7.およずれ道中


空が橙から青になって、そして真っ赤に染まった。あれは、そんな帰り道のこと。
何が起きたのか思い出せない。三人で歩いていたあの時、信号は確かに「青」だったのだ。夢から覚める様に我に返った時には既に、楓だけが血まみれになってそこに倒れていた。
俺は覚束ない足取りで彼のすぐ傍まで近寄り、雨に濡れて重たくなった身体を抱き起こした。
楓は笑っていた。何故か、笑っていたんだ。「ごめんね」って言いながら、顔の半分を赤黒く染めて。
どうして謝るんだ。どうして。ただ三人で、これから先の話をしながら歩いていた。それだけだったのに。
生温い楓の血がべっとりと手について、それは雨に流されすぐに温度を失った。
近くで誰かが劈くように叫んでいる。雨の音がそれを掻き消す。耳鳴りか雨音か判別できない何かが、ひどく脳内を弄る。全身から血の気が引いて、ひどく喉が乾いていた。
俺は野次馬の中で幼い子供の様に泣き叫んだ。誰でもいい。助けてくれ。友達が、大切な友達が死にそうなんだ。助けてくれ。助けてくれ。

涙と雨に濡れた視界の中、ぼんやりと何かが眼球に映り込んだ。
白い歩道を駆け抜けるそれは、一匹の黒い猫だった。





全く、随分と時間を浪費させられた気分である。夕焼けの照らす帰り道を一人歩きながら、俺の溜め息はだらしなく空へと吐き出された。
美術室で星羅と会話した後、結局彼女からまともな同意は貰えず、俺達はすぐ解散することになってしまった。
無理もないだろう。奥底で厳重に封をして仕舞い込んでいた黒歴史を晒された挙句、それを何も知らない俺達の前で再びやれと言われては、天才少女の面目は丸潰れである。最後の最後まで林檎の様に顔を真っ赤にしていた星羅は、涙目になって柚葉に口止めをしていた。
一瞬だけ彼女に対して小さな罪悪感が生まれたが、ただの他人に情をかける必要性も同時に感じることが出来なかったので俺はすぐに考えることをやめた。

「…結局、今日も一人か」

杏は柚葉の家に寄ってから帰ると言いさっさと姿を消してしまい、一緒に帰るはずだった梓は突然部活仲間から呼び出しを食らい、俺に謝りながら部室へと走って行った。
そういうわけで、今日の帰路は俺一人というわけである。嘆くことはない。むしろこれが日常茶飯事だ。部活動をやっている梓が一緒に帰れる日の方がほとんど無かった。
元々俺は、交友関係もそんなに広い方ではない。クラスで孤立することが無い程度の人間関係は維持しているものの、あくまで関係はそこまでだった。一定の距離を置いて線を引き、それより中には決して誰も踏み込ませないようにする。
最も、昔からの仲である梓や楓は例外だが。
実情に不満を嘆くことはしない。これでいいのだ。関わりが増えれば確かに楽しいこともたくさんあるだろう。人生が豊かになることだろう。しかし同時に、人生に影を差し込むのも人と人との関わり合いなのだ。誰かを恨む、憎む、嘆く。そんな負の感情を抱え込むだけ杞憂なだけだ。悩む時間の方が勿体無い。
だから俺は、出来るだけ最小限の人付き合いを保ちながら、今日まで生きてきた。このような考えに至るようになったのにきっかけが無いといえば嘘になるが、過去のことなど気にするべきではない。肝心なのは今だ。自分が立っている「今」という現実さえうまく乗り切れば、過去も未来もどうにだってなる。
孤立せず、されど取り巻きを増やさず。自分なりの処世術を巧みに駆使して、何もない空虚な毎日をただ生きる。それが人生だ。
だからこれが当たり前。何も変わらない、人通りの少ないいつもの帰り道。寄り道も今日はしない。この時間は嫌いだからだ。
早く帰ろう。何かが起きる前に。

「やあ、また一人?」

カラコロと、耳元で木のなる音がした。
はっと振り返ると、すぐ隣に男が立っていた。逆光ですぐに判断することは出来なかったが、つい先日俺はこいつと会っている。
確か、名前は…

