(*サガさんが料理へたっぴ設定です)
ざあざあと木々が風に揺られる。 その中に懐かしい声が聞こえたように感じ、振り向いた。
結局のところそこには誰もいなかったが、私の背後には一本の大樹、そしてその大樹が作り出す大きな木陰があった。
遠い青空を貫くかのような褐色の山に続く十を超す石造りの神殿を眺めながら、その木陰に腰かける。
まだ太陽が昇ったばかりの早朝。 訓練生も寝静まり、見回りの雑兵も今は聖域の結界付近を警備しているはずだ。
そのため誰もいないその場所で沈思に耽るのは随分と久しぶりのことだったが、それでも13年前には癖とも呼べるほど自分の中に浸透していた習慣だった。
目を閉じれば、辺りには風と、風が揺らす木々の奏でる小さな調べだけが耳を満たす。
ここでこうすることが、無意味であるという事はとうの昔に気付いていた。
こうして得たものなど何もない。 失ったものは多くある。 かつて私は常にここで振り返り、足跡を確認してきた。
そしてそれは無意味だった。過去のことをどれほど考えたところで今日という日も過去も変えることはできない。ようするにただの無駄である。
「………」 一度深い息をつき、頭上を見上げる。木漏れ日。
女神は奇跡を起こしたのだ。 柔らかで暖かな微笑みを浮かべ、人には到底手の届かないそれを私たちに与えたもうた。
アイオロスに対し、私は正直なところ拍子抜けした。
彼は私に対し、何か文句を言うでもなく昔のように笑いながら「おい、眉に皺が寄っているぞ」とだけ口にした。何故殺したのかと、裏切り者と、反逆者と罵られることは決してなかったのだ。
アイオリアも同じ。私は彼に怒りをぶつけられることもなく、昔のように接し言葉を投げかけられた。
どれもこれも信じられないことばかりだった。それらは受け入れがたかった。そして私にはひとつの疑問が生まれる。
その疑問は、私は彼らに罵られたかったのかというものだ。 いいや、違う。その疑問には否定ができる。そうではなかったのだ。
私は事実そのアイオロスとアイオリアの態度に安心したのだ。 しかし安心したという事実が私にとって許せないというだけの問題だった。
深いため息をつき、邪魔な前髪を掻き揚げた瞬間、眼の前に人が立ったことに気が付く。
「おはよう、サガ。相変わらずひどい顔ね。眉間にしわが寄っているわ」
柔らかな笑みを浮かべ、冗談めかして言った女性に苦笑を返した。
「なまえ、朝早くからこのような場所にいるなど珍しいな」 「今日は早く目がさめちゃってね…、もう眠れなそうだったから散歩に来たの。ね、隣良い?」
黙って少し横にずれた私の隣になまえは腰かけた。 そして大樹に背中を預けると木漏れ日を零す木の葉を見上げる。
彼女はしばらく何も言わなかったが、その顔には僅かな笑みが浮かんでいた。
穏やかで暖かな、彼女のもの。 幸せだった少女が持っていたもの。
いつしか彼女はその笑みをあまり見せなくなった。
それはいつからか、考えずとも分かる。 彼女の親しかったアイオロスが逆賊として誅殺された夜からだ。
視線に気が付いたのか、なまえが首を傾げながら私を見た。
「私の顔に何かついている?」 「…なまえは今、幸せか」
アイオロスが戻り、多くの笑みを取り戻したなまえへ向けた突然のその問いに、彼女は目を丸くして私を見た。 再びしばらくの沈黙が場を見たし、やがて彼女が少し困った顔で「急に、どうしたの?」と言葉を発した。
「アイオロスが戻り、聖域の均衡が全てもとに戻された今、なまえは幸せなのかと疑問を持ったのだ」 「…いや、それは分かったのだけれど、急にどうしてそんな質問をされたのかなあって…」
頬をかいた彼女がそう言うと、こちらに向き直る。 悩みがあるのなら聞くと言った彼女に、自然と笑みがこぼれた。
