夢のおわり


 夢を見ていた。レギュラスが死んでしまった夢だ。死んでしまったレギュラスを冥界まで迎えにいく夢だった。もうこの夢を見てからかなり日も経っているのに、まだグレイスはその夢を見るし、ふとした瞬間に夢の内容が頭に浮かんでくる。
 私が地獄までレギュラスを迎えに行って、そうして結局のところ二人とも死に飲み込まれてしまったという夢だ。あれは間違いなく悪夢で、さっさと忘れてしまいたいのに何度も出てきては、忘れてくれるなよと。そうしていつものように死に食われる直前でグレイスは目が覚めた。
 はて、眠る前は何をしていたんだっけ、とグレイスが回らない頭をなんとか動かして、無言で唸りながら思い出そうとする。朝食を食べたら二人して眠くなってしまって、ばたりとベッドに倒れ込んだところまでは覚えている。それからどうでもいい話をしていた。庭の花々が美しく咲いていることだとか、昨日レギュラスが作ったパウンドケーキが適当に測ったにしては美味しくできたことだとか。それからの記憶がないのだから、きっとぐっすりと眠ってしまったのだろう。
 隣でまだ眠っているレギュラスを起こさないようにそっと素足を床につけて、立ち上がろうとしたその時グレイスの腰に両手がまわり、立つことができずにバランスを崩し、立ち上がる前の座った状態の姿勢に逆戻りした。

「ちょっとレギュラス、寝ぼけないで」
「まだ寝てていいじゃないか……」
「私は目が覚めてしまったの」
「ううん……」
「本当に聞いているの?」

 寝ぼけているのかちゃんと話を聞いているのかもよくわからないレギュラスは、しかしグレイスをがっちりとつかまえている腕は彼女の力では解くことができないほどには強い。レギュラスの腕から抜け出せないグレイスは早々に諦めて彼の隣にぼすんと横たわって元通りになった。

「もう、また眠ってしまうじゃない」

 頬を膨らませるグレイスに、レギュラスが目を閉じたままくすくすと笑う。

「こんな日もいいだろう。朝食前に家事はひととおり片づけたじゃないか」
「それはそうだけれど」

 そんな会話を交わしながらもグレイスは起きる気などなくて、寝るのにちょうどいい体勢に身を動かした。

 グレイスとレギュラスが住んでいる家は、二人で十分なくらいのこぢんまりとした平家だ。個人の部屋はない。不要だからだ。プライバシーがないことに特に不満もストレスもなく、むしろ広すぎないことがなんとはなしに居心地の良さを感じるくらいだ。
 ここには何かに急かされることもなくいられるものだからついさぼり癖がついてしまいそうだが、なんとか自分自身を律するグレイスの奮闘で二人はブランチになることなくしっかり朝食と昼食を分けて食べることができている。
 しかし、たまにはゆったりしてもいいかもしれない。そう思いながらグレイスは目を閉じた。睡魔がグレイスに近づいた時、額に何かが触れたような気がした。



 窓から見える外はさんさんと日差しが落ちてきていて暖かそうだということが家の中からでもわかる。窓を開けて風を入れ換えると爽やかな風が入ってきて気持ちがいい。
 昼寝ならぬ朝寝をしてしまって、起きた時には太陽が家の真上にあり、一日の半分が終わったことを告げていた。家事は終えているとはいえ、半日を無駄にしてしまったような気分だ。

「昼食はどうしたい?」
「朝のサラダの残りがあるからそれとサンドイッチを作ったらいい感じになるんじゃない?」

 そうと決まれば、二人はキッチンへ向かった。みずみずしいオレンジをどうしようか悩んだが、ジュースにするためにいくつか搾る。トマトが嫌いな男とチーズが食べられない女がこの家にいるため、その具材は使わないのでほとんど同じ内容のメニューだ。しかし安定した飽きない味で特に冒険しようともあまり思わないのでいつも同じものが食卓に並ぶことになる。
 新鮮なオレンジジュース、レタスとベーコンのサンドイッチ、朝食とは別のソースをかけたサラダ、ベリーを目一杯乗せたヨーグルト。同じ色の皿に乗った料理が二つ、テーブルに鏡合わせに並べ、そうして二人も席に座る。いつもこうして向かい合って、食事中は会話はほぼない。別に会話が続かなくとも空気は悪くないからだ。
 食事を終えて、一息ついて食後の紅茶を飲む。皿洗いは面倒なので今日は後回しだ。ふ、とため息をついたグレイスをレギュラスがじいと見ていることに気がついて、どうしたの、と問いかける。

