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気泡と化す身体、泡沫の夢、その時わたしには確かに、光が見えたのです





『人魚姫はたとえ王子に愛されずとも、彼を愛しぬく道を選び、泡になって消えました。』

まったくめでたくないお伽話の終焉。誰が好むのかも分からないようなバッドエンド。少なくともわたしはこの話が好きではない。だが、だからといって人魚姫の行動が理解できないという訳でもないのだ。むしろ、同じ恋をする立場であるわたしには、その愛を否定することなどできなかった。

だがもしわたしが彼女と同じ状況になった時、わたしはどうするだろうか。過去にテティスはその問いに、ジュリアンのためならば命も惜しくはないと笑ったが、わたしはその問いに即答することができなかった。たしかにお伽話の王子様のように、カノンはわたしを愛してはくれなかったし、それでもわたしは人魚姫のようにただ彼を愛していた。でもだからといって彼のために命を捨てられるかと言われると、それはそれで疑問であったのだ。

隣を泳いでいたイルカがふとわたしを見る。まったく賢い子だ。少しばかり気分が落ち込んだことにもすぐに気づいてくれるなんて、本当にかしこい子だ。

「良い子ね、大丈夫よ」

そっとその額を撫でれば、きゅうと小さく鳴いた彼はそのまま泳いで行ってしまった。深い蒼に飲み込まれて見えなくなるまで彼を見送り、そっと揺れる天上を見上げた。泡沫がぱちりと消える。光が差し込んでいて、それはあの海底神殿となにも変わらない気がして、だがすぐにそんなことはないとわたしは溜め息をついた。何も変わらないですって?馬鹿馬鹿しい。こぽりと泡が海上に上がっていく。

もうわたしの知るあの場所はない。廃墟以外なにも残ってなどいない。彼も、親友も、海闘士たちも、みんな。





テティスがジュリアンのためなら死ぬこともできると言った時、わたしは即答できなかった。


でも、今ならわたしはその問いに答えることができる。ねえ、カノン、今ならわたし、何の迷いもなく答えることができるよ。きっと、もう遅いのかもしれない、けれど。

「わたし、貴方のためなら命なんて惜しくないわ」

貴方の身代わりになって、貴方がこの世界で生きていけたのだとしたら、それならわたしはなんの迷いも悔いもなく決意を決められる。気づくのが、取り返しのつかないほど遅くなってしまったことだけが、わたしの最大の失敗なのだろうか。

海上が揺れる。
ゆらり、ゆらりと差し込む太陽の光にそっと目を細めた、


「なまえっ」

そのとき聞こえるはずのない声が響いた。

「・・・テティス?」
「なまえ!ああ、良かった、生きていた・・・!」
「そ、それはこっちの台詞よ!テティス・・・、どうしてここに!」

物凄い勢いでこちらに泳ぎ寄ってきた彼女の手をとる。ぐるぐると回転しながら笑顔で泳いだテティスがわたしに抱きついた。確かな感覚、これは幻覚なんかじゃない、たしかに、彼女は今生きている。

「ど、どうして?ううん、心配したのよ!ばかテティス!傷ついたまま、ジュリアンを海上に一人で運ぶなんて無理だって分かっていたのに!どうしてわたしを呼んでくれなかったの!?」
「呼んでいる時間もなかったから、ごめんなさい、なまえ!ああ、でもまたなまえに会えるなんて!!」

嬉しいといってくるくると泳いでみせたテティスに今度はわたしが抱きつく番だ。わたしだって、テティスにずっと会いたかった。ああ、今日はなんて良い日なんだろう。親友の人魚に再びこうして出会うことができたとぎゅうと、抱きつく力を強めるとテティスが笑った。

そしてポセイドン様の御力かと問うた私に彼女は大きな目をくりくりとさせて首を振った。

「女神の起こした奇跡よ」
「アテナ・・・?」
「来て、なまえ!皆待ってる!!」

ぐ、と手を引かれ、テティスは物凄いスピードで泳ぎ始めた。最初こそついてきていた海亀もしばらく行くと諦めたのか別の方向へ泳いで行ってしまう。

「は、早いわ、テティス!」
「だって嬉しいんですもの!」
「だからってこんな急がなくたって!」
「海闘士様たちをお待たせするわけにはいかないわ!」

結局ボロボロの海底神殿につくまで、テティスがそのスピードを緩めることはなかった。




こつん、と遺跡のかけらを蹴った。ころころと転がった白いかけらはやがて、神殿の柱にぶつかって止まった。

それを眺めながらも、先に駆けだしたテティスの後をゆっくりと追う。今日は良い日だ。きっと良いことが起こるに違いない。そしてたしかに、私がそう思ったのは間違いではなかった。



