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 たすき掛けをして、目を鉢巻きで覆い、目隠しをすれば準備は万端。
 覚悟も決めたら、後は行動に移すのみ……。
 そうして、ついにわたしはお風呂の引き戸を開けた。
 すかさず中から漏れ出た、もわもわと熱い湯気に包まれて宣言する。

「失礼します! お背中、お流しさせてください!」

 一秒、二秒、三秒……。遮られた視界の向こうで、杏寿郎さんが息を飲んだ気配があった……。


 ――ヒグラシが鳴く、蒸し暑い小暑の黄昏時。
 日がな一日駒沢村を炙った日輪もついに傾き、世界は茜色に染まりつつあった。

 お風呂の火の番をしていたわたしは、外から浴室にいる杏寿郎さんへ声をかけた。

「杏寿郎さん、お湯加減いかがですか?」
「うむ、極楽だ!」

 次の行動に移るには、その一言で十分だった。
 杏寿郎さんが湯舟に浸かったのを確認するなり、即座に移動を開始した。
 たすき掛けをしたまま、隠し持っていた目隠し用の布を手に向かったのは浴室だ。

 目的はただひとつ。

 杏寿郎さんのお背中を流したい。

 恥ずかしいので、これまで一度たりとも一緒にお風呂に入ったことがないわたしだけれども。

(一緒にお湯に浸かるわけじゃないし、これならできるはず……!)

 頭ではそう確信しているのに、身体は正直だ。早くも緊張で手が震えて、及び腰になっている。
 やっぱり明日……明日じゃだめかな。いや、それは絶対だめ。
 そんなことをいっていたら、永遠にお風呂になんて向かえない!

 ……わたしは気合を入れなおすため、この行動のきっかけ――つまり、今朝ばったり会った須磨さんの言葉――を思い出した。

「この間、天元様とまきをさんと雛鶴さんと温泉に行ったんですよぉ。みんなで背中を洗いっこしたり、楽しかったです! 今度は一緒に行きましょう、お背中流してあげます!」

 彼女は弾ける笑顔で思い出話を語ってくれた。

(一緒に温泉に行って背中の洗いっこかぁ)

 常々、宇髄さんとお嫁さん達は仲がいいと思っていたけれど、さてはこういったスキンシップが親密さの秘訣なのではなかろうか。

 ……わたしはそんな風に、勝手に推測してみた。
 もちろんわたしと杏寿郎さんの仲だって、悪くないはずだ。

 むしろ、申し訳なくなるくらい大事にしてもらっている。

 けれども、この先も夫婦生活は長く続く。
 今後のためにも、この辺りで先手を打ってみてもいいのではないでしょうか……なんてことも考えてしまったわけで。

 ようするに、たまにはわたしから動いてみたくなったわけである。

(なにせいつも杏寿郎さんにしてもらいっぱなし……、いや、やられっぱなし……)

 彼の掌でころころと転がされ続けているわたしだって、たまには杏寿郎さんを癒したい。
 いつもの感謝を伝えたいし、たくさん幸せを感じてほしい。

(それに……、もしかしたら杏寿郎さんが恥ずかしがってるところが見られるかもしれない!)

 いつも余裕に溢れた杏寿郎さんの意外性を発見したい。
 数々の死線をくぐりぬけてきたためか、判断が早くいつだって落ち着いている杏寿郎さん。

 だけど、突然わたしが行動を起こせば少しは驚いて、普段見せない顔も見せてくれるかもしれない。
 一度そう思うと、期待も高まり、わたしはやる気に満ち溢れた。そして……、

(……いざ!)

 冒頭に到るわけだ。
 たすき掛けをして、目隠しをして、準備は万端。

 手拭い片手にお風呂場に押しかけて「お背中流します」宣言をした直後、ぱしゃんと湯舟でお湯が跳ねる音がした。

 杏寿郎さんは大層驚いたらしく、しばらく言葉もなかった。

(これは、どういう沈黙……? ドン引き? 動揺?)

 ここにきてようやくわたしは、目隠しをしているおかげで杏寿郎さんの反応チェックができないことに気づいた(まさかの作戦ミス!)。

 ひとりで動揺しまくるわたしと杏寿郎さんのあわいを、浴室にこもった熱気が埋めている。

「……今、なんと?」
「お背中お流ししますって言いました……! 任せてもらえませんか?」

 また、沈黙。
 過ぎること、五秒。

「その目隠しは」

 新たな問いが遮断された視界の向こうからもたらされた。

「恥ずかしいので、その対策です」
「何を恥ずかしがるんだ。毎晩見ているものだろう」
「そ……っ、れとこれとは話が違うので!」

 そもそも毎晩見ているのかというと、そんなことはない! まったくそんなことはない!

