君と一緒の夢を見たい


「グレイス、様」

 ここで聞こえるはずのない声がして、羽根ペンを左手に家族への手紙を書いていた私ははっとして振り返った。

「……クリーチャー? どうしてあなたがここにいるの? レギュラスは?」

 いつもブラック家の屋敷にいた時には彼の隣にいたクリーチャー。彼が家族同然に扱っていたハウスエルフ。そのクリーチャーが彼の元を離れてここにくるだなんて初めてのことで、彼になにかがあったのではないかと考えて妙に心臓の音が大きく聞こえた。

「レギュラス坊っちゃまが、」

 お亡くなりになりました。
 そのクリーチャーの言葉が私をぐさぐさと突き刺す。刺されるだけ刺されて、けれど頭がクリーチャーの言葉を理解できない。
 亡くなったって、どういうことなの。亡くなったって、死んだことではないのよね? 変な冗談はよして、早く一緒に彼のもとへ行きましょうよ。そう言いたかった。
 だって、数日前まで彼は元気にしていたじゃない。病気にもなっていなくて、彼の家族もなにも言っていなかった。ただ、少し前にクリーチャーがひどく体調を崩していると言っていた時はどこか気落ちして、そうしてなにやら悩んでいる様子だった。その時私はクリーチャーの容体を見ることはできなかったけれど、あれほどまでに彼が思い詰めていたのだからさぞかし悪かったのだろうということは考えていた。でもそれが、彼が死ぬ理由にはなるわけもないのに。
 手に握ったままの羽根ペンは書き途中の手紙に真っ黒な染みを作っていて、それでもその手を動かすことができない。息の仕方がわからなくなって、ひぐ、と喉が引きつった。

「……う、そ」

 ようやく絞り出せた言葉はひどくかすれていた。
 信じられなかった。今すぐにでも嘘だと笑い飛ばしてしまいたかった。それなのに、私と同じようにこんなのは嘘だと訴えるクリーチャーの目がまぎれもない真実であるのだということを私に教えるものだから、私もそれ以上クリーチャーになにも言えなかった。

「いや……そんなのいやよ」
「クリーチャーも同じでございます」
「クリーチャー、レギュラスはどうして死んでしまったの」

 クリーチャーが私にこのことを伝えにきたということは、少なからず彼の死についての詳細を知っているはずだ。椅子から立ち上がってクリーチャーの目線までかがみ、諭すように覗きこむとクリーチャーは罰を受ける罪人のようにうなだれて泣き出すように声を震わせた。

「……レギュラス坊っちゃまは敬愛されていた彼の方を裏切る行為をなさりました。彼の方の未来を妨害することと引き換えにレギュラス坊っちゃまは罠に自らかかり、そうしてお亡くなりになりました。クリーチャーも、レギュラス坊っちゃまにご自分を見捨ててこちらにくるようにとのご命令をいただいて、反することなどできません。坊っちゃまの最後のご命令でありました」

 目の前が真っ暗になった。彼は、自分から死にに行ったのだ。そんなことを、私にはなにひとつ教えずに。

「……クリーチャー。レギュラスは、私のことを信用していなかった? 私になにも言わずに死んでしまうくらい、私に心を向けていなかったの?」

 ぽろりとこぼれ出た心情はクリーチャーの届いてもう戻ることはない。こんなことをクリーチャーに言ったとして、クリーチャーは困惑するだけなのにね。そう思って、なんでもないわと付け足した。

「いいえ、いいえ。クリーチャーは存じております。レギュラス坊っちゃまはグレイス様のことを誰よりも大切に思っていらっしゃいました。グレイス様を巻き込みたくはなかったのだと、クリーチャーはしっかりと存じております」
「……そうかしら」

 私は、どうしたって信じたくなかった。こんな話だって現実から逃避したいがためのもので、けれどレギュラスが帰ってこないことはまぎれもない真実だった。二度とくつがえることのない、現実。


 そんな現実などいらない。


「…………ねえクリーチャー。私ね、レギュラスがそんなことで死んでしまったからといって彼を諦めたくないの」

 グレイスの頭に浮かんだこと、それは彼女の中の悪魔がもたらした名案であった。

「レギュラスを、冥界から連れて帰るわ」

 死者はダンブルドアほどの大魔法使いの力をもってしても生き返らせることはできない。だがそれはこの世から死者の魂と肉体をよみがえらせる方法だ。グレイスはひとつ、そうではないやり方を知っていた。
 この世界のどこかにあるとされている岬のふかいふかい洞窟が冥界とこの世のつなぎ目だと、魔法使いの子供は言い伝えられている。その頃はただのお伽話なのだと思っていたけれど、今は亡き祖母がそっと教えてくれた。その洞窟の場所を、そして祖母がかつて亡くした大事な人と話をしたということを。

