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ようやく仕事を終えることが出来たのは日没を迎えてからなお数時間後のことだった。今日も疲れたと考えながら帰り支度を整えてフロアの仲間に挨拶をしてから会社を出る。見慣れたネオンに包まれた夜の町の中に、ひとつこの時間には見慣れない影があることに気が付いたのはその時だった。

「……補導されちゃうよ?」

こんな時間に子供が歩いていたら、と付け足すと会社の前で立っていた星矢君と瞬君は顔を見合わせた後に笑った。「なまえさん、この後誰かと一緒?」挨拶もそこそこにそんな言葉を口にした星矢君に首を傾げる。今日はこの後わが社の総帥である沙織お嬢様に彼女のご自宅へと呼び出されているため、これから一人で向かうところだ。その旨を伝えると星矢君と瞬君は何故か嬉しそうにうふふと笑ってわたしの手を取った。


「もう暗いからさ、一緒に行こうぜ」
「実は今日なまえさんが来るって沙織さんに聞いて迎えに来たんだよ」

だから、ね、なまえさん。
小首を傾げて笑いかけられたら断るのも気が引けたし、そもそも断る理由もなかった。すぐに頷くとぱっと表情を明るくした星矢君がわたしの手荷物を取ると空いた手でわたしの腕を掴んで走り始める。

「ちょっ星矢君!」
「そうと決まったら早く早く!」
「だめだよ星矢、そんなに早く走ったらなまえさんが転んじゃうよ!」

瞬君はわたしを気遣って言ってくれたのだろうが、それでも早く走ったらわたしが転ぶという考えを持たれたことが負けず嫌いのわたしには悔しくて意味もなく全力疾走をして星矢君のあとを追いかける。すると彼は面白そうに笑ってさらに早く走った。仕事で疲れているはずなのにわたしは一体何をしているんだ。そんな当然の疑問に気が付いたのは近隣の駅構内に駆け込んだ後だった。すっかり体力を削られて電車に乗り込んですぐ、燃え尽きて真っ白になって空席に座り込んだわたしに瞬君はおろおろして、星矢君は心配げな顔をして隣に座った。

「大丈夫かよ、なまえさん?」
「もう! 星矢があんなに走るから!」
「悪かったって! つい……」

困ったような顔で頭をかく星矢君に自然と笑みが漏れる。

「良いの、良いのよ、二人とも。久しぶりに走ったら気持ち良かったし」


あまり動かないのだから良い運動にもなっただろうなんてことを考えている間に城戸邸にたどり着いた。夜の闇の中でもどんとそこに聳えるように建つお屋敷に相変わらず大きすぎる家だと考えて門の前に立った。星矢君たちに勧められてインターホンを押す。施錠が開く間、星矢君が運んでくれた荷物を受け取って身だしなみを再度確認していると服の裾を瞬君に引っ張られた。

「なあに、瞬君」
「うん、あのね……」

小さな声で呟いた瞬君の声を聞き洩らさない様に身を屈める。そのタイミングを見計らったかのように頬にそれぞれ星矢君と瞬君にキスをされた。呆気にとられて固まったわたしに二人が照れ臭そうに笑うと開いた門の中にわたしの手を引いて駆け込んで行く。


「ちょ……なに、二人とも!?」
「あははは、あとで分かるよ!」

可愛い顔を少しだけ赤くした瞬君はそう言うとあとはもう真っ直ぐに前を向いて庭を突っ切った。わたしは混乱して意味が分からなくなりながらも二人に引きずられるようにお屋敷の中に足を踏み入れる。そんなわたしを待っていたのはまたもや謎のキスの洗礼だった。

玄関で出会った氷河君はわたしの手を取るとそれはもう流れるような動作でそこにキスをした。一体どこの王子だ。そして合わせ技のようにキスの最中にちらりと青い宝石のような目で見上げられて思わず心臓が高鳴る。本当にどこの王子だ。

「なんなの、本当に!?」
「さあ奥へどうぞ、なまえさん。沙織お嬢さんが待っていますよ」

わたしの疑問に答えることなくクールな表情でさらりと言う氷河君に対してわたしは内心とても穏やかでいられない。何故キスをされたのかがまったく理解できなかったのだから仕方がないだろう。合理的に考察をしてみようとしても星矢君は右頬、瞬君は左頬、氷河君は手の甲。まったく共通点が見つからないが、ふと彼らが三人とも海外で長い間生活をしてきたこと、氷河君に関してはお母さまがロシア人であることを思いだしてただの挨拶だったのかもしれないという考えに至った。

しかしそのそれらしい結論は次に廊下で出会った紫龍君がわたしの髪にキスをしたことによって見事に破壊されつくした。しかし冷静になれ、逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だと必死に自分を奮い立たせ、同時に自分の知識の正誤を確認するために紫龍君に問いかける。


「……中国も挨拶でキスするっけ?」
「は? いいえ、しません」

しかし結局はまだわたしの髪を指先に一掬いしたまま真面目な表情で首を振った紫龍君に今度こそ混乱のさなかに突き落とされた。

どれくらい混乱したかといえば、以前のある日突然光政翁のお部屋に呼び出されて「孫の沙織は実は女神だ」と言われた時以来だ。どんだけ孫馬鹿なんだこの人、孫が可愛すぎてとうとう神格化をしてしまったのかと、とても世話になり尊敬していた彼を少しだけ遠く感じつつ冷静に「あ、そうなんですか……」と表面上を繕った夕方を思い出す。紅に染まった執務室であの方は優しく笑って「これからも孫を頼む、支えてやってくれ」と言ったのだ。もちろん断るはずもない。恩師でもあり恩人でもあるあの方のお孫だ、この命ある限りお仕えしよう、多少の孫馬鹿なんて気にすべき点ではない。そう思ったからだ。