「…め、メイ!?」
「すごい、覚えていたんだ」

一秒間を置いて、俺は驚いて彼から離れた。一方のメイは俺が自分のことを覚えていたのが嬉しかったのか、やたらと音を立てて鳴子を振っている。
いつの間に背後に忍び寄ってきたのだろう。こんな人気の無い一本道、普通なら足音ですぐ気づくはずなのだが。
思えば、以前公園で出会った時も後ろから声をかけられた記憶がある。一度でなく二度もあっさりと背後を取られてしまうとはなんて情けない。

「また会えるなんて思ってもなかったよ」

今すぐにでも回れ右してその場を去ろうとする俺を無視して、メイは話を続けた。歩き出しても、同じ歩幅で隣に並んでくる。関わりたくないという俺の本音は既に行動に現れているというのに、メイは気づいていないのか、それともわざとなのか、相変わらず表情を崩さない。
非常に不愉快だ。

「なんだよ。何か用か」
「せっかく会えたのにつれないな。少しお話しようよ」
「俺はさっさと帰りたいんだ」
「なんで?」
「…普通だろ」
「だって、家に帰りたいのは理由があるからだろ?どうして?」
「どうしてって…」

メイの質問に、自然と足が止まってしまう。帰りたい理由なんて、そんなのこいつに関係ないだろう。
なのに、俺はその質問に戸惑っていた。

「夕焼け小焼けのこの時間に一人は怖い、とか?」
「…っ!」

見透かしたようにメイの口端が歪む。
一人が怖い、だと。何を言っているんだ。
見たい番組、知りたいニュース、学校の課題。確かに、そんなもの何一つ存在しない。ただ俺は、「この帰り道」が嫌いなだけ。それだけだ。
じゃあ、どうして俺は今焦っているんだ。怖い、何が。誰かがすれ違うかもしれない通りが、夕日が、世界が。
記憶の底に閉じ込めた何かを、この場所で思い出すことが。

「…あれ、大丈夫?」
「煩い…」

突然、耳鳴りと共に頭が割れる様な痛みに襲われ膝をついた。脳内を槍が突き刺す様な痛み。そして劈く様な反響音。
…もしかして、また「例の発作」か。どうしてこんな時に。
頭を抱えて蹲る俺を見て、メイが心配そうに駆け寄ってきた。伸びてくる手を、俺は必死に跳ね除ける。

「なんでもないから、もう話しかけるな。…いつもの、ことだから」
「いつものって…お、おい…雪那?雪那…!」

メイの声がゆっくり遠ざかっていく。今日のはいつに増してひどいなあ。
薄れゆく意識の中で、俺はあの日のことをぼんやりと思い浮かべていた。





××××××××××××××

俺は過去に二度、命を落としかけたことがあるらしい。それが原因で、時折こうやって発作のように頭痛と耳鳴りが起こる。
らしい、と他人事の様に話すのは、俺自身その記憶が曖昧だからだ。

最初は三年前の春。友人の家に遊びに行こうとした際だった。些細な言い争いから友人に肩を押され、そのままコンクリートの階段から転落したらしい。
幸い打ち所が悪くなかったため大事には至らなかったが、誰の家に遊びに行こうとしていたのか、何故そんなところで転んだのか俺は全く覚えていなかった。以来その友人も全く姿を見せることがなくなってしまい、両親や梓が必死になってそいつを探したが、何故かその人物を特定することは出来なかったのだ。
そのため、当時の俺の記憶は断片的なものとしてしか残っていない。

そして二度目は二年前の秋のはじめ。まだ夏の暑さがじんわりと残っていた頃。
俺と梓と楓の三人でサッカーの練習を終えた夕方の帰り道のことだった。にわか雨の中を、俺達は傘も刺さずに笑いながら大通りの横断歩道を歩いていた…はずだった。
…そこからの記憶が、何故か俺も梓もすっぽりと抜け落ちているのである。気がついたら、俺達は反対側の歩道にぺたりと膝をついていた。振り返ると、白線の向こうに黒い車と見慣れた茶色の髪の少年。そして赤い、何か。
一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。楓は信号を無視して突撃してきた車に真っ先に気づき、俺達を歩道に突き飛ばしたのだ。
瞬時に惨状に変わった大通りで、楓はすぐに救急車に運び込まれて行った。