「……いや、別に」
「そう。……言いたいことがあれば、言ってくれていいのよ? ここには私とあなたの二人しかいないんだから」

 グレイスはそう言ったが、レギュラスはカップをテーブルに置いて、そのままじいと考え込むようにうつむいてテーブルを見つめていた。黙り込んでいるレギュラスをグレイスもまた黙って彼の声を待っていた。

「……また、あの夢を見たんだ」
「あの夢って、例のあの話?」

 レギュラスがなぜか口を濁しながら言うその夢というものをグレイスは正しく理解した。

「ああ。……グレイス、」

 レギュラスが一思いに言ってしまおうと息を吸う音が、ひどく恐ろしく感じる。

「あの夢は、本当にただの夢なのか?」

 ああ、とうとう彼は気づいてしまったのだ。その言葉を聞いて、グレイスは幸せな時間の終焉を悟った。そもそも、グレイスもこれが仮初であるのは重々承知していたけれど、それでもあと少しだけ、とずるずると引き伸ばしていたから。

「……どうして、そう思ったの?」
「はっきりとは、わからないけれど。だが何度も見ているうちに、あれはただの夢ではないんじゃあないかと思ったんだ」
「それなら、あの夢はなんだというの?」

 グレイスの心の奥底が叫ぶ。どうか言わないで、と。それを表情に出すこともなくグレイスはまっすぐにレギュラスを見つめた。

「あれは夢ではなくて、本当のこと、なのか」

 どう言っていいものかグレイスはかなり悩んだ。しかし真実にたどり着いてしまったレギュラスにこのままだんまりを決めてはならない。震える口を開いて、喉の奥から声を引きずり出した。

「……そう、よ。あれは夢ではなくて現実なの」
「ならグレイス、君が僕を迎えにきたのは」

 驚きの視線がグレイスを貫いて、身体は痛くないのに心が痛い。

「私が、死んだレギュラスを生き返らせようと、したの」

 それから流れた沈黙が痛い。グレイスの心にぐさりぐさりと刺さって抜けず、だらだらと流血が止まらない。グレイスは罰を待つ罪人のようにうなだれていて、レギュラスはそのグレイスを瞬き以外に動くことなく見つめて、それが数十秒の間つづいていた。
 怒られることなどグレイスにはいやというほどにわかっている。軽薄なことをしでかしてしまったのもわかっているつもりだ。けれどそれを指摘されるのはやはり嫌ではあるものだ。グレイスはぎゅうと目をつむってレギュラスの怒った声に身構えた。

「……そう、か」

 しかし望んでいたわけではないが来るだろうと思っていた声はなく、その代わりに納得したかのような、いまだ呆然としているような声があっただけだった。目を開いて目の前の人を見ると、声と同じ表情で彼は力が抜けたようにグレイスを見ていた。

「怒らない、の?」
「なぜ僕を生き返らせようとしたのかなんて、聞いてもあまり意味はないだろうな……。だから今、なんと言おうか考えているんだ」

 ああでも、といくらかはっきりとした声で、彼は続けた。

「こう言うしかないんだろうな。ごめん、夢の中身が本当なら、僕は君にさよならのひとつも言わなかったから。それと、ありがとう」
「そうね。それは少し怒ったわ。クリーチャーからあなたが死んでしまったと聞かされて、理由もわからなくて困ってしまったもの」
「それはそうだ。僕は君を怒る権利なんてないんだ」
「レギュラス、あなたが死んでしまった理由ははっきりと思い出せるの?」
「僕は、我が君……いや、ヴォルデモート、の魂を破壊しようとしてその罠に勝つことができなくて、死んだんだ」
「そうよ」

 だんだんと記憶が明瞭になってきたレギュラスは確かに死ぬ間際の記憶を取り戻し、ここが夢の世界であることを心から思い知った。

「そうか……そうか。ここは死後の世界なのか?」
「わからないわ。けれど、きっとあなたはこの夢から覚めれば生き返ることができるの」
「そう、なのか……。グレイス、君は?」
「……その、あのね……」

 歯切れが途端に悪くなったグレイスに、レギュラスは彼女が生者として戻れなくなってしまったことを理解した。

「……僕は、君が死んでまで生き返ることは望んでなかった」
「いいえ、そもそもレギュラスを生き返らせようとしたのはあなたのためというよりも私の、ただの私利私欲なの。あなたがどう思おうと私は同じことをしているわ」