 いつも暗闇に飲まれた寝室で彼が浴衣を脱ぐ頃には、わたしは杏寿郎さんの手によって前後不覚に陥っているため、まじまじ眺めている余裕なんてないのだから。
 ましてやここは、西日の斜陽が美しい浴室。

 彼が比較した場面とは、状況がまったく異なっている。
 そこのところはご理解いただきたい。

 そんな説明は、とても直接には言えないけれども。

「あの……、駄目でしょうか」

 杏寿郎さんは無言のまま、ぐるぐると高速思考するわたしの様子をしばらく窺っているようだった。

「……まあいい! 君がそう言うのなら、よろしく頼む!」
「……はいっ! 精一杯がんばります!」

 たっぷりの沈黙のあと、わたしは杏寿郎さんの許可を得た。

(よかった……!)

 なんでも抱え込み、自分でできることは他者に頼らない人なので、断られる可能性もゼロではなかった。
 その場合は食い下がろうと思っていたものの、正直これは賭けだった。ハレンチだと言われたら、その一言で打ちのめされる予感しかなかったから。

(いきなりお風呂場に押しかけてるわけだし……)

 だけど彼は、わたしの我儘を受け入れてくれた。
 ここは全力で背中を洗って厚意に報いるべきだろう。

「完璧にきれいにしますね!」

 勇んで手ぬぐいを握りしめ、どぎまぎしながら一歩踏み出す。

「ああ、待て。目隠しをして歩き回るんじゃない」

 注意と同時に、杏寿郎さんが湯舟から立ち上がる気配があった。
 ざっとお湯が音を立てて、そばに熱が近づくのを感じた直後、熱く濡れた指先がわたしの手を包む。

「そのままでは歩くのも困難だろう。掴まっているといい」
「は、はい」
「俺は今から君に背中を向けて、ここに座る。わかるか?」

 何も見えないわたしの手を引いて導いてくれた杏寿郎さん。

 彼の親指がわたしの手首をくすぐるように撫でる。
 湯上りということもあって、いつもよりずっと高い熱をまとう彼に、なんだか無性にどきどきしてきた。

(あれ? わたし、もしかしてとんでもなく恥ずかしいことしようとしてる……?)

 今一度、怖気づいてしまうくらいには、どぎまぎしていた。
 やっぱり、超上級者向けだったのかもしれない。旦那さまと一緒にお風呂チャレンジは……。

 今更そんなことを思ったってもう遅いわけだけど、かすかなためらいにどうしたって動きがぎこちなくなってしまう。

 それでも、それ以上固まっているわけにもいかなかったのは、杏寿郎さんが早々にわたしの前に座ったからだ。
 掴まれた手が、濡れた肩に置かれる。

「今、君に背中を向けた」
「うっ、は、はい」

 手渡された石鹸を受け取った。
 手始めに濡らした石鹸と手ぬぐいを手さぐりでしっかり泡立てて、広い背中に滑らせる。

(どうしよう)

 お湯とシャボンの香りに彼の匂いが混ざり合って、変な汗まで出てきた気がする。
 なんというか、見えない分、想像以上に煽情的でわたしにはよろしくない現場だ。

「ええっと……痛くないですか?」

 なんとか落ち着きを取り戻そうと、杏寿郎さんに声をかけてみた。

「うむ! 昔、父上や千寿郎とともに風呂に入ったのを思い出す」
「…………」

 ……どうやら意識して緊張しまくっているのはわたしだけで、杏寿郎さんは懐かしい思い出に浸っていたらしい。

 そうと知るなり、なんだか肩の力も抜けた。

(よし、集中しよう。集中、集中……)

 無心になって手を動かす。彼の肌を傷つけないように注意しながら、たっぷりの泡で包み込む。
 それから、しっかり時間をかけて洗い流して仕上げた。
 最後のほうは慣れてきて、だいぶ落ち着いて任務を果たせたと思う。

