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カランと氷が音をたてた。


すっかり汗をかいたグラスに入れられた麦茶と、その中で溶けはじめた氷が夕暮れに照らされきらりと輝く。

日中ミンミンミンミンミンミンと発狂したくなるほどには喧しかった蝉の声も今はだいぶ落ち着き、騒がしく鼓膜を揺らすミンミンゼミやアブラゼミの代わりにヒグラシが控え目にカナカナと鳴いていた。

傍らには蚊取り線香となまえが言った、奇妙な緑の円系の物体。その先から立ち上る煙をぼんやりと眺めながら縁側で涼む。
なまえはそんな俺の隣で縁側に手を突いて身を乗り出しながら、すぐ外に置かれている氷水の張られた桶に浮かぶスイカを覗き込んだ。

「うわあ…!ねえカノン、沙織ちゃんと氷河君がお土産に持たせてくれたのってこれ?」
「ああ」
「こんな大きいスイカ久しぶりだよ、すっごく美味しそう!今日の夕飯の後に食べようね!」

アテナと白鳥座に持たされたスイカがよほど嬉しかったのか、なまえはスイカを見た瞬間に満面の笑みを浮かべた。そんな彼女の真上で風鈴が風に揺られちりんと音を立てる。なまえはその音にさえもふわふわとした微笑みを浮かべてごろりと縁側に転がった。

「機嫌がよさそうだな、なまえ」
「うん、良いよ?」
「何かあったか?」
「企業秘密だよ、カノン」

へちゃっとした情けのない笑みを浮かべたなまえが、ふいに転がったまま空を見上げ飛んでいるカラスを指差す。

「カラスだ!」
「そうだな」
「かーらーすー、何故鳴くのー、カラスの勝手でしょー」

縁側の外に放り出した足をぱたぱたと振りながら、なまえはカラスを指差したまま奇妙な歌を歌い始める。それに対し偶然、合いの手を打つようにカラスがカアと鳴くと元から機嫌の良かったなまえはさらに楽しそうに笑い出した。

「返事されちゃった」
「ああ、見事な偶然だな」
「どういうこと、それ?…あ、見て、カノン!一番星!」
「違うな、三番星だ」
「私が一番に見つけたからあれが一番星ってことにしちゃだめ?」
「知らん」

こいつはやはり馬鹿なようだ。
そんな当然のことを俺が確認する会話の間にも緋色だった空はいつの間にか紺色に色を変えていく。やがて完全に空が黒に塗り替えられると、先ほどより僅かに涼しい風が再び風鈴を揺らした。

しかし日が落ちたとはいえ、蒸し暑いことに変わりはない。
気温はともかく、この国の湿気がどうにかならないものかと考えながらすっかり氷の解けてしまった麦茶に口をつけた。

やがてのそりと上半身を起き上がらせたなまえが、縁側の外に放り出した足をぱたぱたとゆすったままこちらを見る。顔を見ずともなまえの言いたいことはすぐに分かった。

この麦茶が飲みたいのだろうが、喉が渇いているのなら水を汲みに行けばいいものを。そう思ったものの、この暑さの中ではキッチンへ移動することさえ面倒だというのも理解できる。


小さく息をつき、半分ほどに減った麦茶の入ったグラスを差し出した。
途端になまえは顔を輝かせたが、たかが麦茶ごときで何故そこまで嬉しそうにするのだろうか。

「全部飲んじゃってもいい?」
「好きにしろ」

それほど喉が渇いていたのだろうかと不思議に思ったが、それは麦茶を飲み干したなまえの言葉で理解する。

「これで間接キスだね!関節キスだよ!関節キス!」

にやにやと笑うなまえに視線をやる。からかおうとしているのが見え見えだ。そんな分かりやすいからかいに敢えてのる必要もない。だが放っておくと調子に乗るのは目に見えていたため、逆にからかい返すことに決める。何にせよ、なまえが俺をからかうにはまだ数千年早いことを学ばせたい。

「………」
「えっ、わあ!」
ぐっとなまえの手を掴み引き寄せ、バランスを崩したなまえを片手で抱き留めた。驚いたのかすぐに顔をあげたなまえの耳元に口を寄せる。


「間接ではなく直接飲ませてやろうか、なまえ?」
「は…、えっ?あ、なに、え?」

熱を含んだ声色で囁けば途端に混乱し、あたふたと慌てだしたなまえに笑い出しそうになる。だが今はそれを堪え正面からゆっくりと見つめれば、なまえの頬から耳までがあっという間に赤く染まった。それこそ液体に浸されたリトマス試験紙のようにすっと色を変えた頬に薄く笑ながら返事を待つ。