「そうすれば全てがうまくいくわ。クリーチャー、あなたもそう思うでしょう?」

 クリーチャーの顔がだんだんとこわばっていくのがよく見えた。

「……そ、のようなことを、レギュラス坊っちゃまは望んでおられません。グレイス様が自ら死にに行こうとしているようなものでございます」
「そうかしら? けれど、彼が望まなくても私が望んでいるの。大丈夫よ、必ずレギュラスを連れて帰るから」

 安心させるためにクリーチャーににこりと笑いかけたけれど、それなのにクリーチャーの大きな瞳に映る私の瞳孔は開ききっていて、我ながらおそろしいものに見えた。




 その洞窟は太陽の光が差し込んでくるはずの昼間でも数歩進めば光を失う、そんな場所だった。まるで光を吸収しているかのようだ。けれど進む道はなぜかわかっていたから、壁をつたうことなく歩くことができた。
 ここにいるのはグレイスひとりだ。クリーチャーは彼の屋敷に戻るようにと伝えている。冥府との境界へ向かうだなんて死にに行くようなものだとなんとか私を引き止めようとしていたけれど、それでも私の意思は変わらない。私がその場所を知っているのはきっと、レギュラスを連れ戻せとの神の思し召しなのだ。
 一歩ずつ歩を進めていく。まず最初に光がなくなり視界をなくした。次に、自分の歩く音が聞こえなくなった。しっかりした靴を履いているため靴底が鳴る音、そして砂利や石を踏んで蹴って転がった音があるはずで、しかしそれら全てが今の私から離れていった。方向はなぜだかわかるのに、自分が本当に地面を踏みしめて歩いているのかわからなくなって、急に自分自身がどこに向かっているのか不安にもなる。けれど、この先にレギュラスが待っているのだから、私は後戻りすることなど全く考えずに足を進めるだけだ。


 一歩一歩前進することだけを考えていて、それだけしか頭になくて、ふとした瞬間に目が覚めたようにはっと気がついた。
 私、なんでこんなことをしているんだっけ?
 思わず足も止めてしまった。目的もわからずにこんなおかしなことをしているだなんて、馬鹿げている。
 こんなことなんてしていないで、早く帰って暖かい紅茶でも飲もう。砂糖ひと匙とミルクを入れて、一緒に大好きなバターがたっぷりのマドレーヌと一緒に食べるんだ。それと、いつもおやつの時には甘味の少ないガレットが並んでいた。別に私は好きではないけれど、好きな人といつもお茶をしていたんだ。それは、誰だっけ。
 くるりと方向を真逆に変えようとして、一歩を踏み出そうとした。その時、頭の中にたったひとりの顔が浮かんだ。
 レギュラス、ああそうだ、レギュラスだ。私はレギュラスを連れて帰るためにここにいるんだ。
 戻る道の一歩を出した足は宙に浮かんで踏み出すことなく、行き場をなくして戸惑っていたことだろう。けれど、目的を思い出した私は帰り道をまた引き返し、さらに洞窟の奥へ奥へと歩き出した。


 歩き方を忘れかけて、目を開いているのか閉じているのかもわからなくて、ついには見当識すら失いかけた。発狂するのもおかしくないほどの時間が続いていたように思えたけれど、なんとか気力だけで持ち堪えていた。私が洞窟に入ってからどれだけの時間が経過したのかも全くわからなくて、たったの一時間程度なのかもしれないし、もう何日も歩いているのかもわからない。ただ、わかったのは終点近くにまできていたのだということだ。
 いまだに目の前は真っ暗だ。けれど、なにか強大な存在が目の前にあるような気がして唐突に私は足を止めた。どれくらい近くにそれがあるのかなんて全くわからない。けれど、悪寒が走るほどのものであるということは本能的に理解できる。そうでなければ死んでしまってもおかしくはない。

