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「バレたら私、氷漬けの刑になるかもしれない」

かなり真剣に言ったその言葉に、ミロも笑みも浮かべずに頷いた。
ようするに二人とも真剣で、不安で、そして恐怖を感じていたのだ。私たちの目の前には広場の大時計。その時計が示す数字は夜の十一時。

ギリシャ、アテネの夜の十一時。
まだ空いているバーやタベルナはあるが、それでも恋人でもない若い男女が二人で連れ立ち歩く時間ではない。

手の中の紙袋をそっと抱きしめ、隣に立つミロを見上げた。


「こっそり戻ろう、それでばれないうちに部屋に戻って、明日何事もなかったようにカミュに接すれば良いんだよね」

人差し指を立てて提案した私に、ミロも腰に手を当て頷く。

「ああ、そうしたほうが良いな。ばれた時のことなど恐ろしくて考えたくもない。お前は今日九時に宝瓶宮に戻った、しかしカミュが真面目な顔で何かを考え込んでいたから声をかけるのはよした、ということにしておこう」
「嫌よ、私、カミュに嘘はつかないって決めているの」
「嘘と命のどちらが大事だ」

そんな軽口を叩きながら早歩きで聖域に向かう。

カミュはまだ起きているだろうか。もう眠ってしまっているかもしれない。いつもなら遅くまで出かけて、宮に戻ったときに彼が起きて待っていてくれているのはとても嬉しいが、今日は別だ。


「ミロと二人っきりでこんな時間まで会っていた、なんてばれたら絶対勘違いされる」


その言葉に、ミロも僅かに顔を歪めて頷いた。
カミュにばれたら面倒なことになるのは考えずとも分かるからだ。

私たちは別に浮気をしていたわけではない。
ミロのことは好きだが、それはカミュに対する好きとは違う。ミロはただの、そしてとても良い友人というだけだ。対するカミュは私の大切な恋人。だから余計なことを知られ、変な心配をかけることも嫌だし、勘違いされることも嫌だった。

だが、こんな時間まで男と二人で会っていたなどと言えば、いくら相手がミロとはいえ、きっとカミュは気分を害すだろう。私だってカミュが誰か女の子と二人っきりで夜遅くまで会っていたとしたら嫌だ。

カミュのことを疑う気はないが、彼は優しすぎる。
相手の女の子がその気になってしまったら、と考えると恐ろしくて仕方がない。


まさかあのカミュが、わたしなんかにそんな心配をするとは思えないが、それはともかくの話だ。
恐らく私の過去最速記録を出しアテネから戻った聖域でも、足を止めることなく十二宮に向かった。頭の中ではすでに宝瓶宮に戻った後のシミュレーションがスタートしている。

こんな時間だ、いつもならプライベートルームに戻って眠っている。もし、出かけた私を待っているのなら本を読んだり、氷河君やアイザック君に手紙を書いたりしているのだろう。そうしたらどうしよう。声をかけたら、きっとカミュはこんな時間まで何処に行っていたと私に聞くにちがいない。

「ねえ、ミロ。この際日付が変わるまで天蠍宮に隠れていても良い?その後宝瓶宮に帰って正直にカミュに全部話すわ」
「もしもカミュがお前を心配して小宇宙を探ったとき、そんな真夜中に俺の宮に俺たちが二人でいることが知れたらどうするんだ」

そんな恐ろしい経験はしたくないと首を振ったミロに、私も頷くほかなかった。
私の案は、カミュが私の小宇宙を探さなければきっとうまくいくが、彼が小宇宙を探ってしまえば現状をさらに数段階悪化させるのだろう。

「昼ドラの修羅場体験は嫌だもんね」
「ああ、絶対にい…」

いやだ、とミロは言おうとしたのだと思う。しかし彼は妙に不自然に言葉を切り、一瞬表情を無くした。次の瞬間顔を青くしたミロが私の手を引く。

「なまえ、隠れるぞ!!」
「え、ちょ…ミロ?」

まだ白羊宮前なのに、一体何から隠れるのかと眉を寄せて立ち止まった私の腕をミロが思い切り引く。少し痛んだ腕に文句を言おうとした時、シベリアの凍てついた大地よりも冷たいのではないかと思うような声がかかった。