 ここまで言われてしまえばレギュラスが何を言おうともグレイスが頑なに引かないことがよくわかって、自身が引く以外のことはできない。自分の代わりにグレイスが死んでしまうことなんて認めたくなんてない。けれど、もしレギュラスが逆の立場だったなら同じように自分の命を賭けてでも生き返らせようとしただろうことも断言できるので、何も言うことはできなかった。

「なら、永遠にこうしていれば君と別れることがないんだな?」
「……それは、もう無理よ、レギュラス。あなたが気づいてしまったなら、私はあなたを送り出さないといけないの。私の命と決意を無駄にしないで。それに、元の世界ではクリーチャーもご両親もあなたのことを待っているわ。あなたは帰らないといけないのよ」

 真顔で見つめ合う二人、またしても負けたのはレギュラスだった。すでに命を賭けたグレイスはもうレギュラスを送り出す以外に選択肢はないのだから。

「レギュラス、あなたは生きて。私を追ってなんてこないで。約束よ」

 言い聞かせるように、なだめるように優しくグレイスが言った。こんなにも優しい口調で、それなのに話していることはレギュラスにとって残酷なことで、聞きたくないのにこれが最後のグレイスの声だと思うと聞かないわけにはいかない。何かで、一番最初に忘れるのは声だと言うことを見た気がする。どうしても忘れたくないグレイスの声を確かに耳に残して、レギュラスは途方に暮れた表情で頷いた。
 グレイスの願いならば無視なんてできない。けれど、死ぬ間際まで一緒にいたクリーチャーのことは確かに心配だ。確かに帰って様子を見たい気持ちもある。それに、きっと僕はこの世界から拒絶され始めている。
 レギュラスが、ここが夢の世界であると判断したその瞬間から、レギュラスは奇妙な違和感がまとわりついていた。居心地の良かったはずの家なのに、むずむずするというか、この場所に自分が嵌まらないような感覚。それは、この世界がレギュラスを異物であると判断したからであり、今まで通りずっとこの場所にレギュラスがいられないことを意味していた。
 いつまでもここにはいられないのか。僕は、行かなければならないのか。
 そのレギュラスの思いは決して口には出さなかったが、向かいでレギュラスを見つめていたグレイスにはそれがわかっているようだった。

「行くんでしょう。帰り道は私にはわからないけれど、きっとあなたの向かう先に出口はあるはずだから」
「……ああ」

 全てわかっている笑みのグレイスは、椅子から立ち上がってゆっくりと玄関へと向かう。そうして玄関の扉を開いた。

 家の外は、先ほどまでとは完全に様変わりした世界が広がっていた。空も地もなく、白くてきらきらとした空間が広がっている。何が光っているのかなんて皆目検討もつかないけれど、別にそんなことはどうでもよかった。
 その空間には何かの結晶がところどころに浮いている。緑、青、紫、どれも触ったらひんやりとしていることだろう何かの鉱石のようだ。しゃらん、しゃりんと鉱石同士がぶつかる音が妙に無機質で、まるで無が支配する宇宙のようだ。そう思うと一歩を踏み出すのが恐ろしい。
 そこはただひたすらに美しくて、触れれば壊れてしまいそうで、明らかな作り物の世界だった。
 レギュラスは一度、後ろを振り返った。そこには微笑みながら、どこか寂しそうで顔をくしゃりと歪ませたグレイスがいた。ああ、グレイスも別れを惜しんで、どうしても行かせたくないという思いを押しつぶしているのだ。レギュラスにはそのことがよくよくわかった。

「グレイス」
「……なに?」
「行ってくる」

 だから、レギュラスはさらにグレイスを悲しませるような表情はしないようにと努めた。レギュラスから自分自身の顔は見えず、実際にどんな顔をしているのかはわからない。けれど、涙はじわりと目頭を熱くするだけで頬に伝う感触はなかったからきっと泣かずに済んだのだろう。
 今生の別れでは決してなくただ出かける時のような、何でもないことかのように最後の挨拶を交わした。ここでレギュラス本人まで泣いてしまえば二度とこの夢から出られなくなるだろうから。それは結局のところグレイスが本当に望んだことではないのだから、レギュラスも本心を押し殺して爽やかに笑った。

「……いってらっしゃい」

 レギュラスの思いが伝わったグレイスも、泣いてはいなかった。本当は泣いて縋って引き留めたいけれど、自分の命を引き換えにしてでも生かしたかったレギュラスをここに引き留めることは自分の決意を踏みにじることだから、ぐっとそのわがままを飲み込んだ。泣きそうな表情をしていたけれど彼と同じように笑顔を作り、そして挨拶を返した。
 グレイスを抱きしめたい衝動をなんとか抑え込んだまま家の外へと一歩を踏み出して、そうして。