「……終わりました! どこか気になるところはありませんか?」
「いや、ありがとう。すっきりした!」
「よかったです。それじゃ、わたしはこれで……」

 任務を達成した清々しさを胸にきびすを返そうとした、その刹那。
 するりと音もなく目隠しが解かれた。はらりと落ちた布は、杏寿郎さんの手の中にある。

「え……、杏寿郎、さん……?」

 いつの間にかわたしと同じように立ち上がっていた彼は、肌色成分がとても多い。
 入浴中なのだから当然だけれども。腰のあたりに心もとない布が一枚巻かれているだけの、とても蠱惑的な格好をしていらっしゃった。

 湯気が立ち上る薄暗がりの浴室の外では、日がさらに傾いたらしい。
 すり硝子ごしに差し込むおぼろげな夕日が、以前よりも幾分ほっそりした体躯をかたどる。

 覚悟を決める間もなく目の当たりにした素肌に、どくんと心臓が波打った。
 動揺のあまり、言葉もなく後ずさったわたしの耳を、無骨で男らしい手が掠めた。

「なぜ逃げる」

 その一言で、指一本動けなくなる。
 浴室の熱気にあてられ、思考すら鈍ったようだ。

「い、いえ、せっかくくつろいでらっしゃるところを長居しちゃいましたし、もう出ようかと」

 目が泳ぐ。
 言い訳すら、喉の奥に消えた。

 杏寿郎さんに髪を撫でられて、また鼓動が跳ねたせいだ。
 硬い指がわたしの髪を梳いて、耳の形をなぞる。

(こ、これはどういう状況……っ?)

 耳をくすぐる彼の手は、火傷しそうなほど熱かった。日中、真夏の太陽にさんざん炙られた大気の中にあっても、ひときわ強い存在感を知らしめるかのように。

「う……っ、それではっ」

 これ以上、ここにいてはいけない。
 本能的に察知したものの、杏寿郎さんのほうが早かった。

 きびすを返そうとしたところですかさず腰に腕を回されれば、もう逃げ場はどこにも残っていない。
 背後には、壁。目の前には杏寿郎さん。

 隙間すら厭うように身体を押しつけられて、びくりと肩が強張った。
 もしも、本気で抵抗をすれば杏寿郎さんのことだ。逃がしてくれたかもしれない。

 でも、いずれにせよもう手遅れだった。彼の炎のように熱を帯びた瞳に見つめられると心まで縛られて動けなくなるのだから。
 とはいえ、さすがにここはだめだ。

 本当に、お風呂はだめ。
 せめて場所を移動したい。

「待って……」

 だけど、提案する前に、身をかがめた杏寿郎さんがわたしの唇をふさいだ。
 唇をつついた舌が、ぬるりと咥内に滑り込んでくる。

 歯列をなぞった分厚い舌に舌を絡めとられれば、息苦しさを覚えるほどに口の中が彼でいっぱいになった。
 深まっていく口づけに頭がくらくらして、強張った身体から力を抜き取っていく。

 ついに立っていられなくなって、わたしはしがみつくものを探して彼の背中へと手を伸ばした。
 どれほどそうしていただろう。ふと、彼の顔が離れた。

「……なに、退室にはまだ早い」

 熱い吐息を吐いてこちらを見おろす彼の頬は、かすかに上気して色づいている。

「まだ、君に礼をしていないだろう」

 杏寿郎さんはわたしの顔を覗き込んで、艶やかに目を細めた。

「お礼もらいたかったわけじゃないので、いいです……っ」
「それでは俺の気が済まない。背中を流してもらった礼がてら、愛しい奥方を労わらせてくれ。ついでに聞かねばならないこともあるからな」

 このタイミングで、聞かねばならないこと。
 なんだか、いやな予感。

「この君らしくない行動は、誰の差し金だ?」

 あ、まずいと思ったのは、彼のどこか厳しいまなざしを目の当たりにしたからだ。

「差し金とかそういうのではなく……っ。あの、お風呂から上がりましたら説明を」
「駄目だ」

 容赦のない断言に、ひゅっと息を飲んだわたしの肩を掴む。

「今ここで、全て話しなさい」

そして、杏寿郎さんは笑みを深めて宣告したのだった……。


 涼風が吹き抜けていく夏の夜――
 煉獄家の縁側には、杏寿郎さんの朗らかな笑い声が響いていた。

「ははは! よもや、あれが夫婦仲を高める秘訣だったとは! ははは……っ!」
「もう笑わないでください……っ!」

 お風呂上り、浴衣で端居して夜の庭を冷やす風を浴びる。

 今夜は雲もなく、縁側からは満ちつつある月がよく見えた。
 わたしは杏寿郎さんの膝に頭を預けて空を眺めていた。

 あの後、彼の手でお風呂に引きずり込まれたわたしは、湯舟でさんざんいいようにされて、全て自白する頃には見事に湯あたりしていた。
 杏寿郎さんは金魚と水紋の描かれた内輪で起き上がる気力もないわたしを仰ぎつつ、穏やかな顔で目を細める。

