いつもより、少しだけ暖かい日だった。わたしはジャケットを脱いで薄着でリヴァイ兵長の呼び出しに応じる。部屋にはエレンと兵長がすでに待っていて、暫く今後の予定を立てた後に、兵長が呟いた。絶好の掃除日和だな。そうしていつものお掃除タイムが始まったのである。
エレンと兵長と三人ではたきをかけたり、箒をかけたりしたあとに雑巾がけをしようということになる。わたしが新しい水を入れたバケツと雑巾を持って部屋に戻ると、エレンが椅子に乗って本棚の上を片付けているところだった。
「バケツ貸せよ、なまえ」
「雑巾じゃなくて?」
「俺がやるから良い。バケツごと貸せ」
目が合うとそう言ったエレンに頷いてバケツに雑巾を入れて持ち上げる。う、ちょっと重い。なみなみとそそいだ水は思ったよりも重量があるらしい。ふるふると震えるバケツに、背後で兵長が筋力が足りていないと文句を言った。
「この後筋トレだな」
「えっ」
「文句があるのか、なまえ」
「ないであります!」
兵長のトレーニングの鬼メニューを思い出して、すでに半泣きだ。しかしまさか兵長直々の申し出を断るわけにもいかず、泣く泣く頷く。満足気に腹筋500回、腕立て500回と考え始めた兵長に、この後同期と合流して走り込みがあるなんてことはとても言えなかった。そしてすっかり目を逸らしていたのがいけなかったのだろうか。それともバケツの持ち手が濡れていたことが悪かったのだろうか。はたまたエレンが石鹸を持っていたことが悪かったのだろうか。
とにかく何が原因かなんてことは分からないが、エレンがバケツを落とした。真下にはわたし。さらに言うのならその時、すでにわたしはバケツを掴む力をほとんど入れていなかったために、見事に落下してきたバケツとその中身を頭からかぶることになったのである。
「あ……」
「うぷっ!」
「…………」
次に目を開けた時、わたしの視界は銀一色に染め上げられていた。まさか死んだのか、これが死後の世界かと焦りもしたが、生憎そういうわけでもなく、見事にバケツを被ってしまった結果らしい。銀色はバケツの色。そして俯けば、隙間から見えた床は水まみれだった。
「わ、悪い、なまえ……」
頭上から聞こえてくる珍しいエレンからの謝罪も、今は耳に入らない。答えてあげたいのだが、それより優先すべき怖いものが、背後に立っていた。
問一、わたしは今、何をした?
答え、せっかく掃除した床に落ちてきたバケツを受け止めることもできずにぶちまけた。
「へ、へいちょ……、すみませ……」
これは死亡フラグが立っているのではないかと、バケツを取って恐る恐る振り返れば、やはり仁王立ちした兵長が般若の如く目でわたしたちを見ていた。今にも額に血管が浮き上がりそうでいらっしゃる。今日の兵長が立体起動装置をつけていないことだけが救いだった。あれがついていたら、直後にわたしはうなじを削がれる覚悟をしなければならなかっただろう。
「おい……」
「ひいっ」
「おい、なまえ! ひいっじゃないだろ!」
「あああごめんなさいすみませんごめんなさいなんですか、兵長!」
「……即座に掃除にかかるぞ」
「はっはい!」
「もちろんです、兵長!」
慌てて敬礼をしながら了承の意を叫ぶ。しかし、ふとそこで兵長の動きが止まったことが気にかかった。やっぱり怒られるのだろうか。見れば、兵長の足元にまで水は到達している。ああああ、やっぱり怒られるんだ、怖い。もはやこれまでと覚悟さえも決めたわたしだが、いつまでも怒声はやってこない。代わりに兵長に軽く肩を叩かれた。
「なまえは一度部屋に戻って着替えろ」
「へ?」
「風邪を引くし、お前はそんな恰好でうろつくつもりか」
確かにびっしょりになってしまったわけだし、今もぽたぽたと水が垂れている状態だ。このまま部屋にいたところ役立たずどころか足を引っ張るだけだ。掃除をしている中でわたしのようなびしょ濡れの存在は迷惑千万だろう。ならば兵長の言うとおり一度着替えてこようと決める。しかしそこでエレンからも声がかけられた。
「あああおい、馬鹿、さっさと着替えて来いよ!」
真っ赤な顔で怒鳴ったエレンにびくりと肩が震える。え、なんで怒っているの。
「……チッ」
兵長に今度は舌打ちをされた。部屋中水だらけにしてしまったからか。なら仕方がない。しかしあんまりにも恐ろしい目で見られて、削がれるかもしれないと防衛本能が働いてついついうなじを守ってしまう。そんなわたしに投げかけられたのは兵長の鋭い回転斬りではなく、彼の兵服だった。
「それを着て行け。それからさっさと着替えて来い、なまえ」
「そうだ、これも持って行け!」
真っ赤な顔で自分のジャケットも脱いでわたしに押し付けたエレンに、ひたすら疑問符を浮かべながら受け取る。寒い季節でもないし、こんなにたくさん服を貸してもらう必要はない。そもそも全身がびっしょりなわたしに服などかけたら、その服まで濡れて被害が拡大するだけではないかと服を掴んで返そうとした腕を兵長が掴んだ。
「良いか、お前は黙って文句を言わずに部屋に戻れ。そして着替えて来い。俺が言えるのはそれだけだ」
行け、と肩を押される。エレンも目でさっさと行ってくれと言っていた。真っ赤な顔で、言っていた。何がなんだか分からずに執務室を飛び出て寝室に戻る。時間が時間のため、部屋に相部屋のペトラさんはいなかった。いつも二人で過ごす部屋に一人きりだと寂しく感じたが、着替えるのなら丁度いいと考え直して兵長とエレンの服を窓際の風通しのいい場所に干す。そうして自分も着替えようと新しいシャツに手を伸ばした、その時にふと壁に備え付けられた鏡に自分の姿が映りこんだ。それを見て、手にしていたシャツを思わず落としてしまったのは、わたしだけのせいなのだろうか。
そこにナイスタイミングというか、扉を開けて戻ってきたのはペトラさんと、オルオさんだった。
「もーっオルオってば! あんなところで舌噛まないでよ! ほらそこで待ってて、タオル持ってきてあげるから!」
「だがあの瞬間俺は悟ったね……。この世にはまだまだ……、ん? なまえじゃねえか、こんな時間にこんな場所で何してやがる?」
「あ、本当だ。なまえ。戻っていたの? ……って、あ」
「お……おい、その格好」
「ぺ……っぺとら、さ、おるおさん」
顔から血の気が落ちて、そしてそのあと一気に顔に熱が集まった。一瞬のうちに上がり下がりした温度にくらりとする。だけど一番くらりとしたかったのは、直後に聞こえたペトラさんの悲鳴と、彼女の「何見てんのよ!」という鋭い声とともにオルオさんのお腹にめり込んだ彼女の肘を見てしまったからだ。うわっ痛そうと思わずお腹を押さえる。しかし倒れたオルオさんを放ってこちらに駆け寄ってきたペトラさんがわたしの身体を隠す様に両手を広げながら、叫んだから余計にたまらない。
「どうしたの!? 下着透けてるじゃない、なまえ!!」
「みなまで言わないでください、ペトラさあああん!」
ようやく、兵長とエレンの表情の意味が理解できたのです。
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リクエストありがとうございました。
Arcadia/どてかぼちゃ
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