『なぜ生者がここにいるのか』

 そう頭の中に疑問が生まれた。私がなんとなしに思いついたものではなく、目の前の存在からの問いであることもはっきりとわかった。

「……レギュラスを。私の愛する人を、迎えにきました」

 喉が張り付いたように声が出なくて、もう何年も声を使っていないかのようだった。けれど、どうしても答えなければならないから、なんとか声を出した。
 すると次の問いかけがまた頭に浮かぶ。

『死者をよみがえらせることはできない。諦めよ』

 そんなわけにはいかない私も負けじと言い返す。

「だからって諦めて帰るだなんてできない、私はまだ、さよならの挨拶だってできていないんだから」

 そう、レギュラスが死んでしまうだなんて思っていなかったから私はなにも準備をしていなかった。最後のレギュラスとの会話は我が君──いや、もうそんな言葉では呼べないあの男の任務についての話だったし、卒業したら行こうと話し合っていたところにも行けていないし、なにもレギュラスにしてあげられていない。私は、レギュラスにもらったたくさんの大切なものをなにひとつ返せていないのだ。そんな状態で死なれたら困る。勝手に死んだことを怒ってもいないし。
 私の思考を読み取っていたらしい強大な存在は、私が悶々と考えている間はじいとそれを聞いているだけだった。けれど一息ついたところを見計らってか、また言葉を送ってきた。

『お前の命を引き換えにしてであれば考えてやらないでもない。冥府に至る命の数さえ合えばよい』

 その言葉に、目の前にあるのが死そのものであることに私はようやく気がついた。命を左右できるものなんて、神でなければ他にはひとつしか考えられないからだ。結局のところ神だろうと死であろうと、この状況では同じようなものだけれど。

「そんなの決まってる。私の命を勝手に持っていくなりして、レギュラス・アークタルス・ブラックを生き返らせなさい!」

 私のその返事に、死はにいやりと笑みを浮かべたような気がした。ぞくりと背筋が凍りつく。

『よかろう、我は気分がいい。お前がひとつだけ条件を満たせば、お前の命はとらず、その男の魂ともども帰してやろう』
「願ったり叶ったりよ。それで、その条件はなに?」

 威勢のいいことだ、と笑いながら、死はそれを私に告げた。

『その男がお前の偽物を看破し、そうしてお前と共に帰ることを願った時、元の世に戻るまで決して振り返り男の顔を見てはいけない』
「……いいでしょう」

 依然まぶたを開いても見えるのは暗闇ばかりだが、グレイスはその闇の向こうにあるであろう死に向かって、内心の怯えを悟られないようにと虚勢をしっかりと張って笑った。



 レギュラスは夢のような空間にいた。青から緑を経て橙へのグラデーションの空が無限に広がり、生命力あふれる草花が力強く咲き誇り、ゆるやかであたたかな風が髪を撫でては飛んでいく。ここにはレギュラス以外の人間は誰もいないようだ。それどころか生き物の姿はひとつだって見えない。けれど腹はすかないのだから支障などどこにもない。ただ、ぼうと空を見つめたり、飽きないかぎり広がる草原や森、海岸などを歩いていた。
 レギュラスはどうして自分がこのような場所にいるのかわからない。だがそれを追い求めようとも、記憶の最後に自分がどこにいたのかを思い出そうとすることもない。そんな些細なことは今さら考えたところで意味などないからだ。ここには誰もいない。誰もレギュラスの行いに口など出さないから、レギュラスは奥深くに隠していた本心のままにそこにいた。
 ここにいれば、出来のよかった兄と比較する親戚も、媚を売って擦り寄る者も、兄のようになるなと口癖のように言う親も、その他のどうでもいい人間も誰もいない。うるさい者共がいないことがとても快適だ。
 ああ、ただ。グレイスはここに一緒にいれば、今以上に満足するかもしれない。レギュラスが一緒にいて最も苦にならない人間、それがグレイスだから。
 そう考えた途端、レギュラスの後ろで声が聞こえた。

「レギュラス」

 自分を呼ぶ声に視線を向けると、そこには柔和な笑みを浮かべるグレイスの姿があった。この七年のほとんどをホグワーツで過ごして、グレイスの姿は私服よりも制服の方が見慣れている。そのグレイスが、レギュラスの近くに立っていた。
 これが都合のよい夢であることははっきりとレギュラスにもわかっていた。そうでなければ自分以外に誰もいない場所などあるはずもなく、またそんな場所に突然グレイスが現れるなんてこともない。なによりも、目の前にいるグレイスはレギュラスの知っている表情を浮かべてはいないのだ。純真無垢な笑みをたたえていると人形のような人は、たとえグレイスに姿形がよく似ていたとしても、それが本物のグレイスでないことをレギュラスは真に理解していた。

