へ歩いて遠ざかっていく。そうして廊下の突き当たりにある扉を開けて、するりと身を滑り込ませて音もなく姿を消した。レギュラスは額縁に入った絵画から視線を外し、廊下の先を見た。そこはライラの父、アステル家の当主の部屋だ。レギュラスはライラが入っていったそこに近づき、扉を開いた。

 その部屋は上質なアンティークの調度品や骨董品が多く飾られていた。きっとライラの父、もしくはライラの先祖の趣味だろう。なぜか部屋の中に窓がないようで、レギュラスの杖から放たれる光の当たる場所しか見えない。
 部屋の明かりに光を放ると部屋の中の全体が見えるようになった。よく見えるようになった部屋の中で気になったのは窓のあるべき場所に取りつけられている大きな鏡で、もっとも目に入ってくるのはそれに映るレギュラスの隣に立っているライラの姿であった。はっとしてレギュラスは自分の隣を見るも、そこに彼女の姿はない。ただがらんどうの空間があるだけだ。無意識のうちにレギュラスは壁に近づき、そっとその鏡の表面に触れた。無機質につるりとした感触のそれはレギュラスの手が鏡の向こうに行くことを阻む。同じようにレギュラスのいる壁に近づいてきたライラもこちらに手を伸ばすが、ふたりの手が重なることはなく、やはり届かない。

「ライラ」

 名前を呼ぶと、彼女は悲しげに眉を下げてレギュラスを見つめる。そうして、彼女の唇が動いた。レギュラス、と。声は聞こえない。彼女はもう実態を持たないから声も持てないのだ。

「……君がいなくなって、どこに行ってしまったのかと心配したんだ」

 ライラとなにを話そうかとほんの短い時間の間に考えていたけれど、結局口から出た言葉はそれだった。彼女は憂いの表情のままレギュラスを見ている。

「……君は、ずっとここにいるのか」

 ライラは頷く。

「君の日記、読んでしまった。見られたくなかった?」

 再度彼女は首を縦に振る。どことなく複雑そうにも見える。

「……悪かった」

 その言葉には、彼女は否定した。少しだけ表情は晴れている。

「……君は、やはり死んでしまったのか」

 レギュラスはライラの言葉に答えず、静かに尋ねた。彼女が死んだことは頭ではわかっているけれど、どうしても目の前にいる彼女を見ると、それを認めたくない気持ちになる。
しかし、ライラはふ、と口の端を綻ばせてレギュラスの言葉にゆるりと頷いた。

「玄関で君が出迎えてくれた時からなんとなくわかっていたよ。あの魔法のせいなのか?」

 その問いに頷いたライラがちらりと後ろのデスクに視線をやった。レギュラスも同じように振り向いてそちらを見る。デスクの上にはひと巻きの羊皮紙が置いてあった。おそらく、あれこそがライラをゴーストにした原因だろう。デスクに近づいてそれを開くと、考えた通りそこにはライラの記憶の中で彼女の母が話していた通りの闇の魔術が綴られていた。

「これが……」

 思わず羊皮紙を握る手に力がこもる。レギュラスの主が欲しがった闇の魔術、ライラを生贄とした魔術。それが、自身の手にあることが信じられない。
 ライラは鏡の向こうで、レギュラスの隣に立って羊皮紙の一部分を指差した。それは、この魔術に必要な生贄についての記述だ。彼女は、正しく生贄となってしまったのだと示している。彼女を見ると、その口が動いていた。

 これが欲しいんでしょう?
「……ああ。そうだ」

 ライラは問いに頷いたレギュラスをじっと見つめた。そうして、彼の返答を噛み締めて顔を伏せる。泣いているような表情だったけれど、ゴーストは涙を流すことができないから、それは錯覚だとレギュラスは知っていた。しかし、まるでライラが涙を流しているかのような雰囲気にレギュラスは戸惑う。するとアステルは顔を上げ、レギュラスの目を射るように見る。

「ライラ。もしかして、君の両親は……」

 なんとなく思いついてしまったその質問の返事としてライラはそっと目を伏せて首を横に振り、レギュラスは押し黙る。この屋敷に入った時からライラの姿は見えていたけれど、彼女の両親の姿は写真や肖像画以外には影も形も見たことがない。彼らも生贄となってしまったのだろう。

「君の両親は、この魔術の代償となってしまったのか?」

 首が振られる。

「では君は? 君は違うのか?」

 彼女はさらに左右に顔を振る。彼女は両親と同じように生贄となってしまったのに、どうしてゴーストとなってしまったのだろうか。

「本来は、君の両親のように跡形もなくなってしまうのか」

 それは正解だったようで、是とライラは頷く。きっと闇の魔術を実施する結果としては彼女の両親の方が末路として正しいのだろう。だが、彼女の両親も彼女自身も生贄になってなりたくなかっただろう。けれど、実際そうなってしまったということは。