 その瞳からは、先ほどまで覗いていた幽かな怒気はすでに失せている。
 ただ心地いい初夏の夜のような柔らかな熱が燈っていた。

「あんなことをせずとも……、何より君を愛している。余裕など容易に切り崩されるほどにな。これからも、ずっと。知らなかったとは、言わせないぞ」

 その言葉に、どきっとしてしまったのは、お風呂のなかの余裕のない彼の顔を思い出してしまったせいだ。
 初めて明るい場所で目の当たりにしてしまった、どこか切羽詰まった表情。あれは刺激が強すぎた。

「……湯女の真似事をさせるつもりで娶ったのではないということも、君もわかっているだろう。あまり俺に身を捧げすぎてくれるな。……君に許されていると思うほど、自制が利かなくなる」
「そう言われましても……わたしだって、他意があったわけじゃないんです」

 もちろん、これを機にもっと近づきたいという欲はたしかにあった。
 だけど、背中を流そうと思った決定打は、それがわたしにできる数少ない杏寿郎さんへの恩返しだと確信したからだ。

「何か……、杏寿郎さんのためにしたくて」

 弁明を続けるわたしの話に、杏寿郎さんは長いこと黙って耳を澄ませてくれた。

 やがて、夜風に乗せて心地よい低さの声で囁く。

「それならば君が壮健であること、俺の隣で笑っていてくれること、これ以上の贈り物はない。俺は君が可愛くてたまらないのだから。……しかし、今夜はやりすぎてしまった! 夫として詫びようがない」

 困ったような顔で腕を組んだ杏寿郎さんの頬は、まだ上気したままだ。
 元の体力が違うので彼は湯あたりはしなかったようだけれど、無理をしたのに違いはない。

「次はわたしに仰がせてください」

 彼の指から抜き取った内輪で、今度はわたしが彼を仰いだ。
 転がったままなのは、今は起き上がるのがつらいからだ。行儀の悪さも、今夜ばかりは見逃してほしい。

「本当に、……やりすぎもやりすぎです。杏寿郎さんだって本調子じゃないんですから、……あ、あんな……お風呂でなんて」
「君が煽ったので乗った!」
「煽ってません!」
「それは残念だ! 君の意図を読み違え、欲を抑えきれなかったのなら全て俺の不徳の致すところだな」
「いえっ、責めたわけでは……!」

 慌てるわたしの前で、杏寿郎さんは難しい顔で腕を組む。
 風が、月光に薄く輝く彼の黄金の髪を撫でつけた。

「俺はてっきり、宇髄にでも房中術を教わってきたのかと焦ったのだが……」
「……房中術?」
「房事、つまるところまぐわいによる……」
「ち、ち、違います!」

 房事といえば、つまり夜の営み的なことである。
 何が続けられるのか聞く勇気もなく、わたしは彼の話を遮ってしまった。

「いや、君なりに考え抜いた結果だと今は理解している」

 一方で、まったく動じていない杏寿郎さん。わたしはやっぱり大人っぽい彼のお腹に顔を埋めてぼやいた。

「それはありがたいのですが、そういう話ではなくてですね。そもそも、あんなところをもし千寿郎くんに見られたら大変ってことを危惧していまして……」
「心配は無用だ!」
「いや、心配です」

 即答したわたしがおかしかったのか、杏寿郎さんはまだ少し濡れているわたしの髪を梳きながら笑った。

「随分と気にかけるのだな」
「だって、青少年の健全な育成によくないですよ、やっぱり。もちろん、保健体育の授業は必要かもしれませんけど、それは時と場合によるといいますか、家族のは、……お互いのためにならないというか……」