「ねえ、レギュラス。ここは素晴らしい場所でしょう? ずっとここで二人で暮らしましょうよ」

 グレイスに似た声が甘くささやいた。するとまわりは木々や草花がいきいきと伸びていたはずなのに、気がつけば小さな平屋のこぢんまりとした家とそれに付随する庭がレギュラスの前に現れた。グレイスに似た誰かの言葉に湧いて出てきたものだろう。

「ずっと、なんて。まさか永遠に?」
「ええ、もちろん。ここではあなたは私と永遠に一緒にいられるの」

 ああ、やはり。レギュラスがすうと目を細めた。
 グレイスは永遠を信じない人だ。そんなグレイスがこのようなことを言うはずがないのだ。

「……あなたはグレイスのことをなにもわかっていない。永遠なんてあるはずがないんだ」

 おかしくなって、レギュラスはくつくつと笑い声を抑えきれなかった。そうしてひとしきり笑い転げた後にすっと表情が抜け落ちて、ぽつりとグレイスに似たものに冷ややかな視線を向けた。

「グレイスの姿を模倣するのを今すぐにやめろ。不愉快だ」

 微塵の情も与えることなく消えろと言えば、グレイスに似た者はレギュラスに微笑んでじっと見つめたまま、すうと消えた。気づけば、レギュラスのまわりには無の空間が広がっていた。今はもう小屋も、風も草花もなにもない。ただ、空と地以外のなにもない空間だけがそこにあった。



「レギュラス」

 ああ、またグレイスの偽物が現れたか、とレギュラスはうんざりした。あれほど強くグレイスの形をとるなと言ったのにもかかわらず、またもやグレイスの声が聞こえたからだ。だが先ほどに比べて本物の声に聞こえるそれは、今にも泣き出しそうな声色をしている。ああ、この声ならばグレイスと間違えてしまっても仕方がない。そう思うながらも今度こそはっきりと消えるように告げてやろうとレギュラスは振り返った。
 そこにいたのは、またしてもグレイスの姿だった。ただ、先ほどの偽物のグレイスが制服姿だったのに対して、今レギュラスの目の前にいるグレイスは薄汚れた私服姿で、名家の令嬢であるグレイスが唯一持っているパンツスタイルだということも思い出した。確か乗馬用の服装だったはずだ。その服はなめらかで汚れをよく弾くと言っていたはずだが、グレイスの顔が煤で汚れていたり、羽根ペンと杖と食器以外を持たない繊細な手先も爪の中まで泥が入り込んでいる。

「レギュラス、帰りましょう」

 その手を伸ばしたグレイスは、しかしその手が汚れていることに気がついてその手を引っ込めた。どうするのかと見ているとグレイスはシャツの裾で手を拭いているものだから、思わず笑いそうになってしまった。汚れた手を汚れたシャツで拭いても汚れは落ちないだろうに。しかし、それに気づかないグレイスはレギュラスにとって本物であるかのように見えた。
 再び差し出された手は多少の汚れが減っていたが、しかしレギュラスがその手をとることに不快感はない。

「帰って、どうするんだ?」

 先ほどのグレイスの偽物と比べてあまりに出来がいい。興味を持ったレギュラスは、しかし決して心を開いて手をとらないようしっかり腕を組んで問うた。グレイスはレギュラスの顔をじいと見つめて答える。

「まずはクリーチャーに、目の前で死んでしまったことを謝って。その後はあなたが現世からいなくなってしまってからあなたのお父様も体調を崩してしまっているからちゃんと顔を見せて差し上げて。そうすればあなたのお父様もお母様も安心するわ。それで……」

 どこか迷い子のようにも聞こえるグレイスの声を、レギュラスは黙ってただ聞いていた。グレイスの声の高さ、抑揚、そして彼女が声に乗せているだろう感情。それら全てを重ね合わせてじいと聞いていた。