「一体何から隠れるつもりだ?」

瞬間、ミロが顔を青くした理由を悟る。
同時に私の顔からも血の気がさっと失せた。

馬鹿な、そう思うのに、私の耳は確かに彼の声を聞きとったのだ。聞き間違えるなんてありはしない。しかしまさか、ここはまだ白羊宮の前ではないか、そんな僅かな希望を込めて視線を白羊宮に向けたが、そんな些細な希望はミジンコレベルに木端微塵にされた。

「カミュ、どうしてここに」

白羊宮の中からカツカツと靴音を響かせ、姿を現したカミュの眉間に寄った渓谷のような皺に眩暈を感じた。
恐れていた事態が、まさかこんな十二宮の始まりで起こるとは想像もしていなかった。ムウは一体何をしているのだろうかとか、どうしてカミュが白羊宮から出てくるんだとか、そんな疑問はどうでもいい。

彼が眉を顰め、口を閉じたまま私とミロを見た瞬間、頭の中まで真っ暗になった。


見られた。


絶対、絶対絶対百パーセント今の彼は勘違いしているに違いない。
何がって、そりゃあもう、私とミロの仲を、だ。とうとう友人の枠を飛び越えてしまったのかとか思っているに違いない。やめて、勘違いだよ、カミュ。私が大好きなのはカミュだけなのに。

私はそれを言わなければならないと思った。しかし私の口はぱくぱくと動くだけで言葉を発さない。口も舌も職務放棄をしないで働いてくれ!

慌てて助け舟を出そうとしてくれたのか、ミロがカミュを見上げる。

「おい、カミュ!話を…」
「黙れ、ミロ」

ぴしゃりと言い放ったカミュに動悸が早まる。これは相当マズイ。あのいつだって落ち着いているカミュが怒っているらしい。
その事実に驚愕する暇はない。ただ何と言ってその誤解を解くべきか、私の頭はフル回転を始める。しかし、それに良い結論が出される前に、カミュに腕を掴まれた。

なんてことだ、はたから見たら捕らわれた宇宙人の絵ではないのか。
左右を背の高い男に囲まれて腕を引っ張られるのは中々恐ろしいものだ。しかし、三人そろっているこの場だからこそカミュの誤解を解けるのではないか。それが女神のお与えになったチャンスに違いない!そう思ったのだが、

「ミロ、その手を離せ」
「ああ、もちろんだ」

ぱっと離された腕に、薄情者と叫びたくなる。ミロは私のことを切り捨てたのだ!この分でいくと、叱られるのは私なのだろう。
振り返って助けてくれと目で訴えた私に、ミロはにっと笑みを浮かべ「がんばれ」と口パクで言う。何をがんばれって言うんだ、何を?
私一人、カミュにみっちり怒られろというのか。やっぱり薄情者だ!そう思ったとき、ミロは今度こそ声に出して言った。

「おい、カミュ」
「…なんだ」
「…なまえは、お前の恋人だからな」

忘れるな、そう言ったミロの言葉を私は背中で聞いた。カミュはもう振り向かずにずんずんと進む。私は彼についていくことで精いっぱいだった。

次々と通り抜けていく宮では、眠っているだろう人を除き、まだ起きているそれぞれの住人達は目を丸くして私たちを見た。それがなんとも気まずく、しかし弁論の暇もなく宝瓶宮へと連れ戻された。


薄暗い宮は冷え切っており、どうやらかなりの時間無人だったらしい。それにまさかと思いつつも、腕を引くカミュの背中に投げかける。

「もしかして、ずっと白羊宮で待っていてくれたの?」
「なまえ」

私の言葉のためかは分からないが、ともかくようやく立ち止まったカミュが振り返り私を見た。

「何をしていた」

すぐ目の前に立ち、見下ろされる。あまりにもその距離が近かったせいで思わず後ずさった瞬間柱に背中がぶつかった。カミュの瞳が、私を柱に縫い付けるのではないかと思う鋭さで見つめる。

「こんな時間まで、何故ミロと」
「…今、何時?」

それははぐらかすための質問ではなかった。どうしても私はそれを確認しなければならなかったのだ。
質問に質問を返した私に、カミュは怒る権利も持っていたはずだが彼はそうしなかった。ただ冷静に今の時間を告げる。0時25分。とうとう日付が変わった。

