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まさに一瞬の出来事だった。
周囲に群がった青銅によってなまえの姿がまったく見えなくなる。


「なまえさん、何の本読んでいるんだ?」
「わあ、お菓子の本?」
「ああ……、この菓子ならばわが師がいつか買ってきてくれたことがあるぞ」
「なまえさん、料理をするのですか」

矢継ぎ早にされた質問に姿は見えないが彼女が声だけで答える。曰く今度お菓子作りに挑戦してみようと思っているらしい。それに真っ先に飛びついたのはやはり星矢だ。試食したいとすぐさま立候補した彼に部屋の隅で、それでも話を聞いていたらしい一輝が呆れた顔をして「慎みを持て」と言う。しかしそれを笑って許したのがなまえだった。優しい声で今度作って持って来たら皆にも食べてもらいたいと答えた彼女に彼らの雰囲気が楽しそうなものに変わる。


「なまえさんの料理って食べたことないから楽しみだね」
「普段料理をするのですか?」
「うーん……、簡単な食事なら作るけど本格的なお菓子を作るのは初めてかな」
「じゃあ俺たちがなまえさんのお菓子を食べる第一号?」
「そうかも」

失敗しても怒らないでねと、くすくす笑ったなまえに自分の顔がむすっとするのを感じる。彼女の優しいおっとりとした声は嫌いでないが、何故か面白くなかった。しかし今はアテナの護衛中という立派な任務中のため、私情を顔に出すわけにはいかないと表情を引き締める。そこで本を読んでいたアテナが顔を上げた。

「その第一号には私も入って良いのかしら」
「もちろんです、沙織さん! でも……初めてだから失敗しちゃうかもしれませんよ?」
「大丈夫、なまえは器用だからきっと美味しいものが出来ます」


柔らかな笑みで語るアテナと、青銅たちの輪の中から顔を覗かせて少し恥ずかしそうに笑うなまえ。
本来ならとても和やかで微笑ましい光景のはずなのに、今度は勝手に唇が尖った。慌てて表情を引き締める。


その間にもなまえと女神たちの和気あいあいとした会話は続いていた。チョコレートがどうとか、ケーキがどうとか。あまり菓子のレパートリーに詳しくないためにところどころ何を言っているのか分からなかったが、とりあえず楽しそうだというのは見ているだけで分かる。何故だか気持ちがそわそわとし始めて背筋を伸ばして深呼吸を一つした。

そこでアテナがふと口を閉じて立ち上がる。


「星矢たち、ちょっと一緒に来て貰えますか」
「良いけどどこに行くんだ、沙織さん?」
「後で話します」

扉へすたすたと歩き去る女神の後を追って背中に声をかけた。

「アテナ、私も」
「星矢たちがいれば大丈夫ですからアイオロスはここにいてください。なまえもここで休憩を続けていて良いですよ」

そう言いながらさっさと退室した女神たちの背中を眺めながらなまえと顔を見合す。そして小首を傾げたなまえに彼女を見たところで女神の神意が分かるはずないかと話を戻した。


「……なまえ。菓子を、作るのか?」
「あっはい、やっぱり聞いてました……?」

おずおずと遠慮がちにそう問いかけられて少し迷ったが頷く。聞き耳を立てるなど失礼ということは承知しているが、この狭い部屋では聞かずにいるほうが難しかったのだからどうか許してもらいたい。しかし、気になったのはそのことよりどこか落ち着かない様子でそわそわとしているなまえ。


「……聞かない方が、良かったか?」
「いえっそういうわけじゃ!」
「すまない、返って気を遣わせてしまったようだ」
「え、あ……違います、本当に誤解です!」

言いながら勢いよく立ち上がったためなまえは机の脚に膝をぶつけ、その拍子に落ちた本がぱらぱらと床で捲れた後に閉じた。慌てて歩み寄って彼女の前に膝をつく。

「大丈夫か?」
「大丈夫です……! すみません」
「謝らなくて良い」
「でも、本当にいつも貴方の前で失敗ばっかり」

再びすみませんと謝られて首を振ったが、余計に気にしてしまったらしいなまえが俯いたまま本に手を伸ばす。表情も見えないその姿に胸が痛んだ。やはり私がいると彼女に随分と神経を使わせてしまっているのではないだろうか。青銅の子供たちや女神と共にいるときのような楽しそうな笑みが中々浮かんでこない。


「……私こそ、すまなかった」

いつも忙しくしているなまえのせっかくの休憩中だというのに私がいては気も休まらないだろうと身を翻して退室することにする。しかし即座にその手を取られた。驚いて私の腕を掴むなまえを見つめれば彼女はすぐに焦りを表情に浮かばせて勢いよく私の手を離した。そして直後にそれを謝り始める始末。

「ああっすみません、ごめんなさい!」
「いや、大丈夫だ。大丈夫だから」
「違うんです……、そうじゃないんです、アイオロスさん」


ゆっくりと、それでもはっきりと口にされた自分の名前に再び彼女に向き直る。
なまえは手にした本をしっかりと握ってぽつりぽつりと呟いた。


「も……もうすぐ、バレンタインじゃないですか」
「……ああ、そういえば」

無関係さからすっかりと忘れていた異教の行事を思いだし、しかしそれが一体どうして今出てくるのだろうかと考えていると彼女が続けた。

「あの、それでいつものお礼にアイオロスさんに何かお菓子をと思って……、でも、その……あまり料理しないけど美味しいものを食べてもらいたいので、練習してからにしようって。あと、直前まで秘密にしておこうと思っていたから、だから、聞かれたくなかっただけで決して貴方が嫌だったとかそういうわけじゃ……!!」
「……何故、バレンタインに私に菓子を?」

確かそういう行事ではなかったはずだがと首を傾げると、しゃがみ込んだままのなまえは本で顔を隠しながら小さな声で言った。


「日本では女の子が、……ええと、……す……すきな男の人に、チョコをあげる日なんです」

蚊の鳴くような声で紡がれた言葉に、頭の中が真っ白になった。
見事に固まっただろう私の前で、すぐに首をぶんぶんと横に振ったなまえが耳まで赤くして言う。

「やっ……やっぱり忘れてください! 今の無しです! 無し……!」
「いいや、忘れない」


忘れられるわけが、ないではないか。

気がつけば先ほどまで胸の中にあった奇妙な感情はどこかに行ってしまっている。それもそうだ、そんなものなど全て飲み込んでしまうほどの喜びが生まれたのだから!


細い腕を引いて近づいた額にキスをすると彼女は小さな悲鳴を上げて私から飛びのいた後に、顔を真っ赤にさせたままお茶を淹れてくると言って部屋から駆けだした。残された私の気持ちはまるで数分前と正反対を向いているのだからまったく不思議なものだ。だがそれも仕方がないというもので。


ああいったことをされるから。
だから私が余計に深いところに溺れていくということをなまえは知っているのだろうか。

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