私は元人魚です。今は人間です。 長い間私は人間が嫌いでした。人間はとても恐ろしい生き物なのです。
でも、ひょんなことから知り合いになったカノンのことは嫌いではありません。
人魚の間の古い言い伝えでは、人に名前を教えることは禁忌とされていました。 しかし、それでも私はどうしても彼に名前を呼んでもらいたかった。
彼を愛してしまった。
だから私は彼に名前を教えたのだ。 そしたらなんと、不思議なことに私は人間になることができたのだが。
「はやく歩け!」 「嫌です無理ですごめんなさいいいいい!!」
人として生きるためには、人間の中で過ごさなければならない。 それが私にとって第一の、そして最大の試練だった。
「いい加減にしろ、なまえ!」 「ひいいっ!すみませんごめんなさい!!」
先ほどから森と呼ばれる、木が鬱蒼と茂る場所でカノンと手の引っ張り合いっこをしている。
だが、到底彼の力に敵うはずもなくずるずると私が引きずられているのだ。 それでもなんとか逃れようと必死に踏ん張る。とうとうカノンは苛立ったように私を見た。
「ご、ごめんなさい…!」
それでも嫌だったのだ。
どうやらこの木々を抜けた先にはたくさんの人間がいるらしい。 そして私はそこに連れて行かれるらしい。
人間がたくさんいる場所に! 私が! 信用できる人はカノンしかいないのに!
今はお前も彼らと同じ人間ではないかと言われればそこまでの問題、されど私には大きな問題だ。 たとえ自分も人間になったからとはいえ、それまで持っていた恐怖心までが消えるわけではない。
目が覚めて、自分の足を見るたびに人間に見つかったのかとびくびくぶるぶるしている今はまだ、とてもカノン以外の人間と接することなどできやしない。
そんな私を引き摺りながらカノンが顔を顰めて言う。
「お前はそのままで生きていけると思っているのか」 「思っていません!」 「なら歩け!」 「まってください、心の準備がっ!!」 「もう丸一日心の準備はさせただろう!!」
そうだ。 カノンは嫌がる私に一日の猶予を与えてくれた。それでもやはり足りないのだ。
「その場所にはっ、どれくらいの人間がいるのでしょう?」 「知らん、数えたことなどない。というより数えられん」
それほどの数なのだ。 その事実に恐らく私の顔は青ざめたのだろう。振り返り私を見たカノンが眉を寄せた。
「…そんなに嫌か」
眉を寄せて、目を細めて。 それなのに怒っているというより、どこか悲しげに見えて言葉に詰まった。
違う、違う。 私はカノンにそんな顔をさせたいわけではない。
慌てて彼の服の裾を掴んで首を振った。
「カノンがいれば、頑張れる」
その言葉にカノンは変な顔をした。 色々な感情がごちゃまぜになったその表情に首を傾げたとき、彼がぷいっとそっぽを向く。そして「それなら早くいくぞ」と言って歩き出した。先ほどまでの悲しげな表情はすっかり影を潜めて、それが嬉しくなり頷いた。
人間は嫌だ。怖い。 でも、それ以上にカノンが一緒ならばきっと大丈夫なのだろうと思うから。
少し前を歩く彼の手を引く。
「あの、カノン」 「なんだ」 「手を、繋いでも良いですか?」
カノンは私を振り返った。 青い目がまっすぐに私を見る。何かいけないことを言ってしまったのだろうかと心臓がどくりどくりと動き出した。
初めて触れた時、燃えるような痛みに私は恐怖した。 けれど、その毒を持った熱がいつしか大切になった。 そして彼に抱きしめられたとき、その熱が何よりも愛おしいものに変わった。
その理由は、きっとその熱が彼のものだったから。
しかしカノンは黙って私を見つめたまま黙り込んでしまった。 やはり駄目だったのだろうかと少し残念に思いながら口を開く。
「あ、あの、もし駄目なら、良いです」
だが、カノンはすぐに私に黙って手を差し出してくれた。
「!」 「…好きに、しろ」 「はい!」
すぐに暖かで大きなそれを取った。ぎゅうと握れば、握り返してくれる力が嬉しくて頬が緩む。
「ありがとう、カノン」
彼を見上げてお礼をすれば、カノンは黙ったままずんずんと歩きはじめる。照れ屋なのか、なんて思いながら私も慌てて追いかけた。
そして森を抜けると、眼の前に広がったのは海底神殿と同じような作りの、しかしそれよりはるかに光に満ちた神殿や列柱の数々だった。
天を貫くかのような高い山に伸びる多くの神殿。 海の底にいては、永遠に見ることのできなかっただろう光景に息を飲んだ。
「行くぞ」 「はい」
それからのことは、目まぐるしく動く景色と過ぎていく人間のため、よく覚えていない。ひたすらにカノンの背中に隠れていた気がするが、何人かの人間が私の頭を撫でてくれたのは確かだと思う。