出血こそひどかったものの、楓はなんとか一命を取り留めた。後で聞いた話だが、楓が庇っていなかったら、俺と梓は確実に命を落としていたらしい。
しかし、親友が目の前で犠牲になったショックは、俺にとってあまりにも大きなものだった。その事故から俺はしばらく部屋から出られず、見えない何かに怯えながら毎日を過ごしていた。度々耳鳴りと激しい頭痛、それから吐き気に襲われ、何度も病院へと足を運んだ。カウンセラーの先生が親身になって俺の話を聞いてくれたのを今でもはっきりと覚えている。
手厚いカウンセリングのおかげか、それとも楓が生きていた安堵からか、俺が回復するのにさほど時間はかからなかった。
梓も俺と同じでしばらくは療養を続けていたが、じきにいつもの笑顔を取り戻し、俺や楓の元に足しげく通うようになっていた。
楓は自分の怪我より俺達が事故のことを引きずってないかをずっと気にしており、最初は会う度に謝ってばかりだった。楓が謝ることなんて、何一つ無かったというのに。
複雑な心境を抱えたまま、されど互いに傷を癒しながら、俺達は少しずつ元の生活を取り戻していった。

これが三年前と二年前の話。
そして、俺が人との関わりを避けるようになった、原因となった出来事。





××××××××××××

「目、覚めた?」

白い天井に、電球がゆらゆら揺れているのがぼんやりと視界に映る。視点をずらすと、茶色の髪の少年がこちらの顔を覗き込んでいた。

「…此処は?」
「神社だよ。かんなぎ神社。知ってるだろ?」

かんなぎ神社。この町にある唯一の神社である。町が出来る前からこの土地に建てられていたという由緒正しい建物で、昔から猫の姿に似た神様が祀られているらしい。
幼い頃はよく遊びに行っていたが、今では登下校の際に見かける程度だった。
しかしどうしてそんな場所で、俺は目を覚ましたんだ。それにこの布団は一体…。

「メイさん、雪那起きた!?」
「うん。熱も無いみたいだし、大丈夫じゃないかな」
「そっかあ…はあ、良かった…」

襖が勢いよく開けられ、見慣れた少女達がを現した。その姿に俺は思わず声を上げる。

「杏…!それに柚葉まで…」
「もう、いきなり倒れたって聞いてビックリしたんだからね。メイさんが近くにあったこの神社まで運んで来てくれたお陰でなんとかなったけど…今朝ちゃんと薬飲んだの?」
「…運んだって…メイが、俺を?」
「他に誰がいるのさ」

メイが呆れたように苦笑を浮かべる。
こいつ、意識を失った俺をわざわざ人のいる場所まで運んでくれたのか。案外悪い奴では無いのかもしれない。
俺は少しだけ、彼にとった態度をを反省しようと思った。

「ところで、なんでこの神社に…」
「あれ、雪那さん知らないんですか?私のお父さん、この神社の神主なんですよ」

濡れタオルの入った桶を抱えながら、柚葉が答える。
そういえば、以前杏が話していた。柚葉は大きな神社に親戚共に暮らしているとか。父が神社の神主で、母が看護婦。姉は二年前に病気で他界してしまったらしい。

「近くうちがあって本当良かったですね。ありがとうございます。ええと…メイさんでしたっけ?」
「うん、神名木 命っていうんだ」

メイが柚葉に一礼入れて自己紹介をする。
俺に名乗った時はそんなに丁寧ではなかった覚えがあるのは気のせいだろうか。

「…かんなぎ…めい…?」
「へえ!この神社と同じ名前なんですね。…ゆず?どうしたの?」

メイの名前を聞いて、柚葉の表情が一瞬強張った。桶を持っている手は僅かに震えてるように見える。

「もしかして、知り合い?」
「あ、いやえっと…ち、違うよ!うちの神社と同じ名字の人なんて珍しいなって」
「ふーん。俺の名字、そんな珍しいの?」
「珍しいですよー。あまり聞いたこと無かったからちょっと驚いちゃって…あ、ごめんなさい。雪那さん目を覚ましたことですし、何か飲み物でも持ってきますね」
「あ、僕も手伝うよ」
「じゃあ杏ちゃん、お願い。メイさんは雪那さんが勝手に動き回らないよう見張っててください」
「勝手に、って…」
「おっけー」