蒼の中をふわりふわりと漂う。髪を揺らしたのは風か潮の流れか。澄んだその奥へと泳いでいきたくなる。魚とイルカと、クジラの歌を聞きながら、深いところを漂ってそしてその奥で眠りについた時、果たしてわたしは幸せになれるのだろうか。いやまさか。それは確かに理想的ではあるけれど、もっと素敵なものを再び見つけてしまった今、海底に隠れてしまうなんてわたしには出来そうもなかった。

青に光が差し込む。

本当に、なんて綺麗なんだろうか。
海の色、空の色、少しずつ違うけれど同じ青。

「・・・なまえ、俺の目がそんなに不思議か?」
「ええ、不思議。今も貴方の目に溺れて沈みたい気持ちになったところだったわ」

頬を両手で挟んでじっと見つめていれば、カノンが少し居心地悪そうにそう呟いた。確かに顔を掴まれて目を覗きこまれ続けるのはそう気分の良いものではないだろうとわたしが笑えば、彼の顔が少し歪んだ。

「なまえ」
「カノン、生きていたの?」
「死んでいた」
「それじゃ、貴方もテティスの言った通りアテナの力で?」
「女神が冥王に直訴したんだ」
「そう」
「そうだ」
「また会えてよかったわ」
「そうか」
「わたし、もし次にカノンと目が合うことがあったとしても、それは光のないものだと思っていたもの」

死体の淀んだ目、冷たい身体。どうせ出会うこともないのだろうと思っていたが、本当はもしかしたら奇跡が起きたかも、なんて期待していたのも事実で。死体だけでも彼が長い間過ごしたこの場所に戻ってくるかもと考えては、生きていてほしいなんて矛盾した考えの中で何度夜を超えただろうか。

だけど、もしわたしの期待の中でも悪いほうが実現してしまったなら、わたしはそれを海の底の深い深いところにまで持って行って、もう誰も見つけない、誰も見ないところに隠してしまうつもりだった。美しくて、不器用で、悲しい運命を背負った彼のことを覚えているのはわたしだけで良い。そうすればもう二度と彼が中傷されることはない。貶されることも、馬鹿にされることもない。双子の兄と比べられて傷つくこともない。海底、汚い嘘も傷つけることしかない暴力もない楽園でわたしと貴方の二人きり。カノン自身がそれを望まなくても、わたしはそうしたかった。


「また生きて会えるとは思ってもいなかったわ、本当に」
「ああ、俺も思っていなかった」
「それで、貴方は、ここに何をしにきたの?」


まさかお伽話の王子のようにわたしを迎えに来たわけでもあるまい。そもそもわたしは王子が迎えに来てくれるようなお伽話のヒロインにはなれそうもない。どちらかというと王子に振り向いてもらえずに死んでいく人魚姫だと自嘲する。カノンはそんなわたしをただ黙って見つめていた。

「貴方は、海を捨てて行ったわ」
「・・・元々、俺のものではなかった」
「でも確かに、実質的に貴方のものであった時があったのに」
「そうだ、だから戻ってきた」
「随分勝手ね」
「責任は取る。海界の復興に力を尽くすつもりだし、俺のしてきた事への償いをする覚悟もある」

そのために戻ってきたという彼の頬に添えていた手を離す。相変わらず少し乱暴で、それでも本当は生真面目な彼は変わらなくて、それがどこか、悲しかった。ああ、そうだ、彼は変わっていないのだから、どうせわたしの恋が良い方向へ変わることもないとどこかで理解したせいか。ああもう、このまま泡になってしまえたらどれだけ幸せだろうか。ふわりふわりと身体を泡にして、彼の眼の色の海に溶けて抱かれたい。そうして永遠にそこを漂い続けて、彼がいるこの場所を包んで、傍にいられたら、どれだけ幸せだろうか、なんて(そんなこと無理に決まっているのに)

でも、きっとそうしたらわたしは幸せになれるのだ。どうせ叶わない恋に身を焦がすくらいなら溶けて遠く、全ての母である海から見守っているほうが、気持ちもずっと楽だ。それが逃避だとしても、わたしにはそれが叶うことが無いのに、慕い続けることよりもよほど魅力的に感じた。それほどわたしが弱いということだろうか。でもきっと、童話の人魚姫も同じだったはずだ。同じ状況になったことがない人間は、勝手に悲劇的な可哀想な人魚姫と同情するかもしれないけれど。

人魚姫は、きっと幸せだったとわたしは何故か、なんの根拠ももたずにそう思うのだ。(だって、この広い海で愛する人を見守り続けることができる)


「なまえ」


くるりと海の中で一回転、もうこの場所に用はない。あとでアイザックやテティス、他のメンバーにも会いに行こうとそのまま泳ぎ去ろうとしたわたしの背中にカノンが声をかけてきた。彼からわたしに何か言うなんて珍しいと振り返る。髪が、潮の流れに乗ってふわりと泳いだ。