 だから、お風呂はよろしくない。
 お風呂だけではなく、離れの客間だとか、廊下だとかも以ての外。

 もごもごと想いの丈を告白していたわたしだけど、突然、彼が肩に触れてきたので顔を上げる。
 杏寿郎さんは人差し指を口元にあてていた。「静かに」の合図だ。

 続けるはずだった言葉を飲み込んで首を傾げると、やがて足音が近づいてきた。廊下がきしきしと音をたてている。

 槇寿郎さんは豪快に歩く分、もっと足音が大きいので、千寿郎くんだろう。
 彼らに廊下でひっくり返っている無様な姿をさらすわけにはいかない。

「あ、こちらにいらっしゃったのですね」

 杏寿郎さんの手に支えられてのそりと上体を起こせば、そのタイミングで義弟が角を曲がってやってきた。
 彼の手には、ふたつの湯呑と切り分けられた梨の実が盛られた切子硝子の小皿が乗るお盆。

「お休みのところ失礼します。義姉上のお加減はいかがですか? 先ほど、兄上から湯あたりしたと伺ったので、お茶とありの実を切ってきたんです。よろしければご賞味ください」
「わあ、ありがとう! 大好きなんです。杏寿郎さんと一緒にいただきますね」

 差し出されたお盆を、杏寿郎さんは片手で受け取った。

「世話をかけた! 後は俺が片付けるから、千寿郎ももう休むといい」
「はい。では、おやすみなさい。義姉上はお大事になさってくださいね」

 寝る前の挨拶を交し合う。
 それから、しずしずと廊下を戻っていった千寿郎くんの背中を見送り、杏寿郎さんはわたしに湯呑を手渡してくれた。

 中身は麦茶のようだ。

「いただきます」

 琥珀色の水面には、庭先に浮かぶ月影が映り込んでいた。
 さっそく、ほんのりと甘い香りを楽しんで、湯呑に口をつける。

(はぁ、湯上りの身体に染みわたる味……)

 さらさらと、また夜風が駆けていった。木立が揺れて、波にも似た音を立てる。

「わかったか?」
「はい?」

 風に耳を澄ませて麦茶を堪能していたわたしは、唐突な質問に目を瞬かせた。

「今のとおり、誰であれ気配が近づけばわかる。ゆえに君は何も心配いらない」

 そういう問題だっただろうか。いや、違う気がする。
 問題は万が一にも千寿郎くんに――そして、槇寿郎さんやご近所さんに――見られた場合にあるのだから。

「俺の腕の中にいる間の君の顔は、誰にも見せない」

 だけど、杏寿郎さんにはわたしの懸念や不安なんて全部お見通しだったらしい。

「全力を尽くして守り、隠し通すと誓おう。俺としても、弟にすら悋気を燃やす狭量な兄とあの子に知られるのは忍びないのでな」

 悋気。つまり、やきもち。
 杏寿郎さんが、千寿郎くんに、やきもち。

(そんなことある……?)

 いつだって優しくて立派なお兄さんの杏寿郎さんだ。彼の口から聞かされても、いまいちうまく想像できない。

 ぽかんとして高速でまばたきを繰り返すわたしに、杏寿郎さんは顔をほころばせた。

「……君は本当に可愛いなあ」

 そんな思わせぶりな言葉を不用意に口にしないでほしい。
 杏寿郎さんがかっこよすぎるので、わたしの心臓がもたなくなってしまうから。

「急にどうしました……っ?」
「いや、なに、そんな君を俺だけのものにしたい。この欲は律するべきだとかつては考えていたことを思い出しただけだ。だが、君はもう俺の妻だ。諦めて受け入れてくれ」
「諦めるなんてっ。むしろ望むところです!」

 そこは誤解されては困る。

「望むところか! それはありがたい」
「た、ただ、……その、やっぱり刺激的なことは部屋限定にしていただきたく……」
「部屋ならいつでもいいのだろうか?」

 彼は試すようにわたしを見つめた。……何を仰っているのだろう。

「普通に夜だけですが……っ?」
「うーむ、君に嫌われてはかなわないからな。ひとまずは善処するとしよう」

 善処!
 約束は、してくれないらしい。

 杏寿郎さんは素直でまっすぐなので、できないと思ったことは決して安請け合いしないし、約束をすることもない。
 つまり、その意味は。
 ちらりと隣を見ると、試すような目と視線が絡んだ。

 わたしは誤魔化すように梨をかじる。
 途端に瑞々しい甘さが口のなかで弾けた。


 とある夏の夜の、こぼれ話である。


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