世話焼きななまえの性格はどうやらあの13年のうちにも変わらなかったらしい。その懐かしさにどこか愛おしささえ感じながら決して悩んでいるわけではないと告げた。
「アイオロスと、アイオリアの笑顔を見た」 「うん」 「多くの者たちも笑っている、今を。女神の加護のもと、誰もが懸命に生きている。ならば、私のしてきたことは何だったのだろうか」
このような言葉を、アイオロスや彼の弟であるアイオリアとも親しかったなまえに言うことが正しいことなのかさえ今の私には分からない。
しかし彼女はきょとんとした表情を崩すことなく問いかけた。
「サガ、貴方のそれは後悔?」 「…いや、」
私にはどうあってもあの道以外選ぶことはできなかったし、選ぶことはしなかっただろう。 それを誰よりも理解しているからこそ言える。
これは後悔ではない。
後悔とは多くの場合、過去に別の行動をとっていればと悔やむ心だ。 私は悔やんでなどいない。あの時の私には何をどうしてもああせずにはいられなかった。
「…これは疑問にすぎない」 「良かった、後悔しているなんて言われたらぶん殴ってやろうかと思っていたの」
満面の笑みできっぱりとそう言ったなまえが私の肩を軽くたたいた。
なまえのことだから恐らくその言葉に嘘は混じっていないだろうことを悟る。本当にこの娘は13年前と変わっていないらしい。やんちゃだったところも、世話焼きなところも、僅かに首を傾げて心配げにこちらを見上げる目も、何もかもが。
それにどこか安心感を覚えた時、なまえがさらに問いかけてくる。
「それじゃ、貴方は私に慰めてほしい?」 「いいや、そこまで甘える気もない」
すぐに首を振った私に、朝日の中で彼女は目もくらむような美しい笑みを浮かべた。
「サガ、私は自分を不幸だなんて思ったことはない」
先ほどの疑問への返答として、あまりにもはっきりと告げられたその言葉に僅かに呆気にとられる。
彼女は逆賊として誅殺されたアイオロスと親しかったため、13年の間に僅かとはいえない辛酸を舐めてきただろう。
それなのになまえは今、迷うことなく不幸ではなかったと言った。そしてさらに彼女は続けて「むしろ私は幸せだ」と言う。
「何故」 「何故?それなら逆に聞くけれど、どうして私が不幸なの?」 「親友を失い、自身も長い間辱めを受けてきた」 「では貴方は13年間なんの苦もなかったというの?」
そんなことはなかった。 常に苛まれていたと言っても間違いはない。
しかしそれをはたして彼女に対し口にしていいのか悩む私に、なまえは笑った。
「苦しまない人生なんて人生じゃないわ。その中にいくつか良いことがあればそれで上等じゃない」 「しかし、誰もが幸せになることを願うだろう」 「貴方はみんなのそれを叶えるために行動を起こしたんでしょう」
アイオロスは、自身の考えでそれを叶えるために行動を起こした。二人のそれがぶつかってしまっただけなのだと言った彼女が眉を下げて情けないような笑みを浮かべる。
「だから、私はアイオロスのことも、サガのことも怒ってなんてないのよ。それに、皆帰ってきてくれたじゃない」
それでは駄目なのかと言ったなまえに黙り込む。
そうして簡単に出せる答えなどどこにも存在しない。私にとって割り切れる問題ではない。当然だった。私は事件の発端であり、彼女は単なる被害者である。私たちの思考が合致することなどない。
だからこそ黙り込んだ私に、なまえは呆れたように息をついた。
「相変わらず堅苦しい考え方は変わってないのね。サガ、貴方は少し物事を悪く考えすぎよ」
もっと前向きになったらいいと笑ったなまえが立ち上がる。 服についた草を払った彼女が動くたびに、新緑の香りが鼻腔を擽った。彼女の髪を撫でるように木漏れ日が光の輪を作り出すのを眺めた時、なまえがこちらを見て笑った。
「ねえ、貴方にとって大切なのは足跡なの?」
それは遠いひどい憧憬を覚えさせるような暖かな記憶だった。