「……もしかしたら、死喰い人がまたレギュラスを襲いにくるかもしれないけれど。それまでの間はずっと一緒にいたいって、そう思うわ」

 じいと見つめるグレイスの視線も知らないふりをして、レギュラスはじいと彼女の声を聞いていた。そうして、少しの時間が経った後に目を開いた。
 少し迷うような、それでいて自分が声に出したことは覆すことなく全て受け入れる。天国のようなこの場所には二人だけしかいないだろうに、それでも世界で二人ぼっちだなんて悲劇の主人公ぶることもない。自分とレギュラス、それ以外のまわりの者を決していないことにはしない。他の人間もみな自分の世界の一部であることを理解している。そしてなにより、グレイスはどこか悲観的に考える癖がある。レギュラスが戻ったとて敵の存在を決して無視することがない。それが、レギュラスの知るグレイスの性格だ。

「グレイス」

 彼女の名前を呼んだ。すなわち、レギュラスは間違いなく、目の前にいるのがグレイス本人であることを認めたということだった。

「迎えにきてくれたんだ」
「もちろんよ。ここまで、長いようで短いようで、よくわからなかったけれど」
「よくわからないな。そんな泥だらけで、沼でもくぐり抜けてきたのか?」
「私はただ洞窟をずっと歩いてきただけなのだけれど……こんなにも汚れていれば、そうなのかもしれないわ」

 レギュラスはくすりと笑って、グレイスの手を引いた。全身泥と煤だらけのグレイスだけれど、抱きしめることをためらうことは一瞬すらもなかった。

「レギュラス、汚れるわ」
「そんなことはどうだっていいさ」
「私もあなたも、杖なんて持っていないのよ」

 見ると、確かにレギュラスはもとより杖を持っていなかった。グレイスのことを思い出してからも自分が魔法使いであることを思い出せなかったくらいだ。

「私の杖はここにくる途中に折ってしまったの。だからどうにもならないわ」
「それでも別に気にはならないな。それよりも君がいてくれるのが嬉しいから」

 腕の中のグレイスもレギュラスの身体に腕を回し、二人は互いの存在をしばらくの間確かめていた。確かにそこにある体温が生きている証拠で、それだけで安心できる。杖がなくても互いさえいればそれで不安に思うことはないからだ。

「……レギュラス、帰りましょう。私達のいた場所に」
「グレイスの行きたいところならどこへでも」

 二人はその言葉を皮切りに、元の世界へと帰る決意を固めた。


 グレイスとレギュラスが帰るための一歩を踏み出した瞬間、今まで優しく凪いでいた世界は瞬く間にその表情を変えた。太陽こそ見えないものの雲の切れ間からやわらかな日差しが降り注いでいたのに、前へ進む二人を拒むように光が乏しく、凍りついた風が厳しく身体にぶつかる。生い茂る草は葉先が鋭く、グレイスとレギュラスの足首近くの布を切り裂く。海岸は砂浜も海岸沿いの木々をも飲み込もうとして荒れ狂い、歩くことなど容易であった森は土も岩も苔むしていて気を張っていないとすぐに転倒してしまいそうだ。その中を、それでも二人は進んでいった。二人で身を寄せ合えばなんとか前進することは問題なく、現世とこちらを繋ぐ洞窟に入れば光こそほとんどなくなったものの強い雨風は届かない。

「グレイス……この先を進むのか」
「ええ、もちろんよ。私が進むから、レギュラスは後からついてきて」

 レギュラスにはこの先はひとりで進めそうにない。グレイスの右手がしっかりとレギュラスの左手を握った。レギュラスからグレイスの顔は見えないが、グレイスはレギュラスを安心させるための笑みを浮かべていて、見えないはずなのにレギュラスにもそれが伝わっていた。

「手、離さないでね」
「ああ」

 きっと手を離した瞬間にレギュラスはこの限りない暗闇に飲み込まれて永遠に抜け出すことができないだろう。絶対にこの手を離さない。決意を再度固めて、二人はなにひとつ見えない道をゆっくりと歩き出した。



 往路は気が狂う寸前まで続いていると思うほどに長かったとグレイスは思っていたが、帰り道はそれよりも過酷であるように思えた。行きでは感じなかった肌から侵蝕するような寒さが全身から襲い、思わずふるふると身体が震えてしまう。それを通り越すと、肌の表面が麻痺したような感覚に陥って、しっかりと後ろにいるレギュラスの存在を頭に繋ぎとめていなければ手を離してしまうかもしれない。