慌ててその場から逃げるように、柚葉は忙しなく移動を始めた。杏が首を傾げながらも、その後を追いかけて行く。

「…あの子が、まさかね…」

柚葉がぽつりと何かを呟いたが、それは襖を閉める音にぴしゃりと遮断されてしまった。

「…」

静寂が包む空間に、二人取り残される。
…とりあえず謝っておくべきだろうか。

「…悪かったな。突然倒れたりして…」
「気にしなくていいよ。あれ、発作みたいなやつなんだろ?妹さんが随分心配そうに言ってたよ」
「…まあ、そんなとこ」

近頃、あの発作が起こることはほとんど無かったのですっかり油断していた。
高校に通い始めた当初はほんの少しの出来事ですぐに立ち眩みを起こすほどで、その度に梓に保健室へ連れて行かれていたものだ。
今ではそんなこともあまり無くなっていたはずなのだが、今日に限って悪化するとは最悪である。

「随分うなされてたけど、悪い夢でも見てたのか?」
「…少し…」
「もしかして、昔の思い出とか」
「…えっ…」

まるで先程見た夢を見透かされた様で、俺はゾッとした。
なあ雪那、とメイは話を続ける。

「人生において、最善の選択は何だと思う?」
「…最善の選択?」
「そう。過去の栄光を死守するか、未来の栄光を奪取するか…どうすれば人間は考えずに済むのか、悩まずに生きていけるのか」

お前みたいに、ね。
急に不安が過ぎり起き上がろうとするが、メイに小突かれ再び布団に戻されてしまう。

「…お前、何者だ?どうして俺のこと…」
「知りたい?…俺はね、アスタリスクループの案内人なのさ」
「アスタリスクループの…!?」
「そう。だからお前のことも知ってる。勿論妹の雨甲斐 杏のことも、この町に住む住民のことも全部、ね」

そういえば、彼は初対面の時もアスタリスクの輪がどうとかいう話をしていた記憶がある。
案内人?あのサイトの管理人ではないのか。それに全部知ってるって、どういうことだ。

「お前、過去の出来事が原因で人付き合いがトラウマになってるみたいだな。誰かと関われば些細な諍いで命を落とすかもしれない。また誰かと関われば些細な行動で親しい誰かの命を奪うかもしれない。だから必要最低限の距離で他人と付き合っている。そうだろ?」
「…」
「満身創痍だねえ…ま、残念ながらお前の過去のトラウマに関して、俺にはどうすることも出来ないんだけどな」
「…アスタリスクループは、人生をやり直すサイトなんだろ…過去は、変えられないのか?」

俺の質問に、メイは顔をしかめた。まるで「もうそれは聞き飽きた」と言わんばかりに。

「そう勘違いしてる奴、多いよねえ。アスタリスクループが『過去を変えられる』なんて名目で立ち上げられたなんて話、一度も言ったことないんだけどな…時間っていうのは、一秒刻みにその出来事を記憶する。一秒経つごとに自動でセーブされるって言えば、わかるかな」
「じゃあ、人生をやり直すとか、送り直すとか…あれは一体なんなんだよ…」
「俺達は、人生観を変える手伝いをしているんだ。これから先の、ね」

メイの話の合間で、鳴子がカラコロと音を立てる。
…人生観を変える?
どういうことだ。そんなことで、何かが変わるというのか。
にわかに信じ難い話だが、俺は先程から自分の心臓が激しく脈を打っているのをどうにも抑えられなかった。
無意識のうちに、俺はこいつの話に引き込まれているのだ。

「人間は、思考を180度変えればいくらでも生まれ変われるのさ。過去の記憶も、未来の予兆も、全ては当人の捉え方次第。概念だけに思考を支配されてはいけない。軸が変われば輪も変わるんだから」

気がつけば、夕日は落ち辺りは真っ暗になっていた。
電球の明かりが消え、月の光だけが窓辺から差し込んでくる。照らし出されたメイの影は、大きな化け物の様に俺の身体を包み込んだ。

「雨甲斐 雪那、お前なら出来るかもしれない。無限の輪をつくり、あらゆる世界を変えることが、ね。俺が助けてやろう。本当に望むものを手に入れる為に」

まるで空間が捻じ曲がったような暗闇に、メイだけが一人立っていた。
息を呑む余裕すら無くなる感覚。あれだけ高鳴っていた心臓の音すら、もう遠くに感じる。
俺の意識はそのまま、焦げた夕焼けの瞳に吸い込まれていった。





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