大切なものは足であると、いつか私は彼女に言った。 今この瞬間まで忘れていたほど昔のことだ。
まだ未来に強い希望をかけていた少年の日の言葉。 私がそれを忘れても、なまえはそれを覚えていた。
「この言葉があったから、私は不幸じゃなかった。笑ってばかりはいられなかったけれど、それでも今日までやってこられた。だって私はまだ明日を作ることができるから」
貴方がいたから私は今日まで笑って生きることができたのだと言った彼女に頭を抱える。 なんてことだろうと思った。
それはもう何をきっかけに彼女へかけた言葉だったのかさえ私は思い出すことができない。
それなのに、彼女はその言葉のため今日まで笑って生きてきたと言う。なまえは歩き続けてきた。私が立ち止まりかけた今日という日にも、彼女は笑っている。
「つらくはなかったか」 「幸せだった」
告げられたその言葉に、目を伏せた。
「…そうか、ありがとう」
背伸びをした彼女の隣に立ち上がった。もうだいぶ太陽も上がり、アテナ神殿へと続く白亜の宮を眩いほどに照らす。 目を閉じれば、辺りには風と、風が揺らす木々の奏でる小さな調べだけが耳を満たす。隣には小さく、それでも暖かな小宇宙が一つ。
音は、景色は、温もりは、ああ、何も変わらないのだとようやく私は気が付く。 変わったのは、いや、変わりたかったのは私だったのだ。
実際変わることができたのかどうか、それはもう私には分からない。13年間の間私の中にあった陰は、もうその姿を直接に確認することはできない。割り切れるはずもない。私は多くを殺した。どれほどの人間を生かすことができたのかは分からない。どれほどの人間が幸せになることができたのか分からない。
しかし、それでも私は歩いてきたのだ。 今までそうしてきた。今日もそうして生きることができないわけがない。
後悔をしたくない。悔やまぬために懸命に歩いていく。 自分にできることをするために、救える人間を救うために、そして、次こそは女神のために。
「…なまえ、今日は時間があるか」
その問いにこちらを見たなまえが不思議そうな顔でうなずく。それに笑みを返して言った。
「昼を食べに来ると良い、準備しよう」 「…え、えっ?サガが?ちょっと待って、貴方料理の腕は上がったの?」 「下がっていないはずだ、いや、昔と変わらないとこの間カノンが言っていたから安心しろ」
その言葉に、なまえの顔色が幾分青くなったように感じた。 何か問題があったのだろうかと首を傾げれば、彼女は目をそらして呟いた。
「アイオロスも誘ったらいいと思うわ…、一人じゃ耐えられない…」 「…?」 「なんでもないわ!ほら、また昔みたいに分かり合うきっかけって必要でしょ?だからアイオロスも!」
妙に不自然な笑みを浮かべながら言ったなまえの挙動を疑問に感じたが、それでもその言葉に頷いた。
「…そう、だな。アイオロスも誘ってみることにしよう」
そう言えば、不自然な動きをしていた彼女も、やがて穏やかに笑った。
「また歩ける?」 「…ああ、歩けるだろう」 「もしいつか歩けなくなったら私が引きずってあげてもいいわ」 「それは頼もしいな」
そして二人で歩き出す。
背後を吹き抜けた風が大樹を揺らした。木々から発せられるざあざあという変わらぬ懐かしい音に、ほんの一瞬瞼を閉じて、そして再び足を踏み出す。
そして戻った十二宮。 穏やかな日差しの中、見知った金髪を見つけ声をかけた。
「アイオロス、ちょうどよかった。探していたところだったのだ。暇ならば昼は双児宮に食事に来ないか?なまえもお前を呼んでいる。なんだ、何をそんなに焦っている?安心しろ、料理の腕は昔から変わっていないはずだ」
時は光の如く移ろい、されど変わらぬものがここにある。
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