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 老師がいなくなってしまって、どれほど経っただろう。とても長い時間が流れたようで、それでいてまだ数日しか経っていないような不思議な心地だった。残ったのはただの虚無感だけだ。それに苛まれて、味気のない日々を五老峰の奥地で春麗と共に過ごすことにもすっかり慣れてしまった頃、普段は人の訪れることのまったくないこの地に見知らぬ不審者がやってきた。親しげに春麗に歩み寄るその姿を小屋の中から見つけて、人さらいと直感したわたしが彼に箒を片手に襲いかかったのは半日ほど前のことだ。彼から彼自身が天秤座の童虎だと説明を受けても、納得できずに警戒するわたしに彼は笑った。


 彼にはまったく見覚えが無い。だというのに彼は親しげに微笑んでわたしを見下ろした。だからこそ、あの小さくて人間を頭からばりばりと食べてしまう妖怪のような外見の老師と、このどこから見ても人間の青年を結びつけるという突飛な思考が可能だったのだろうか。話を聞けば、老師以外知り得ないことを彼が知っていたこともあって結局は納得せざるを得なかったのだが。

 深夜、喜びすぎて疲れてしまったのか、倒れ込むように寝入ってしまった春麗に布団をかけてやる。最近は冷えるから気を付けないと風邪を引いてしまうだろう。月明かりに照らされてどこか幸せそうな面持ちで眠る妹分にこちらまで幸せな気持ちになって、頭を撫でてやってからわたしは部屋を出た。そして扉のすぐ横の壁に背中を預けていた老師と鉢合わせた。彼は口元に笑みを浮かべてわたしを見る。

 「少し見ないうちに縮んだかの、なまえ?」

 これくらいは無かったかと彼は自分より遥か高い位置の宙に手を滑らせる。そんな大きい女がいてたまるか。というかそんな人間見たことないぞ。だけど問題はそこではない。そうではないのだ。

 彼の目がわたしを見ていた。その色には確かに覚えがあった。暖かくて、優しい見守るような目。この目の持ち主を、わたしは一人しかしらない。けれども、その人であると安易に信じることはまだできないままだ。他のありとあらゆるものが異なりすぎている。それなのに、くしゃりと頭に置かれた慣れない大きな手の優しさは、わたしがずっと求めていたものだった。わたしは今度こそ完全に彼が戻ってきてくれたことを理解して、思わずしゃがみ込んで涙ぐんだ。そうすれば老師も同じようにしゃがみ込んでくれて、からかうように慰めてくれる。


 「また縮んでしまったではないか。しっかり食事せねばならんと前々から言っておいただろう、なまえ」
 「老師はどこで何をいっぱい食べてきたらそうなったんですか、意味わからない」
 「聖域で少しのう」

 それにしても春麗を守ろうと飛び出してくるお前の勇ましい事この上なかったなと老師は笑う。そしてそのままぐしゃぐしゃと髪を掻き回してきた。それが嬉しくて、一気に気が抜けて目元が緩んだ。そんなわたしの目元に乾燥した指先が伝う。

 「なまえにも随分と気苦労をかけたようじゃな」
 「もう良いです。帰ってきてくれたなら、もう」
 「そうもいかん。今日くらいは精一杯甘やかしてやらんと採算が合わんだろうて。ほれ、おいで、なまえ」

 口調はすっかりおじいちゃんのものだ。わたしの大好きだった、老師の言葉。だからこそ思わず広げられた両手に飛び込んで、老師との再会を喜んだのだ。しかし「よく頑張ったな」という声にふと顔をあげた時、そこにあった未だ見慣れぬ青年の強い意志を秘めた、朗らかな笑顔に思わずどくりと心臓が波打った。え、うそ、違う違う、この人は老師この人は老師この人は老師。だから得るべきは安心感なのだ。それなのに、おかしい。ああ、そうだ。最近しばらく気を張り詰めて、色々と考えすぎてしまったから今更知恵熱でも出て来たのだろう。きっとそうだ。


 心臓がこんなにも早鐘を打って、頬が熱いのもきっとそのせいなんだ。


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リクエストありがとうございました。
Arcadia/どてかぼちゃ

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