8.少年少女の事情

彼はいつも、どんなことにだって興味なさそうにそっぽを向く。
人生においてなすべきこと全てが、彼にとっては億劫なのだ。杞憂でしかないのだ。
そんなふうになってしまった彼の笑顔を最後に見たのはいつだっただろう。きっと、思い出そうと頭を抱える僕の方が苦笑を零してしまう。
きっかけなど大した問題ではない。僕達はいつだって無意識の底で何かに怯えて暮らしている。それを悟った時、初めて人は掌を掲げて嘆くのだ。
見えないものから目を背ける為に。




頑なに病院を拒む雪那を無理矢理引き連れて来たはいいものの、診察を受ける前に当の本人は姿を消してしまい、途方に暮れた僕は病院の中庭で一人溜息を吐いていた。
土曜の昼下がり。天気も良いためか、中庭は珍しく賑わいを見せていた。傍では入院患者である子供達が、ゴム製のボールを蹴り飛ばしながら遊んでいる。
夏の暑さが残る日差しの下でよくもまあ元気に走り回れるものだと、我ながら体力の衰えを痛感し一人虚しくなった。
自動販売機で購入した炭酸飲料の缶も、気がつけばすっかり空だ。
さて、これからどうやって馬鹿兄の居場所を探したものか。ぐるぐると思考を彷徨わせていると、頭上に現れた黒い影に目を奪われた。

「あれ、今日は一人なの?」

見慣れた顔の少年が二人。少しだけ違うのは、今日は二人とも私服姿だということ。そしてこの顔触れには、いつも真ん中に兄の姿が在る。すっぽりと空いた場所に、同じ色の髪を持つ僕が居るのもなんだが不自然な気がするけれども。

「梓さんと楓さんこそ、こんなところで何してるの?」
「楓が退院早々病院に忘れ物して来たって言うから、わざわざ取りに来たんだよ。俺は付き添い」
「あはは、ごめんね」

謝意の「し」の字も込められていないような楓さんの薄っぺらい対応に、梓さんは困ったように笑った。
そういえば、と僕は本来の目的を思い出す。

「そうそう。二人とも、雪那のこと見てない?」
「雪那…?やっぱり一緒に来てたのか」
「そうなんだけど…あの馬鹿、診察が嫌だって言って目を離した隙に逃げちゃって…」
「診察って、また例の発作?」

楓が心配そうにこちらを見つめる。
あの事故の後から、僕ら家族の次に雪那のことを気遣ってくれたのはいつもこの二人だった。それぞれ事故に対する罪悪感からくるものもあったのかもしれないが、やはり幼馴染であり親友である彼等にとっては、友人の力になりたいと思うのは当然のことなのだろう。
雪那はこの二人に心配をかけることをあまり快く思っていなかったが、事態が事態だ。姿を消したお前がいけないのだぞ。

「昨日の夕方頃ね、発作が起きて倒れちゃって…まあ親切な人が助けてくれたからよかったんだけど、一応診てもらった方がいいって母さんが言ってたから此処まで連れて来たのに…」
「雪那、病院嫌いだからねえ」
「子供かアイツは」
「あの年でまだ注射とか嫌がってるんだよ。そんな雪那を半ば強引に連れて来た僕すっごく頑張った…」
「杏ちゃん偉いな」
「でしょでしょ!でもね、雪那の嫌がる顔も嫌いじゃないんだよね。何回か写真撮ったら怒られたけど」
「今度オモチャの注射器でも持ってきて脅してみる?」
「おお!楓さんナイスアイディア」
「前にお見舞いに来てくれた雪那にオモチャのメスを見せたらなかなか良い反応してくれたから、結構いけるんじゃないかなって」
「じゃあ見つけたらお仕置きにそうしてやろうかな…!」
「おいこら、やめろドSコンビ」

気がつけば声のボリュームが一回り二回り大きくなっていた僕らを、梓さんが呆れた様に制止した。すっと間に差し出された腕を見て我に返る。

「あっはは、ごめんなさい」
「せっかく盛り上がってきてたのに」
「いいから、とりあえず雪那を探すぞ。ま、どうせひと気の少ないところに隠れてるだろうけどな」
「全く雪那ってば、最近ちょっと自分勝手が過ぎるんじゃないの…調べ物に没頭したり一人で居なくなったり…」
「…もしかしてアイツ、まだアスタリスクループのこと探ってるのか?」

梓さんの深刻そうな表情を見て、隣の楓さんは首を傾げる。

「アスタリスクループって、前に杏ちゃんが話してたやつだよね」
「そうそう。昨晩も早く寝ろって言ったのにずっとそのことばかり調べてたみたいでさ…」
「それって、前に杏ちゃんが話してたやつだよね?雪那が興味持つなんてよほど面白いサイトなんだろうな」
「冗談じゃない!あんなたちの悪そうなものに手出されるなんてごめんだよ!それに…」

雪那が興味持つのには、それなりの理由があるはずだ。あのサイトがどういう主旨で動いているかを知っている僕としては、何とも身震いのする話だ。例えそれが誰かのふざけた悪戯だったとしても、金目当ての詐欺紛いのものだったとしても、そんなことはどうでもいい。
むしろ雪那の心境があの日から何一つ変わっていないという現状を目前に示されたことの方に、僕は困惑の色を隠せないでいるのだ。
そしてそれを、この二人に知られてはいけない。そのことばかりがただ闇雲に僕を狼狽させる。
胸の奥を刺す不安を隠し、僕は慌てて取り繕って見せた。

「と…とにかく、雪那を探すの手伝って!二人共暇でしょ!」
「えっ…ま、まあ暇だけど」
「いいじゃない梓。雪那を懲らしめる案もいくつか思いついたよ」
「お前なあ…」

眉尻を下げながらも、梓さんは何処か楽しそうに楓さんの話を聞いていた。彼は無自覚タイプのサディストではないかと常々思う。

「じゃ、行くか!先行ってるぞ」

ぽん、と僕の頭に軽く手を置くと梓さんは足早に院内へと入っていった。

「…気、遣わせちゃったかなあ」
「そんなことないよ。さ、僕らも行こう」
「そうだね…あれ、楓さん?」

梓さんの後を追いかけようとしたその足は、扉の前で訝しげに動きを止めた。
風に靡く楓さんの前髪の奥から覗く白い眼帯がいやに目に付く。

「…アスタリスクねえ…馬鹿馬鹿しい」
「…え…」
「ああ…なんでもないよ。少し、昔のことを思い出してただけ」

ごめんね、と楓さんは小さく微笑んだ。
…一瞬、彼の目が黒く濁った色をしたように見えたのは気のせいだったのだろうか。
懐疑の余地も無く、梓さんに続いて院内へと向かった楓さんの背中を、僕は足早に追いかけた。





×××××××××××××××

なんとか杏の目を盗み逃げ出したのはいいものの、行き場の無くなった俺は仕方なしに屋上へと足を運んでいた。
調子はそんな悪くない。しかし、心は何処か落ち着きが無い。一刻も早く家に帰って、パソコンを開いて、やりたいことがある。
好奇心と自尊心が、ただひたすらに俺を突き動かしているのだ。これほど滑稽なことはないが、人間というものは探究心を手放すことかできない生き物だ。
昨晩メイに言われた言葉が、脳内で何度も反芻する。

「雨甲斐 雪那、お前なら出来るかもしれない。無限の輪をつくり、あらゆる世界を変えることが、ね」

「あらゆる世界を、変える…俺が…」

もし俺がアスタリスクループに手を出せば、この漫然としていた日常を変えることができるのだろうか。
いや、俺だけじゃない。あの日からただ空虚に混ざり続けてきた他の二人の未来だって、俺が変えられるのかもしれない。
「あの日」のことを忘れたいわけではない。ただ、おめおめとその残骸を足枷の様に纏って生きるのが嫌なのだ。気にするなと言われて前を向けるほど、俺達の精神は強固にはできていない。
他人が、第三者がそれを変える手助けをしてくれるのならば、「現在」に対する俺達の意思の向け方を変えてくれるというのならば、縋ってみても許されるのではないだろうか。俺達はまだ子供だ。一人で何かを背負うには困難が多すぎる。
早く帰りたい。帰って、パソコンを開いて、それから…。

「雨甲斐君?」

黙々と考え事に耽っていたせいで、俺は屋上に居た先客の存在に気づくのに数秒遅れた。
昨日美術室で見た、いや以前この病院でも一度出会った、黄金色と黒真珠。
本を片手に、今まさに院内へ戻ろうとしていたのだろう。玄条星羅は扉の前でぼんやりとしている俺の前で目をぱちくりとさせていた。

「…玄条」
「こんにちは。こんなところでどうしたの?」
「お前こそ。…ああ、親父さんが入院してるんだっけ」
「そうなんだけど…今は検査中だから、ここで暇を潰していたの」
「ふうん」

ふと、視線が下に移る。彼女が持っていたのは、色鮮やかな表紙の絵本だった。この本のタイトルには、何処か見覚えがある。

「…『ヒューモアガール』?」
「あら、雨甲斐君知ってるの?」
「見たことある気がするんだが…児童書か?」
「そう。内容が内容だから子供向けじゃないって出版停止になっちゃった本だったんだけどね。私達が小さい頃に結構人気のあった本だから、もしかしたら雨甲斐君も知ってるかもよ?」

すっと差し出された本を受け取り、ぱらぱらとページを捲る。
茶髪で水色の服を着た幼い少女が、不思議の国を旅するお話。確かにこの話には朧げだが幼い頃に手に取った記憶がある。

「夢の中で、大人になった…?」

最後のページには、こめかみに銃を突きつけて笑う少女が描かれていた。隣にはこう書かれている。


しょうじょはきづいたのでした。
これはぜんぶ、かのじょのえがいたゆめでしかなかったと。
しょうじょはわらいました。
わらうしかできませんでした。
きがつけばしょうじょのこころからは、まっくろなくもがたくさんあふれていました。

しょうじょはさいごに、みんなにこういいました。
「わたしが せかいをかえてあげるから!」

しょうじょはそういって、じゅうをカチリとかまえてほほえんでいました。


ここで物語は終わっているが、パタンと本を閉じると、裏表紙には点々と綺麗な赤が広がっている。
幼い頃は意識せず読んでいた本だが、この年になって改めて読み返すと実に気味の悪い内容だ。出版停止になったのも無理はない。

「で、なんでこんな本を?」
「さっき、入院してる子が貸してくれたの。久しぶりに見たらなんだか懐かしくなっちゃって」
「随分とひどい内容みたいだけどな」
「そうね。この女の子、最後は結局どうなったんだろう…」

どうなった、なんて聞くまでもない。裏表紙の真っ赤な雫が、少女の凄惨な結末を嫌というほど物語っている。
本をまじまじと眺めていた星羅は、ねえ、と小さく呟いた。

「雨甲斐君…まだアスタリスクループに関わろうとしてるの?」
「…なんの話だ」
「とぼけないで。私にはわかるのよ」

顔を上げた星羅の凛とした目つきに、思わず視線を逸らす。けれど彼女はじっとこちらを見たままだった。怒りでも、呆れでもないその瞳の色は、どうにもこそばゆくて受け入れ難い。

「アスタリスクが見える…とかだっけ?お前、妄想にでも取り憑かれてるんじゃないのか」
「それは貴方の方じゃないの。人生を変えられるなんて、本当に思っているの?」
「…どういう意味だよ」
「言った通りよ。人生はそう簡単に変えられるものじゃない。どんな過去があったって、それを現実として受け入れなければならない。そうやって学んでいくから、意味があるのでしょ?」
「…知った様な口ぶりだな」
「別に、貴方の過去について私は一切知らないわ。詮索するつもりもない。ただ…」

星羅は言葉に詰まった様に黙り込む。晴天の空に秋風が吹き抜け、二人の間を流れていく。

「私は…もう誰にも後悔して欲しくない。それだけ…」

絞り出す様に口にした言葉は、すぐに風の中に溶けて消えてしまった。思わず俺はたじろいでいた。
どうしてこんなにも真剣になっているのだろう。唇を噛みしめる彼女の表情は、嘘をついている様にも見えない。だからこそ俺は、彼女の意図が理解できずにいた。
その場に暫くの静寂が流れる。涙を堪える星羅と、そんな彼女を見て逡巡し立ち尽くす俺の姿だけが、窓ガラスに映り込んでいた。

「…でも」

俺は星羅の手を取りそっと本を返すと、ゆっくりとした口取りで言葉を紡いだ。

「…俺は、嫌だ。このまま色んなものを引きずって生きていくのも、それのせいで死にたいって思うのも」

本当は、メイの言葉をただ過信しているだけかもしれない。
けれど、俺には欲しい未来がある。変えたい現実がある。忘れたい過去がある。だから、誰が何を言おうと今更立ち止まることなんて出来ない。

「後悔なら、もうたくさんした。ここは絵本の世界じゃない。運命も結末も、今から全てを変えるのは俺の選択だ」
「…」
「悪いな…、星羅」

彼女は名前を呼ばれると、驚いた様に顔を上げた。
堰を切ったように溢れた彼女の涙を見ない様に、俺は逃げる様に屋上を後にした。





×××××××××××××××


「ああ、聞こえるかいフェデリカ。また選択を違えた少年が一人、此処へやって来るみたいだよ。彼は良かれと思ってアスタリスクに手を出すみたいだけれど、果たしてどちらを選んだ方が後悔しない道だったのか…」

「泣いたって喚いたって、そうなる様に決めたのは彼なのでしょう?だったら大丈夫よ。だってこれも、ステラの導きだもの!」

「そういえば、彼はどうしたの?また何処かへ行ったみたいだけど…」

「知らない知らない。あんな奴、好き勝手させておくといいわ。アイツが連れてきた人間を、アタシ達が助けてあげればいいだけのこと、ね?」

「そうだね。全てはあの子の願いの為に」

「ええ。あの子の描いた世界の為に」




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