おはよう、と声を掛けてから吹雪の隣の席に座った。おはよう、と笑ってから挨拶を返された。彼と出会って数ヶ月、分かったことがある。彼は結構ずぼらだ。今日もスーツはしっかりと着ているけれど、中のシャツは皺が寄っているのか襟は少しくたびれている。
人のことをとやかく言える立場ではないが、奥さんはきっと家庭的な人で毎日シャツにアイロンをかけてくれていたんだと思う。離婚してからは面倒だから週一でしかアイロンがけもしていないんじゃないんだろうか。そんな事を思いながら、鞄から書類の入ったファイルを取り出して、デスクの上のパソコンを起動させる。

「あー目がチカチカする」

そう言って、目元を人差し指と中指で吹雪は押さえた。貧血か、それとも二日酔いか。どちらにしろ老いを痛感する。
かちかちとパソコンを操作しては、書類を書き上げていく風丸を眺めた。老いなんて感じさせない力強さがまだまだ彼からは伝わってきた。
負けていられないと、パソコンを弄ってはキーボードを吹雪も叩いた。だけど、集中力は持たない、視界が歪む。パソコン画面の文字が二重に見えたり、歪んで読めない。キーボードを叩くのを止めて、目を強く瞬きを繰り返した。それでも文字は吹雪を嘲笑うかのようにうようよと画面を踊っていた。

「どうかしたのか?」
「ちょっと文字が二重になったりして読めなくなってさ、老眼かな」

身をより出して画面を見ていた吹雪を変に思って、風丸は声をかけた。
眼鏡は今までかけたことは無かったけど、パソコンの作業も増えたことも相まって老眼が悪化したのかもしれない。原因が何であろう眼鏡を買わないと駄目みたいだ。
苦笑しながら言う吹雪に、「今日はこれ使えよ」と風丸はデスクの引き出しから眼鏡ケースを取り出して差し出した。開けてみたら真っ黒なケースを開けたら濃い蒼の眼鏡が入っている。
使わないのかと尋ねれば、会社ではコンタクトだから使ってないから、と言ってまた作業に戻った。コンタクトだったのか、彼も老眼になるのかと、2つのことで驚いた。若く見えても彼も自分と同じ年齢だと思い出す。
眼鏡を取り出して、目に掛けると少し度は弱いけれど先程よりも鮮明に文字が見えた。

「僕もコンタクトにしようかな。今度一緒に眼鏡屋に付いてきてくれないかな?」
「良いけど。そのついでで悪いがお節介かも知れないけど、吹雪の家に行って良いか?」
「別に良いけど、どうして?」
「シャツにアイロンかけたりしたいんだ、見てられなくて。家の掃除ちゃんとしてるか?ご飯は?」

自分でも思った以上に心配していたのか、語尾は少し強くなって責め立ててしまった気がしたが、吹雪はいつものようにへらりと笑っては「最近家のことは何もしてないかな、悪いけどお願いするよ」と言って頭を軽く下げた。








休日に眼鏡を買った後に吹雪の家に寄った。しっかりとした一軒家に住んでいて、結婚していたんだと思った。綺麗に手入れされていたはずの庭や外の木々は少し雑草が生えていたり、枝が飛び出していたりと多少乱れてはいるが美しかった。
吹雪の部屋に入ると思ったより綺麗だった。しかしよく見れば埃がそこら中に溜まっている。部屋が散らかっているのではなくて、掃除をしていないことが分かった。「離婚してから家のことをする気力が湧かないんだ」と吹雪は後ろを歩きながら説明してくれた。
二階から掃除をするから一階にいてくれと言えば頷いて吹雪はリビングに戻っていった。予め場所を教えて貰っていた物置から、風丸は掃除機を取り出した。その掃除機も暫く使われていなかったからか埃を被っている。手で適当に埃を払ってからスイッチを入れた。
部屋を掃除して移動するたびに、吹雪のことを知っていくような気がした。写真はそのまま置かれていて、奥さんが笑っていたりした。綺麗な奥さんだった。彼は優しいし紳士的な性格だから、どうして離婚したんだろう。

「ありがとう、部屋が見違えったよ。それにシャツも綺麗になったし、久しぶりに家庭の味ってやつを食べた気がするよ」

粗方の掃除などの家事が終わったのは昼の少し前だったから、ついでに昼食まで作った。美味しそうに人が食べてくれるのは悪い気はしない。
風丸も自分が作った料理を口に運んだ。白米と味噌汁とサラダ、それから鮭の切り身を焼いただけの質素な食事だが、いつもよりも美味しい気がする。

「妻達が出て行ってから全てのことにやる気が起きなくてね、部屋を片づけるべきなんだろうけれど思い出もあるしそのままにしていたくて。だけどそれを見るのも辛くて、結局部屋に入らなくなって掃除なんてしなくなっていたんだ」

やっぱり彼女たちのことは今も忘れられないんだよね。そう言う吹雪は唇を少し歪めながら笑っていた。どうしてこんなにぺらぺらと哀しい話ができるのかと思えば、風丸君は彼女に少し似ていた。料理が上手いこと、世話焼きだったこと、片付け魔だったこと、がんばり屋だったこと。
「風丸君がいると、昔に返ったみたいだよ」と言えば「それは、良いことなのか?」と風丸が聞いてきた。「多分、良いこと」そういえば、「なら良かった」と風丸は目を細めて静かに笑ってくれた。その笑い方も彼女に似ていて、目眩がした。

















おじさん化パート2
年を取るということを雰囲気以外にも出したくて、老眼の話。