冷たい風が吹き抜けて水面を靡かせた。
かさりと音を立てて枝から落ちた枯葉が、水面にたくさんの円を浮かび上がらせた。
湖水の向こう側では水鳥が身を寄せ合っている。
寒空。
ぼんやりとその風景を眺めていると突然後ろから手を取られた。驚いて振り返った先にぱっと浮かんでいたのは明るい笑顔。それがよく知った人だと気づき胸を撫で下ろした。
「…び、びっくりした」
アイオロスと彼の名前を呼べば、ロスはにこりといつもの笑顔を浮かべて私の頭を撫でた。
「何度も名前を呼んだのに気が付かなかったな」
考え事でもしていたのかと問いかけられる。
考え事、か。その単語に首を振った。
「そんなんじゃないよ、ただ、あと何回みんなで冬を越せるのかなあって思っていただけ」
私の言葉に彼が不思議そうに首を傾げた。
特に意味もなく、子供のくせに大きな彼の手を取る。冷たい空気の中で、それはいつもより一層温かく感じた。
「もうすぐ聖戦が起きるんでしょ?だから」
「ああ」
「…やだなあ、って思って」
今のように平和なままではだめなのだろうかと小さく呟いた私の言葉をアイオロスは静かに聞いていた。
湖面が風に揺られる。水鳥がギャアと鳴いたのを聞きながら目を閉じた。今はただ傍にアイオロスの温もりを感じていたかった。
「なまえ」
「うん?」
だがふいに名前を呼ばれて彼に向き直る。アイオロスは、笑っていた。
「もし、聖戦が起きても私は絶対に皆を守る」
「うん」
「だから、君は大丈夫だ。約束する。私は…、いや、俺も、なまえ、皆が笑っていられる世界のほうが良い。戦わないですむ世界が良い。だから、そうするために戦う」
矛盾しているなあと思ったけれど黙っておいた。
この矛盾だらけの世界で、そんなことは些細なことにすぎなかった。
だから黙って彼の話を聞いていた私に、ロスはまた笑う。何がおかしいのかと彼を見た私に、アイオロスは本当に突然言った。
「好きだ」
「え」
一瞬理解できずに彼を見上げる。冷たい風が吹いて、手を強く握られた。
「なまえが好きだ。だから、なまえがずっと笑っていられるような世界を作るから、君は待っていてくれ。それじゃあ、教皇宮に用があるからまた明日!」
「え、ちょ…ま、まって!」
呼びかけた私のことなど振り向かずにアイオロスは走り出した。
握っていた手も、放されてしまう。
冷たい風がまた一つ、随分と平時より熱くなった頬を掠めて通り過ぎて行った。
日が沈みだしたらしい。熱くなった頬を押さえて、この熱をどうしてくれるんだと一人でぼやいた。ああ心臓がとってもうるさい。ロスのせいだ。急に、あんな変なこと言うから。
アイオロスはキューピッドみたい。キューピッドの黄金の矢で射られると誰もが恋をしてしまうらしい。なら、アイオロスもきっとそうだ。だって彼も黄金の弓矢を持っている。それに今、私は彼のたった一言に射抜かれた気さえした、から。
胸の前で、繋いでいた手を握りロスの走り去ったほうを見た。教皇宮に用があると言っていた。降臨されたばかりのアテナに会いに行ったのだろうか。
なら、そこに行けばまた会える?
ねえ、アイオロス、私は馬鹿だからもっとちゃんと言ってくれないと分からないよ。私を好きって本当?教えてよ、アイオロス。
あと、それからこの熱の責任、とってほしい。
私もゆっくりとその場から足を進め、やがて駆け出した。
彼のところまで。すぐに会える、そう思いすっかり暗くなってしまった森の中を走った。
(待ってよ、キューピッド)
(もっとお話し聞かせて頂戴)
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(サガの乱の直前のお話です)
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