Project | ナノ
あの時ぼくは何を思っていたんだっけ。


目の前でぽかんとしてこちらを見上げる人間を見下ろして、そんなことを考えた。

あの日ハーデスはぼくに泣いているのかと聞いた。泣いてなどいない。馬鹿らしい。人間と神はそもそも生きている世界が違う。そんなことぼくはとっくの昔に知っていた。イリスがぼくの生贄として神殿に連れて来られたこともぼくは知っていた。ぼくに気に入られるために命を僅かばかり長らえさせた人間。彼女がいなくなることは知っていたのだ。


教会で祈りを捧げていた娘はどこか彼女に似た人間だった。

イリスが死んでからもう2000年近く経っている。イリスの親族が居たとしてもまさかこの時代まで血を守って生き残っているとは思えない。馬鹿な人間たちは流血を伴う時代の変遷の中で混血を繰り返してきた。それはこの国でも変わらない。だからイリスとはなんの関係もない人間なのだろう。顔だってよく見たらそんなに似ていない。だが雰囲気が彼女のものと同じだった。

「それで……、君は周囲の人間の言う事を鵜呑みにしてこんなところで言いつけどおり良い子に神様にお祈りをしているわけだ」

嘲るような第一声。
間抜けな表情でぼくを見上げる顔が、どこかイリスのそれと被っていた。
まあ当然の事か、彼女から見たらぼくは突然祭壇の上に姿を見せたのだから。


「天使様?」

鼻が突きそうな距離で自分をまっすぐに見つめる目と呼びかけにはたと意識が過去から引き戻される。ぼくを何度も呼んでいたらしいなまえと名乗ったイリス擬きはようやく目が合ったぼくに表情を緩ませて考え事ですかと言った。

「……考え事だよ」
「天使様は何かお悩みでも?」
「悩みなんて無いよ。それより天使って止めてよね、僕は天使じゃなくて神様」
「……? だけど神様はもう少し……こう……」

お体が大きいイメージですとあっけらかんとして答えたなまえに溜め息をつきたくなる。イリスも同じようなことを言っていた。あの時は巨大なアポロン像が目の前にあったからともかく、教会というせいぜい人間サイズの石像が置いてあるだけの場所にいながらも人間の思考回路というのは今も昔も大して変わらないらしい。

それにしてもあまりにもよく彼女と似た雰囲気を持つ少女が気になって教会に通う事早半年。イリスと同じように頭の悪いらしいなまえはいつまでたってもぼくを天使様と呼ぶ。そして彼女と同じようにぼくの知らない人間たちの神に祈るのだ。


「ねえ、馬鹿らしくないの?」
「何がです?」

会話をしていてもすぐに目を瞑って偶像に向かって祈りを捧げるなまえを足元に見ながら話しかける。お祈りなんてものは馬鹿らしい行為だ、だってここに神はいないからと教えてあげても、彼女はならばいらっしゃる場所に届くようにお祈りするだけですと答えた。馬鹿だ。馬鹿だ、馬鹿。祈りなんて届かないし、届いたとしても聞いてくれるようなお優しい神様はこんな場所にはいないということを何千年経っても人間というやつは学ばないらしい。

「意味ないし、止めなよ。時間の無駄だね」
「意味がないとしても、感謝の心は必要です。全ての動植物に命を与えて下さる奇跡に私は感謝しています。天地を創造して下さった主のおかげで私は今ここに立つことが出来ているのですから、せめてその感謝だけは表したいのです」


その言葉にいつかの会話が頭を過った。そうだ、イリスだ。あの人間が豊かな幸せは神々がお守り下さったおかげだと言ったのだ。守っているわけではないのだがという言葉をきっとイリスは最後まで理解せずに、自分勝手な理想を信じ込んだままだったはずだ。ならばなまえも同じだろうかとぼくが黙り込むと彼女は決定打となる言葉を口にした。

「太陽が無ければ作物は育たないでしょう? だからこそ自然の恵みに感謝するのと同じことです」

ああ、やはり。
やはりこの人間は彼女だ。

祈りを捧げる曲がりのない温もりはかつてあの人間が宿していたものだ。それなのに、馬鹿だ。気づきなよ、どうして思い出さないんだ。祈りを捧げて君は救われたか? 君の国は救われたか? もう何百年も前に滅びてしまっているではないか。それなのにどうしてまだ君は祈り続ける、何故神への信仰を忘れない?

「ぼくは……」
「なんですか、天使様」
「ぼくは、君が気に入っていたよ」

その言葉に目を瞑って一心不乱に“神”とやらに祈っていたなまえが顔をあげる。どこか驚いたような表情で頭の中は真っ白だ。何も考えられないらしいなまえの頬に手を伸ばす。

「なまえ」

ぼくはね、本当に君が気に入っていた。君の傍にいると楽しかった。退屈しなかった。安らいだ。学んだことも多かった。こんな気持ちがあるのかと知った。君がいなくなってあの場所は退屈になった。退屈な時間がゆっくりと流れ続けていっそこんな世界終わってしまえばいいと思ったこともあった。それなのに君は今も存在しない理想の“神様”に感謝をして祈りをささげ続けているんだね。


「思い出しなよ。何を人間のくせに忘れているのさ、短い人生のことすら忘れて君たちは一体どうしたいんだ」

ぼくの心を今も昔もこんな風に掻き乱して。
アルテミスとも前の様にいられなくなる原因のひとつを作って。


「ぼくを……っ、ぼくの気に入っておきながらどうしてそんな風にきれいさっぱり忘れたみたいに笑うの? 一方通行に神様に好き好き言っていないでたまにはぼくらの言葉にも耳を傾けろよ!」

一方的で盲目的な信仰心なんてかけらも欲しくない。供物も宝石も何もいらない。ぼくたち神にとってそんなものは必要ではない。ぼくたちが求めている物は、ぼくが欲しかったのはそんなものではなくてたったひとつの――……。


「……アポロン……さま?」


何かの答えにたどり着きそうになった時、もう忘れたはずなのにいまだ耳に馴染むイントネーションで紡がれた自身の名前に言葉を失くす。ただ黙って顔をあげたぼくを見つめたのはあの頃のイリスとは違う、それでも変わらない心を持った少女だった。

「貴方は、アポロン様ですね?」
「……そうだよ。ぼくだよ、なまえ」

ようやく気づいたのか。遅すぎる。

いつか大昔にハーデスは言った。
人は腐る。腐って、腐臭を放つ。腐りかけの最も甘みの強い頃に食い尽くすが良策。
良策。

良策?
知らないよ、そんなこと。


だってぼくはやっと見つけたんだ。


「なまえ、相変わらず君は馬鹿なんだね」

top
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -