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寝台に腰かけ沈思に耽っていると、大きく冷たい手が左頬に添えられた。そろりと顔をあげる。

予想の通り、薄暗い部屋の中で私を見下ろす死の神の美しい瞳が、すぐそこにあった。


「…タナトス」
「答えを聞きに来た」

自信に溢れる声にそっと目を伏せる。

思い出すのは、つい先日のことだ。
彼が私に問いかけた「楽園に来い」と言う誘い。

それは人間の私にとって―さらにこの神が人間をひどく見下しているということを知っているからこそ―突飛な誘いだった。


呆気にとられ、「分からない」と答えたのは記憶に新しい。

ともかくも時間を置いてこの神は再び私を訪れたのだ。答えを聞きに。楽園に私が行くつもりがあるのか否かを確かめるために。


「…タナトス、この間、聞き忘れていたの。どうして、私を楽園に?」
「分からないとでも言うつもりか」

空いていた右の頬にも添えられる。
冷たい、それでもどこか優しいその仕草と正反対に私の気分は急降下していく。

「…貴方が人間を、…私を愛しているとでも言うの」
「人間を愛しているのではない。お前だからだ」
「安っぽい台詞よ」

鼻で笑った私に、タナトスが短く私の名前を呼んだ。

「いい加減答えをはぐらかすのは止めよ」

もう十二分に分かっているはずだという耳に心地の良いテノールの声を聞きながらため息をつく。

分かっている。
分からないはずがない。

人間である私が、神であるこの男にここまでの口利きを許されている。それがすべてを物語っている。
そもそも人間嫌いのこの神が、わざわざ私に会いに地上に出てきたのだ。答えなど、それで十分だった。

それなのにまだ私は尻込みしている。
何を恐れているのか。それは明白だった。私が恐れるのは時間だ。


「…いつか、私はしわくちゃのおばあちゃんになるわ」
「それが人間の運命だ」
「でも貴方は美しいままなのよ」
「それが神の運命だ」
「貴方こそ運命なんて安っぽい言葉ではぐらかすのは止めてよ、タナトス」

蚊の鳴くような声を、目の前の神に吐き出す。


「貴方はきっといつか私に飽きるわ。しわくちゃになった私を、貴方は愛せない。私はそれが怖い。一緒に老いて死ぬことが叶わないことも、いつか貴方の愛が冷めることも、私は怖いの」


タナトスは、愚痴のような私の言葉に何も言わない。一時の安心を与えるために「約束」という言葉で誤魔化そうとはしない。

恐らく言う事ができなかったのだろう。

見えない不確かな未来に、絶対の約束などできないということを誰よりも知っているはずだから。

その代わりに、彼は言った。


「それでも、お前を愛している」
「………」

タナトスのその言葉が、何よりも痛かった。

今だけの夢だとしても、十分だと思わせる魔力を秘めたその言葉が憎たらしかった。きっとそれに逆らえずにずるずると引きずられていくだろう臆病な自身の性根も、憎たらしかった。

「なまえ、お前が望まぬのなら、俺はもう二度とここには来ない」

それが覚悟だ。
そう告げた、心情を抑え込むかのような淡々とした言葉に視界が揺らいだ。

会えなくなるかもしれないというその事実が苦しい。ただ胸に浮かぶのは拒絶だけだった。

傍にいてほしい。
離れたくない。
どうしてか、そんなのは今更の疑問だった。何がここまで私を悩ませるのか、その答えも一つだった。


「貴方を愛してるの」

だから、私は離れたくない。
いつか終わると知っていても、今という有限の時間に酔っていたい。

酒の酔いはすぐには醒めないだろう。しばらくの恍惚を持って私たちを夢に微睡ませる。それなら、私は破滅と知っていてもその道を選ぶだろう。ただ、今という時間に酔い、判断を間違えているだけだとしても、それが終わるまで、まだ時間があることを知っているから。

恐怖さえ今はどうでも良いと思えるほどには、私はいつのまにか死の神を愛してしまっていたのだ。

「タナトス、貴方と一緒にいきたい」


頬を包む大きな手に、私の手を添えた。
青銅のように冷たいその手に、何故だろうか、泣きたくなった。

「愛している、だから連れて行って」
「…良いだろう」

薄い笑みを美しい顔に浮かべた死神に笑いかけた。
愛していると再度呟いた声は、果たして彼に届いたのだろうか。


トロイアの王女カッサンドラは、予言の神フォイボス・アポローンの求愛を拒み呪われた。
カッサンドラはいつか神の愛が冷め、捨てられて泣くことを恐れた。だが、そんな些細な恐怖さえ、彼女の免罪にはなりえなかった。神は彼女を呪った。

神はいつでも勝手だ。
人間はそれに振り回される。

それなら、もしもそれが真理だと言うのなら。


神の愛を受け入れた私は、どうなるのだろうか。

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