「グレイス、大丈夫かい?」

 後ろからレギュラスが心配してくれているが、なぜだろうかその声が少し遠くに感じる。数メートルほど離れているような間隔で、思わずグレイスは後ろを振り返ってレギュラスの姿を確認したくなった。だがその内心を慌てて冷静な部分が抑え込む。
 心配なんていらない、ちゃんと手を繋いでいるんだから。そう自分自身に言い聞かせるも、不安ばかりが大きくなる。動悸がやけに大きく聞こえて、その他の音が全てを邪魔しているようだ。視界が閉ざされているからか身体中の神経が過敏になって聴覚や触覚が鋭くなっている。
 そうして、気がついた。自分の右手の先にあるレギュラスの手がとても冷たくなっていることに。

「レギュラス?」
「……グレイス」

 つい名前を呼んだが、後ろから聞こえてきたのはひどくつらそうなレギュラスの声だった。

「どうしたの?」
「少し、痛いだけだから」

 大丈夫だから、とやわらかくなるようにと心がけた声だったが、しかしその後すぐに、ぐう、と呻き声が聞こえた。

「レギュラス! その声、大丈夫ではないでしょう」
「グレイス、大丈夫だから。絶対に振り返るな。僕がなんと言っても振り返ってはいけない。たとえ、僕が叫び声をあげたとしても」
「…… そん、な」

 思わず歩みさえ止めてしまった。同行者の息が荒く、苦しそうな声をあげて足を引きずる音が聞こえたら、どうしても止めてしまうに違いない。

「だめだ! 歩き続けろ、なにがなんでも」

 レギュラスの叱咤にグレイスは再び歩き出した。しかし十歩も歩ききらないうちにまた足を止めた。なにかが落ちた音がしたからだ。それも、たった今切り落としたばかりの肉のようななにかが。

「……レギュラス?」
「見る、な」

 顔を見ることなく名前を呼んだ三回目、その声はグレイスの知るレギュラスのものではなかった。ひ、と悲鳴をあげることさえできない。レギュラスとは違う、それなのにレギュラスがあげている声はひたすらにグレイスを心配し続けている。
 その間も、べちゃ、ぼと、と聞こえている音の発生源をどうしても見てしまいたい。おそろしいもの見たさの前にレギュラスの無事を確かめたい。だって、死はちゃんと自分とレギュラスを帰してくれると言ったはずだ。そう考えて、死との会話を思い返して、息と心臓以外の動きが止まった。

 別に死は、五体満足で生きて帰してくれるとは言っていない。

 レギュラスの手を握る自分の手が途端にぶわりと冷や汗を浮かべた。その間も肉が落ちる音、そしていつからか聞こえていたかちゃかちゃという硬いなにかとなにかがぶつかる音が鳴り続けていて、どう考えても人の形をしていないものがあることに肌が凍った。

「レギュ、ラス」

 もう一度名前を呼んだがやはり返事はない。心配の鼓動が無数に鳴り響き、グレイスの頭に考えたくなかったことが浮かび上がった。

 レギュラスは本当に、無事に帰ることができるの? 本当に私が手を繋いでいるのはレギュラスなの?

 その抗い難い誘惑には耐えきれなかった。どうしてもこの瞬間にグレイスが支配されずにいられることはできなかった。
 グレイスが振り返ったそこにあったのは、一体のおそろしい亡者の姿だった。ところどころ腐った肉が削げ落ちていて骨が見えている。剥き出しになった胸の骨の間から動いているはずの心臓はそこにあるまま沈黙を貫いていた。頭骨はほぼ全て見えている状態で、しかし二つの眼球はその灰の色をまだ持ち続けている。
 そう、目があったのだ。その色から、グレイスにはそこにいるのがレギュラスであると判別できた。

「レギュラス」

 そこにいるのが骸の姿になったレギュラスであるとわかって、出てきたのは存外落ち着いた声だった。

「これじゃあ、私もあなたも帰れないわね」

 振り返ってしまったグレイスも死体のレギュラスももう地上には戻れない。けれどグレイスはなにか満たされた微笑みを浮かべた。レギュラスは返事をしたかったが、もう舌も腐りきってなくなってしまったから声を出すことができない。だがグレイスはそれを気にせず、そして彼の言いたいことがわかっていた。