「答えろ」
「ええ、答えるわ」

そして私は手にしていた紙袋をカミュの前に押し付けた。
彼の目が丸くなる。


「…なんだ?」
「それを探し回っていたら、こんな時間になっちゃったのよ。中々見つからなくてね」

開けてみてと言った私を、カミュは一瞬躊躇いがちに見たがやがて紙袋に手をかけた。
彼が袋の中身を見たのを確認し口を開く。


「貴方の生まれた町で作られたワインよ」

その言葉に目を丸くしたまま私を見たカミュに笑いかけた。

「今日、なんの日か覚えている?」
「…いや、」
「…カミュが初めて聖域に来た日なんだけれど」

私たちが出会った日。そのお祝いをしたかったのだ。
ミロにはワインを探すのに付き合ってもらっただけで本当に何でもない。

カミュは特別頑固ではないし、どちらかといえば柔軟なほうなのだろう。
だが人を見る目は確かなはずだから、私を見て、その真偽を量ることなどそう難しい問題ではなかったはず。しかし、彼は眉を寄せたまま立ち上がる。あんまり眉を寄せ続けているといつか彫刻のように皺が刻まれてしまうなんて言える雰囲気ではない。

これはまさかの本気で氷漬けパターンではないだろうな。
そう戦々恐々とした瞬間、思い切り抱き寄せられた。

「…すまない、勘違いをしていたようだ」
「ううん…、私こそごめん、心配させちゃったみたい。でも、私が一番にお祝いできた?」
「ああ」

カミュにしては珍しくきつく抱きしめられ、少し驚きながらも彼の背中に手を回した。

頬にかかる彼の髪がくすぐったく、笑いながら伝えた。


「カミュと出会えてよかったと思ってどうしても贈り物を渡したかったの」
「ああ、ありがとう」
「それで、…、…カミュ?」

ふいに強く抱きしめられ、顔をあげる。そして息を飲んだ。

いつもは落ち着き払ったカミュの表情。冷静な瞳が、今はどこ。


赤い炎のように情熱的な、鮮烈な光を有した瞳に、今は私だけが映っている。
知らなかった、カミュも、こんな瞳をするのか。
目があった瞬間心臓が跳ねあがり、扇情的なその炎に心が焼かれるのを感じる。

「カ、ミュ…」

どうしてそんな顔をするの、なんて愚問なのだろうか。自惚れてもいいのだろうか。心配と、そして少しの嫉妬が確かにそこにあったのだと。

「なまえ、ミロも男だ」
「…うん、わかっているわ」

でも私の一番はカミュだけなんだ。そう言えば、カミュは私をまっすぐに見た。どこか気恥ずかしくなり目をそらしたのだが、頬に手を添えられ結局見つめ合うことになる。


「心配をした。相手がミロだったと知った時点で、彼となまえを信用し安心すべきだったのに、私は不安になった」


すまないと謝った彼に首を振る。謝らないでよ、カミュ。
端正な顔が、嬉しいような、切ないような、そんななんとも言えない表情に歪むのを見て何故かひどく泣きたくなった。


心配をして、こんな時間まで起きて私を待っていてくれること。
白羊宮まで降りて来てくれること。
私の話をちゃんと聞いてくれること。優しいところ、本当はとても熱いところ、紳士なところ、弟子想いなところ。カミュのいっぱい好きなところを思い浮かべ、笑いかけた。


「一番大切なのは、貴方よ」

だから、本当は心配の必要なんてない。でも、彼が心配してくれるのは私を愛してくれているという証明だから、心配はいらないという言葉は黙っておこうなんて私はずるい女だろうか。


「愛しているの、カミュ」

返事はなかった。
代わりに唇に触れた彼の体温に笑みがこぼれる。すぐに離れた温度は、それでも確かに私の唇に焼け付くような熱を残した。いつだって人のことばかり考えている彼は、今日もまた、私のために口を開く。

「もう遅い。呼び止めてすまなかった」
「私こそ、こんな時間までごめんね」
「いや、私のためにありがとう」


ワインを手に、そう言った彼に首を振る。好きな人の為に、好きなことをすることがどうして苦になるだろうか。疲れてなどいない。

それに、まだ一つプレゼントが残っているのだ。一番大切なもの。私が贈りたいもの。
そして私は精一杯の背伸びをする。不思議そうな顔をしたカミュの肩に手を置き少し屈んでもらう。
好きでたまらない、愛おしい君に捧げたい私の気持ち。

宮に差し込むどこか冴え冴えとした蒼い月明かりに、そっと深呼吸をしてカミュの額にキスを落とした。彼の短く赤い前髪が揺れる。


「貴方に会えてよかったわ」


どうかこの想いを肴に、肺を満たす蒼くて赤い不思議な熱い炎に乾杯を。

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