「……生贄は、誰かを指定できない」

 ぽつりとつぶやいたそのレギュラスの言葉に、ライラは首肯した。彼女の母がこの魔法を開発するにあたってただひとつ見誤ってしまったことがきっとそれなのだ。この魔法が行われた場にいる者を故意に選べることなくランダムで魔力源として吸い取ってしまう。だから思念としてひとつたりとも残っていないのだろう。もしかするとその場にいる人数が多ければ運よく生贄に選ばれず生き残る者がいるかもしれないが、確実にそれが行えるわけもない。きっとライラは偶然思念だけではあるが残ることができたのだろう。
 十中八九、我が君はこれを持っていけばすぐにでも実行したいと言い出すだろう。そうして、レギュラスやその他の死喰い人達のいる前でそれを試すに違いない。そうすれば、自分もアステル家のような惨劇となってしまうのだ。その光景を思い浮かべると心臓が凍るような心地がした。
 ライラがなにか口を動かしてこちらに伝えようとしているようだが、それを見ることなくレギュラスは杖を取り出して手に持つ羊皮紙に向ける。そうして、その先から炎を灯した。闇の魔術の綴られた羊皮紙はよく燃えた。瞬く間に広がって灰となり、レギュラスの手にほんの少しだけ残った。それをふうと吹けば、もう跡形もなく飛んでいった。呆然とするライラに、レギュラスは口を開いた。

「これでいいんだろう、ライラ」

 きっと彼女はこの羊皮紙を破棄してほしかったのだろう。それも含めて問うと、ライラはその言葉の意味を理解して目を見開き、そうしてふわりと微笑む。それはレギュラスの見慣れた彼女のやわらかな笑顔だった。ありがとう、とライラはそう声もなくつぶやいた。

「燃やすべきものはこれだけか?」

 その言葉に、ふたたび表情を硬くしてライラは首を横に振る。あとひとつ、つえ、とライラはそう口を動かす。レギュラスは眉を寄せた。彼女たち三人の魔法使いの魔力を吸い取った産物がそれなのだろう。先ほど見たライラの記憶では、この部屋であの闇の魔術を行使したはずだ。

「この部屋にあるのか」

 ライラの首肯に彼女の長い髪が踊るように揺れる様を見て、レギュラスはこの部屋の探索を開始した。内容よりもインテリアとして置いてあるらしい本棚、趣味はいいがやはりインテリア性だけが高いデスク、座り心地の良い椅子の下、そして飾られている大量の骨董品たち。探せど探せどそれらしきものはない。ふと鏡に視線を向けると、レギュラスと同じように部屋を探しているライラの姿があった。本棚の上の箱の中を見たいのか背伸びをしていてなかなかに可愛らしい様である。

「ライラ、そこは見ておくよ」

 そう声をかけると、こくりと頷いて彼女は別の場所を探しにいく。……体感として、そろそろ夜明けが近いはずだ。夜が明ければ彼女の姿は見えにくくなってしまうのだろうか。そう考えたが、ふたたび探索に戻った。彼女が探そうとしていた高い場所の箱の中にはなにもなく、結局また別の場所を探し始めた。
 それからしばらくすると、もはや探していない場所が少ないくらいになった時、ふと気がつく。あの魔術を実行したとして、屋敷の中にいた者がすべて生贄になってしまったのだとすれば、侵入者がいないかぎりどこかに丁寧にしまわれているのではなく、そこらへんの床に転がっているのではないだろうか。そう浮かび上がった疑問を抱いて床に近い場所を探していく。
 そのアイデアに至ってから案外すぐに目当てのものは見つかった。成人男性がひとり横になれるほどのソファの足元に転がっていたのは一本の杖。

「ライラ、杖を見つけた」

 大きな声で彼女の名を呼んで鏡を見上げるとそこにライラの姿はなく、レギュラスのいる部屋と対象に映る光景だけがそこにあった。鏡越しに部屋をすみまで見渡してみても彼女は影も形もなく、ただ殺風景な光景が広がっているだけだ。

「……ライラ?」

 いないのか、と呟く声だけが部屋の中に響く。無音の部屋の中で数秒の間放心していたが、我を取り戻したレギュラスは床に転がっていた杖をそっと手にとり立ち上がる。じいと見つめると、樫の木でできたそれの持ち手は彫りによる装飾が施されているのがわかった。

「見つけた」

 一年以上人の立ち入らなくなった部屋で、ずっと独りでいたのだろう。ソファの下にあったからか埃はそれほど被っていないそれは、ここに確かに存在している。

「見つけたよ、ライラ」

 口を持たないその杖は、ただレギュラスの手のひらで静かに眠っていた。


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