例えるのなら、春の日差しだろうか。それとも木々の間からのぞく木漏れ日だろうか。
柄にもなく詩のような表現を思い浮かべてすぐに馬鹿馬鹿しいことだと首を振った。
春女神の記憶をまだ取り戻していない憑代の少女は、余にかつてのあの女神を彷彿とさせる。嫌がっているにも関わらず無理やりに冥界へと浚う以前、エンナの花園で幸せそうに笑っていた春の女神。どれほど惹かれていようとも、今アテナのもとで同じ笑顔を浮かべている彼女をまた無理にこの暗い世界に引きずり込むことなど、どうしてもできなかった。神ならばともかく人の身で断食などをすれば身体が持たないのは明白だ。
とはいえ、神からすれば人の一生など瞬く間に過ぎ去る泡沫の見せる夢だ。
ならば彼女が再び神の身に戻るまで待てば良いだけの話。短い人の一生をせいぜい彼女は楽しめば良い。そう思いながら戦女神が彼女を連れてこの地に訪れるのを心待ちにするなどというのは本当に下らない笑い話ではないか。少女の幸せを願うのならば、この地を好いて楽しむことなど無いだろう彼女に、余の下を訪れることを望んではならないのだから。
「ハーデスさまはどうしていつもそんなに寂しそうな顔をしているの?」
鬱々とした思考回路に雁字搦めにされているところに、戦女神に連れられて冥界を訪れた彼女は唐突にそう言った。
「……余は元よりこの顔だ、なまえ」
お前がすぐに地上に帰ってしまうからだとは言えなかった。
優しい言葉を、あるいは女性が喜ぶような甘い言葉をかけられたならと思う。しかし実際自分の口からそのような言葉が飛び出てくることは未来永劫有り得ない。暗く冷たい地の底で長く過ごしすぎたためか、日の当たる地上の暖かい言葉などどこかへ消え去ってしまったのだ。
そんな余の素気ない言葉に肩を落としてしまったなまえに優しい声で慰めを与えたい。考えとして抱いた気持ちは決して外に出てこようとしなかった。言葉も手も何も出ない。頭を撫でてやることが出来たなら、抱きしめてやることが出来たなら。そんな情けのない考えに取りつかれても動きようがないのだ。余は恐ろしい。彼女に否定されることが何よりも恐ろしいのだ。
「……ハーデスさま、私もう行かなきゃ」
おずおずと切り出された別れに黙ったまま頷いて視線を地に落とす。
こんな別れをもう何度体験したのだったか。じっと自分の前で立ち竦んで見つめてくる視線を感じていたが、とうとう動けずにいた余に彼女が踵を返す。
遠ざかる足音を感じながらそっと顔を上げた。
「……なまえ」
呼びかけに振り返った彼女に向けて、水仙の花を一輪差し出す。
「またいつでも来ると良い」
「……来ても良いの?」
「待っている」
味気もない淡々とした言葉だったというのに彼女は幸せそうな笑みを浮かべて何度もこくこくと頷いた。あまりに必死なその様につい緊張が緩んで彼女の頭に手を伸ばしてしまう。
「…………」
「…………」
わしわしと少女の頭を撫でている間を満たしたのは沈黙だった。思わず頭を撫でてしまったのだが、何の反応も返ってこないということは嫌がられているのか?
僅かばかりの恐怖がよぎった刹那、真っ赤な顔で顔を上げたなまえは緩み切った表情で「そそそそそれじゃ帰るね! またっ、また来るから、ハーデスさま!!」と口早に言い切って赤くなった耳を水仙を握った手で隠しながら駆け去った。どうやら嫌がられていたわけではないらしい。最後に残った静寂の中で考え込む。
いっそ忘れてしまえば、こんな想いに苛まれることもないのかもしれない。
しかし実際何をしようと結局彼女のことが頭から離れない。下らないことだと一笑に付したところで余を呼ぶ彼女の一声に心臓が波打つ。平静であれと努めたとしても柔らかな笑顔を見せられたら最後、明日も明後日も、この先もきっと最後の日が来るまで彼女に惹かれ続けているだろう未来を目の前に突き付けられる。
エロスの金の矢はなるほど呪われたものであるらしい。
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