 そうして、レギュラスは目を開いた。
 そこは一度にを迎えたその直前までレギュラスがいた場所、彼の方が自身の魂の一部を隠した洞窟で、彼は自分が死んだはずの場所で自分がそっくりそのまま命を取り戻したことを知った。無数の亡者が襲ってきた湖の岸辺、倒れている身体の半分がまだ湖に浸っている状態で、そのことに気づいたレギュラスは慌てて起き上がり岸辺から離れた。けれど亡者達はその姿など最初からなかったかのように水音ひとつ立てない。また湖に引きずり込まれてしまうのではないかと思っていたが、どうやらそのようなことはないらしい。湖の亡者達も、レギュラスがすでに一度死人になったことを理解して襲う必要もないと思っているのだろうか。
 水に濡れ、埃まみれの服はもうどうすることもできなくて汚いままだ。杖を探そうと思い立つまでに状況確認に費やした数分の時間を要したが、身の回りには杖はない。もしかすると水底に沈んでしまっているのかもしれないけれど、襲われなくてももうレギュラスにはこの湖に入る気などない。杖は諦めたが、レギュラスにはそれほど不都合はない。もう杖のない生活は夢の中で何ヶ月も過ごしていたから。
 ぱんぱんと服の埃を払い、そうして自分の意思で手放してしまった幸せを脳裏によみがえらせた。

 悪夢から覚めた日の朝食、グレイスの手製のパンがいつでも焼き立てのようにおいしくて、夢の中での一番の気に入りだった。レギュラスの淹れた紅茶がグレイスの気に入りで、私にはこの味が出せないわと笑っていた。確かにグレイスの入れる紅茶は時間を置き過ぎて渋みが出てきていたから、渋くならないうちに早めに飲まなければならなかった。
 よく晴れた日には庭で近場のピクニックをした。庭でとれたレタスは歯応えよく、レギュラスの好きなハムサンドとグレイスの好きなスクランブルエッグによく合った。
 雨の日には二人で静かに雨の音を聞いていた。レギュラスは読書を、グレイスは裁縫をしていたがその雨音があるだけで満たされた時間になっていた。
 風の強い日には事前に庭の野菜を早めに収穫したり鉢植えごと家の中に避難させたりして、家の中が狭くなったねと話していたものだ。つんだ若いブルーベリーの実をひとつずつ同時に口に放り込み、まだ甘みが充分でなく二人して酸っぱさに口をすぼめていた。
 あの夢はレギュラスにとって最も幸せな時間だった。もうそれが戻らないのだと実感して、伏せた目から何かが落ちた。

 レギュラス、あなたは生きて。約束よ。

 グレイスの言葉がまだ耳に残っている。レギュラスはこの先何度もグレイスのもとへ行きたいと願うだろう。そしてきっと、自分で自分を殺すことができないままのうのうと暮らしていくことだろう。まるで呪いのようなグレイスの言葉はしっかりとレギュラスの胸に刻まれて、神への言葉以上に違うことはできない。いもしない神に赦しを請うことはできても、グレイスにはもう言葉は届かない。
 
 グレイス、これが君の望んだ未来なのか。
 レギュラスは内心でつぶやいた。きっとグレイスはこの先レギュラスが積み重ねていくであろう苦悩と絶望など知らずに彼を生かし、無責任にも彼の代わりに死を肩代わりして、何も知らずに死んでしまった。時折グレイスの気配を感じては彼女がもういないことを思い知らされながら生きていくことになるのだ。
 ぐ、と息を呑み、そうしてゆっくりとその息をはいた。それは、自分が行おうとしたことそのものだった。グレイスの知らぬところで死のうとしたレギュラスへの罰なのだろうか。それならば、甘んじて受ける以外にレギュラスには選択肢がなかった。どちらにせよ、グレイスが救ったこの命を無様に散らすわけにはいかない。
 幸運にもレギュラスの裏切りは彼の方には知られてはいない。死喰い人にひそむ裏切り者として、機会を窺い、そうして彼の方を倒す者の手助けをする。それが生き残ったレギュラスの使命なのだろう。レギュラスが決めたことならば、きっとグレイスはそれを後押ししてくれるはずだ。
 そうして、レギュラスはこの先グレイスのいない未来を生きていく。それをグレイスは望んでいるのだろう。きっと幸せになれるのだと信じて、幸せになどなれないことを知らないまま。

「そうなんだろう、グレイス」

 当然、その言葉に返事はなかった。




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