そしてその後数年経ってから沙織お嬢様の口から直接「わたしは女神アテナです」という言葉を聞いた日。わたしは激しく混乱した。教育方法を間違えたのだろうかとか支え方を間違えたのだろうかとか、とにかくかなり長い間悩み続けて最近ようやくその言葉が事実だと気が付いた。今となってはお嬢様が何者であろうとわたしの大切なお嬢様に違いないのだから特別気にすべき点でないと納得しているが、それにしても当時は随分と衝撃を受けて悩んだものだ。ようするに数年越しの混乱だったわけだが、今はそれくらいの悩みをほんの数時間のうちに肥大化させ拡大化させてしまっている。もはや自分でもどうしたら良いのか分からないところまで来てしまった。


「では行きましょうか、なまえさん」
「うん……?」

ぐるぐるとまわる思考回路に目が回りそうになりながら階段を上る。しかし迷うよりはお嬢様のもとへ進もう、その一心で足を踏み出したにも関わらず、その先にまるでラスボスの大魔王のごとき佇まいで立つ一輝君を見つけた時点で悪い予感を感じたのはわたしのせいではないはず。

「一輝君……、きょ……今日は良い天気だね、青空が綺麗だよ」
「なまえさん、もう夜だぞ。何言っているんだ?」
「え? あ、そっか。じゃあ星空が綺麗だよ」
「今日は曇りだよ、なまえさん」
「……疲れているのかも、帰ろうかな! やっぱり!」

この先に待つのが邪知暴虐なるラスボスならばわたしも立ち向かうことを考えたかもしれないが、相手が不死鳥様となってはとてもではないが畏れ多い。そんな意味の分からない考えを抱いて踏みとどまったわたしに業を煮やしたのか一輝君が大股で階段を下りた。そして一気に近づいてくるとわたしの腕をがしりと掴んだものだから、思わず「ひいっ」なんて間抜けな声が出そうになるのを必死に堪えたわたしを誰か褒めて欲しい。だが最後まで悲鳴を抑えきれなかったのは一輝君が突如わたしの指先に口づけたせいだ。

「ねえええ! 本当になんなの! みんなして何をたくらんでいるの!」
「たくらむなんてそんな!」

まん丸の目で手をぱたぱたと振った瞬君が一輝君を見ると「ねえ兄さん?」なんて言うが一輝君は相変わらず眉間に皺を寄せてむっすりとしている。何か怒らせるようなことをしただろうかと心中穏やかでいられなくなったところで星矢君がぼそりと呟いた。

「一輝が照れてる」
「黙れ、星矢」
「なんだよ、そんな恥ずかしがらなくたって良いだろ。なあ、なまえさん?」
「幻魔……」
「うわあ冗談だろ、怒るなよ!」

きゃっきゃと笑いながら階段を駆け上がった星矢君を一輝君も追いかけていく。取り残されたわたしの手を取った氷河君が言った。

「おれたちも行きましょう、お嬢さんが待っている」
「……」


正直な話、理解のできない現象が立て続けに起きたためにこの先に何が潜んでいるのか分からず謎の恐怖感でいっぱいだ。お嬢様の本当の目的は一体何なのか。できることならば知らずにいたかったがそういうわけにもいかない。社会人というのは真に不便なものだ。手を引く氷河君と背中を優しく押してくれる瞬君に意を決して階段を上る。その先にあるのはお嬢様の部屋だ。それはこのお屋敷に幾度か招かれているために知っているが、今日ほどその扉が魔王を中に有する巨大な城門に見えたことはなかっただろう。

「さあ入って、入って!」

だが悩む暇もなく瞬君に押されて入った部屋には魔王の姿などどこにもなく、いつの間にか大人しくなった星矢君と一輝君、そして沙織お嬢様が待っていた。綺麗に片付いた部屋の中にはたくさんの料理が並べられている。正直拍子抜けしたわたしが挨拶をするのも忘れてぼんやりと立っているのを見たお嬢様は美しく笑った。


「なまえ、そんなところに立っていないで中にお入りなさいな」
「あの、お嬢様これは?」

一体何事ですかと重ねて尋ねようとしたところで子供たちから一斉に声があがった。

「お誕生日おめでとう、なまえさん!!」
「え……、あ!」

そうしてようやく状況を飲み込むことが出来たわたしにお嬢様はくすくすと笑って言った。

「彼らも祝いたいと言ったのでみんなで協力して準備をしたのです」
「そうだったんですか……。何事かと思っていたのですが、ようやく分かりました。ふふ、嬉しいです」
「それなら良かった。今日の主役は貴女なのですから、なまえが喜んでくれるのが一番です」


ふわりと優しく笑んだお嬢様がわたしの肩に手を置くと背伸びをする。「目を瞑ってください」 その言葉に瞼を閉じるとすぐに額に柔らかな何かが触れて離れた。目を開くとすぐそばに微笑むお嬢様の姿。


「誕生日、おめでとう」

ああ、そうだったのだ。そういえばそうだった。忙殺されそうで自分でも忘れていた誕生日。それをこんなにも多くの人が覚えていてくれて、しかも祝おうとしてくれていたのだということに気が付いて途端に胸が熱くなった。


「……ありがとうございます、お嬢様」


嬉しくて、暖かくて、それから少しだけ涙が出た。

それはわたしの聖夜のはなし。わたしだけの聖夜のはなし。

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