「ごめんなさい、どうしてもレギュラスの顔を見たかったの。だから、」

 す、とレギュラスの頬のあるべき場所に手を滑らせる。腐った肉の欠片が指につくのも構わず、グレイスはそのまま彼の背に両腕を回した。今も骨にとどまっていられない肉はべちゃべちょと落ちているのも知っていながらそのままに、左手の指で背骨を、右手で肩甲骨を遊ぶように撫でる。頬のあるべき場所と頬をすり合わせ、肉の欠片で顔が汚れるのも厭わずにグレイスは幸せいっぱいに笑った。

「一緒に落ちることを許して」

 グレイスにこう言われてはレギュラスも否と言えない。もともと言える舌も持っていないのだからだめだと思っても同じだった。なんとか骨だけになった両腕をグレイスの背に回した。いやがられるかもしれないとは思ったが、グレイスはそんな素振りは表情にも出さなかったから嬉しく思った。
 ありがとう、ここまできてくれて、最後まで一緒にいてくれて。
 声にならない言葉が出せなくてもどかしい。でもグレイスには伝わっていて、レギュラスの肩甲骨に顔を埋めたグレイスは、いいのよ、と頷いた。

 そのまま、二人は暗い暗い闇の中に落ちていった。とうに足場などそこにはなかった。抱きしめ合って落ちていく二人のそのずっとずっと下には暗闇の中でもわかるぽっかりと空いた冥府の口が今か今かと二人が落ちてくるのを楽しみに待っている。死はグレイスとレギュラスを現世に帰す気など最初から持ち合わせていなかったのだ。
 すとんとその事実が胸に落ちてきて、ああ、そうだったのかという納得がいった。そこに悲しみもなく、それでもういいやという諦めに似た気持ちがあった。ただ死に情があったとするならば、グレイスとレギュラスが最後まで一緒にいられたということだ。ありがとう、とグレイスは死に感謝すらしていた。



 そうして、グレイスとレギュラスは目が覚めた。

「……あれ」
「……あら?」

 ベッドで向かい合って眠っていたようで、目を開いた二人は互いの顔が思いのほか近くにあったことに驚いて、二人そろって身体をかちんと固まらせた。レギュラスはグレイスの寝起きでとろりとしていた目が驚きに段々と覚醒してその瞳の色が鮮明になっていくのがよく見え、グレイスはレギュラスの長いまつ毛がはつはつと瞬きするごとに揺れているのがよく見えた。二人が身体を伸ばしてもすっぽりと収まるベッドから起き上がり、あくびをひとつもらしたレギュラスがグレイスの顔をじいと見つめた。

「……おかしな夢を見たんだ」
「奇遇ね、私もよ」

 どうしてだろうか今見ていた夢を話したくなって、レギュラスは自分の見た夢をぽつりぽつりと話し始める。グレイスは同じように夢の話をしたい気持ちを抑えてじいと聞いていたが、レギュラスの見たその内容がグレイスのものと似ていることに気がついた。ただ、相違点もある。
 レギュラスは自分が死んで天国へ行き、そこでグレイスが迎えにきた夢。グレイスは死んだレギュラスを迎えに冥府まで降りた夢。レギュラスのいた場所こそ天国と冥界で違うものの、同じ夢を見ていたことに二人とも驚いた。
 夢の中ではレギュラスが例のあの人に叛逆を企て、そうして死んでしまったという設定だったが、起きてみれば二人が一緒にこうして刺激も不満もないただひたすらな平穏を享受して暮らしていることもしっかりと思い出せる。変な夢を見たからといっても、これからベッドから出て朝食を食べ終わる時には忘れていることだろう。夢はどこまでもただの夢なのだから。

「レギュラス、もし私が死んでしまったらその時は同じように冥界まで迎えにきてくれる?」
「もちろん。ああでも僕は冥界下りの方法を知らないから無理かもしれない」
「確かにそうだわ。夢の中では覚えていたけれど、今はもう全然覚えてないの」

 そんな話をしながら、グレイスは紅茶とサラダの準備を、レギュラスは目玉焼きを焼きながらパンを焼くためのトースターの温度を見ていた。そうしてできあがった朝食はいつもどおり美味しくて、二人は大満足だ。
 この幸せな時間が少しでも長く続いてくれればいい。もしこの幸せな時間の残りがほんのわずかな時間であっても、二人は今の幸せをずっと噛み締めて生きていけるから。
 二人は同じことを考えて、そうして同時に破顔した。

 今朝はおかしな夢を見ていたけれど、今度は心の底から幸せで陳腐なハッピーエンドの話を見たいと思った。その時はもちろん、この人と一緒に。




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