「なあに、カノン」
「お前、俺に言うことがあるだろう」
「は?」

そんなものはない。なにか言うと約束した覚えもないし、彼に今いわなければならないこともないと首を振れば、カノンは顔を顰めてみせた。なんなの、一体。

「久しぶりに会ったな」
「そうね、久しぶり。これで満足?」
「まさか」
「じゃ、なあに?」
「お前の気持ちをまだ聞いていない」
「・・・それ、どういうこと?」

いきなり訳が分からないわ、女神の蘇生も完璧では無くて脳細胞の何かが異常反応でも示して虚言症でも起こしているのではないかといったわたしの頭を彼が叩いた。すぐ叩くところは彼が海界を裏で統べていたころから何も変わらない。

「俺は、知っている。お前が、いつだって俺のことを見ていて、俺のためを思って発言して、俺のために笑ったり泣いたりしていたことを、知っている」
「なにそれ」

それは確かに事実ではあるが、彼本人の口から聞くのは少しアホらしく感じた。傲慢、そうだ、その言葉がぴったりだ。よくもまあ、自分に対する好意を少しも疑うことなく顕示してみせるものだ。

「俺がまだ知らないのは」
「・・・わたしの言葉?」
「そうだ」
「そんなものを知ってどうするつもり」
「どうだと思うんだ?」
「さあ」

ああ、けれどもう良いかもしれない。彼がこの場所、海底神殿を訪れてもう十数年がたって、その間わたしはずっと彼を慕い続けてきた。もう長い間、そうしてきたのだ。このままずるずると踏ん切りがつかず曖昧なままいくくらいなら、きっぱりとここで終わらせてしまうのもまた手ではないか。ああ、くそ、もうこうなったら直接ポセイドン様に直訴して泡にしてもらおう。そうして、お伽話の人魚姫のようにわたしだって彼の目の色の海に溶け込んで幸せになってやる。シーユーアゲイン、ハバナイスデイ、マイワールド!



「わたし貴方が好きよ」
「俺はお前を愛してる」
「嘘よ」
「嘘ではない」


ごぽりと泡沫が上がる。ぼこぼこと海上に消えて行ったそれを、わたしもカノンも見送ることもせずに視線を絡めた。突然こんなことを言い出すなんて、頭でも打ったのか。それか、やはり女神の蘇生も完璧じゃなくて頭がちょっとおかしくなっちゃったとか。それとも、

「・・・あのね、カノン、女子をそういった言葉でからかうものじゃないわ」
「からかっているものか」
「だって貴方はわたしのことなんて愛していなかったはずだもの」
「俺ではないお前が、何をもってそう判断する?」

ぐい、と手を掴まれる。海底神殿のなかに引き込まれて慌てて着地する。尾びれのまま地面に叩きつけられるなんて惨めな姿を晒すのは御免だ。もう少し優しく女子を扱えないのと粗暴なカノンを睨みあげる。だというのに、目があった彼はにやりと笑みを浮かべてみせた。

「最初は訳のわからん半魚女だと思っていたんだが、気がついたら一番近くにいるのはお前になっていた。なまえ、お前はよく笑ったし、よく怒った。煩わしかったのも確かだが、今はそれがないと落ちつかん。どう考えたって、俺が落ちつきを失くしてサガに煩わしいと殴られるのはお前のせいだ」

なにをどうして、それがわたしのせいになるのだとか、そういった初歩的な文句は喉から出てくることがなかった。それよりも、気になるのは別のことで、ぐるぐるとカノンの言葉が頭の中をめぐる。

「・・・それ、本当?」
「本当だ」
「だって、聖戦の時も貴方はわたしを置いて行ったわ」
「あの戦場に何を考えてお前をつれて行くんだ。弾よけにもならないだろうが」
「否定はしないけれど」
「なまえ、俺は神を騙した男だ。そして地上をめちゃくちゃにした。こんな俺が幸せになる権利なんて持っているとは思えんし、お前を幸せにする自信もない。だがやらずに諦めるのはどうも性に合わん。だから、なまえ、俺はお前のために精一杯努力してやるから」


お前は、と言って彼は一度言葉を区切った。カノンが蒼い海の色の目を細める。大きな手が目の前に差し出された。きらりと海上から差し込んだ光が彼の掌を照らした。



「俺を幸せにしろ」

なんて上から目線!
心の底からそう思うのに結局わたしはその手をとるのだ。



童話の結末を飛び出して
(気泡と化す身体、泡沫の夢、その時人魚姫には確かに、光が見えたはずだ)
(でも、わたしは、それよりもっと)

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