「え…、遠慮…します…」

蚊の鳴くような声で予想通りの言葉を呟いたなまえが俯き気味にそろそろと離れていく。その姿が面白くて仕方なかったが、俯いたまま磨き抜かれた床を見つめていたなまえがふいに顔をあげた。


「あっ…ほら、光ったよ!見て」

そして誤魔化すように声をあげて庭の片隅を指差したなまえについ笑みが漏れる。
それに気づいたなまえが「もう笑わないでよ!」と叫びながら、ぽかぽかと肩を叩いてきたがまるで効果はない。

だが、これ以上からかうと機嫌を損ねかねないので笑みを押し込み、なまえの言葉に従って薄暗い庭の隅に目を凝らした。
その視線の先でいくつかの光がするすると暗闇を舞う。


「…蛍か?」
「これが見たかったのに、カノンの馬鹿!」
「何故俺が馬鹿なんだ」

焦っているのか、それとも照れているのか、なまえから出てくる言葉は単純で語彙も少ない。そして言っていることもめちゃくちゃで、まるで子供のようだ。その姿に愛嬌を覚え、つい口元に笑みが浮かぶと蛍を指差していたなまえから睨まれる。

「あんまり笑っていると仕返しするからね!」
「してみればいい、お前にできるのならば」

何をされても先ほどのように熨斗をつけて送り返してやろうと、挑発するように笑うと単純ななまえは顔を真っ赤にして手を握り締めた。
この分では仕返しとやらが返ってくるまで時間がかかるだろうと庭の端の池の当たりで飛び交い始めた蛍をぼんやりと眺めて待つことにする。

やがて、池の水音や風鈴の音の響く静かな庭を眺めながらなまえが口を開いた。

「さ…、さっきの質問だけど…」
「何故機嫌が良いのかというものか?」
「そう、私の機嫌が良い理由」

突然話を数分前に戻したなまえに視線をやる。いつの間にか正座をして俺と向き合っていたなまえと目が合うと、しばらくの沈黙の後にぽつりと呟かれた。


「カ……、カノンが、来て、くれたから、だよ」


本当に、これだからこの女は…。気づかれないように息をつく。
自分で言ったくせに、さらに顔を赤くし目を泳がせるなまえに結局堪えきれずに笑みが零れた。

それに怒ったのか突然なまえが縁側から外に飛び出す。そして小さな手をスイカの浸けられている桶に突っ込み、水鉄砲を打ってきた。へろへろとした水など避けるのは容易かったが、あえて動かずに全て受ける。


なまえは俺が避けると思っていたのか、水鉄砲が全て俺のシャツに吸い込まれたのを見た途端目を丸くし、続けて顔を青くした。

「ご…、ごめん、カノン」
「おい、なまえ」

ポケットを漁りながら呼びかける。瞬時に傍目からも分かるほど、びくりと震え背筋を伸ばしたなまえにやはり笑い出しそうになった。だが今はその時でないと、必死に笑いをこらえながら目当てのものを見つけ、つまみ上げる。


「謝る位悪いと思っているなら、俺とギリシャに来い」
「…?べつに、いいけど…」
「そうか、言ったな?」
「…、カノン?」

恐らくただのギリシャ旅行に誘われていると思っているなまえの手を引き、つまみ出したそれを指に通す。目を丸くしてそれを顔の高さにまで持ち上げたなまえが、やがて間抜けな面で俺を見た。

「あれ、…もしかして、ぎ…、ギリシャに行くって…、もしかして旅行じゃなくて、えっと、あれ?これって、どういう、意味?」
「意味がいくつもあると思っているのか?」

手にはめられた銀色のそれを見つめるなまえの小さな手を握り、真っ直ぐに見つめる。長時間目線を合わせて見つめ合うことが苦手ななまえはすぐに視線を泳がせ、「け、けっこんしてくれるの?」とたどたどしい口調で紡ぎだした。

ふと視界の端を二匹の蛍が飛んでいき、星空に溶ける。
なまえの言葉を聞きながらそれを見送り、小さな体を抱き留めた。


以前なまえは夏が好きだと言っていた。

それまで暑いだけで何が良いのかまったく理解できなかったが、今ここに立ってみるとその気持ちが理解できなくもない。この国の夏は美しい。セミの鳴き声、青空、入道雲、青々とした山、星空に溶け込む蛍の光、夕立も、風鈴の音も、満天の星空も、むっとした風さえ、全て。そしてその季節に俺たちは出会った。だから、だからこそ、この夏という季節に、


「俺とギリシャに来てくれ」


恋人以上の特別になろうか。

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