そしてなんとかたどり着いた神殿の中で、柱に寄り掛かりしゃがみ込んだ。
「おい、そこはまだ部屋ではない」 「じゅ、寿命が縮まったかもしれません」
ふうと息を吐きながら言った言葉にカノンも息をついた。それを見て頭を抱える。私は彼の陰に隠れてばかりだった。
「ごめんなさい」 「謝るなともうずいぶん前に言ったはずだが」 「でも、ごめんなさい。私、迷惑ばっかり」
その言葉にカノンは、「初めから何もかもができるとは思ってはいない」と言い、すぐに「徐々に慣れていけばいい」と続けた。 どうしてそんなに優しい言葉をくれるのだろうかと見上げた海の瞳は、まるで夏のそれのように穏やかだった。
「…はい、私、頑張ります」
彼の負担にならないように。 ここで生きていけるように。 いつか、彼のためにも生きられるように。
「がんばりますね、貴方の傍にいたいから」
カノンはその言葉に目を丸くし、そして頭をかいた。
何をしているのだろうかと不思議に思う間にも彼は沈黙を続け、やがて深く息を突きながら声を発した。
「…あー…」 「?」
とても言いづらそうに、しかしそれでもカノンは言った。
「頑張るのは構わんが、頼ることを忘れるなよ」
小さな、耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうなほど小さな声でカノンは言った。その内容に少し驚きながら彼を見上げる。
「…だって、もう十分…」
今日だって、彼の背中に隠れて逃げるようにここまでやってきた。どんな人間と接したのか覚えていない。これ以上何を頼るのかと問いかけた私の頭をカノンは乱暴に撫でた。そして腕を引かれ、私はそのまま立ち上がる。
「言っただろう、初めから何もかもができるとは思っていない。できないことがあるのなら頼れば良い。お前をここに無理やり連れてきたのは俺なんだ」
無理やり連れて来たなんておかしな言い方をするものだと思った。どちらかといえば、無理やりついてきたのほうが正しいのではないだろうか。 まるで正反対のそれに首をひねり、そして気が付いた。
「一緒にいたいって思ったんです!」 「…は?」 「だからこれは無理やりなんかじゃなくて、私たちが一緒にいたいって思ったからできたことで、えっと…」
そこで言葉につまり、何と言葉を続けるべきか分からなくなってしまう。 私の頭が悪いせいか。だが必死に続ける言葉を考え続けた時、カノンは笑った。
全て言わずとも、なんとなくは分かってくれたらしい。それを嬉しく思い、私も笑った。
「カノン、カノン」 「なんだ」 「まだもう少し、手を繋いでいても良いですか」 「…好きにしろ」
礼を言って彼の手を握った。
ふにゃりと緩んだ顔を見たカノンも、呆れたように、それでも少しだけ嬉しそうに笑う。
「カノン、好き」
カノンはそう言った私を見ると、私の顎に手をかけた。 そして驚く間もなく唇同士が触れ合った。
「な、」
にやりと笑みを浮かべたカノンが、私の手を引いたまま奥の部屋へ入っていく。
「俺はお前を愛している」
低く穏やかなその声に胸が締め付けられるかのような心地がした。 そして、また心臓がどくりどくりと動き始める。この人はきっと私の寿命を短くする。でも、カノンならば寿命を短くされたって構わない。私を人間にした。彼の傍で生きられるようにしてくれた、カノンなら。
その思考が何か恥ずかしいもののように感じた瞬間、頬に熱が集まった。
ぷすっと音を立てそうなそれに首を振った。 不思議そうな顔で振り返ったカノンにさらに首を振る。
今この心情を彼に知られることは避けたい。 よく分からないが、恥ずかしすぎる。
「…なんだ」 「な…なんでも、ないです」
そして間近で私を覗き込む海の瞳を見上げる。
青、青い。
故郷の色。 彼に見つめられるだけで、まるで深海で浮遊している時のような感覚を思い出す。今は、カノンが私の故郷になりかけているのかもしれない。もし、そうなのだとしたら私はもう本当にあの場所へ帰ることはないのだろう。いや、温もりを知ってしまった今はもう、あの一人ぼっちの場所には帰りたくない。
人は、恐ろしい。 しかし、カノンは温かかった。 もしかしたら、他の人間もそうなのかもしれない。私はそれをこれから時間をかけて知ることができる。
カノンの隣で生きながら。 彼と同じ熱を持つ今ならそれができる。そうしていきたい。
ぎゅっと彼の大きく、少し硬い手を握った。
「貴方と一緒にいたい」
カノンが口端をあげ、手を握り返してきた。
ああ、この熱は、愛おしい。
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