6.放課後の美術室

また何か描いているの?

いつもように、彼女の隣で寛ぎながらそう話しかける。
少女はふわりと微笑むと、作業をしていた手を止めた。

「あら、あなたもこの絵が気に入ったの?」

私にしては、よく描けた方なのよ。
青い絵の具が付いた筆をパレットの上に乗せて、彼女は先程まで色を塗っていたそれをまじまじと眺めた。

「この絵のタイトルはね、『悔恨』っていうの」

青と赤が混ざったような色がキャンバスに広がっている。真ん中に描かれた人間は何処か嬉しそうで、しかし悲しそうで、それはなんとも名状し難い様子であった。
俺には芸術とやらはよくわからない。

「人間は今を生きるのに精一杯で、けれども何かに縋らないと目を背けられない」

彼女の長い睫毛が上下に動く。その様子をじっと見つめていると、ねえ、と声をかけられた。

「どちらを選べば、私達は後悔しないで生きていけるんだろうね」





不意に視線を感じて振り返れば、長い指が遠慮なしに俺の頬に刺さる。にんまりと笑う梓と目が合う前に、腹に一発喰らわせてやった。

「ぐお、なんというストレート…」
「馬鹿野郎」

苦しそうに唸りながら廊下の隅に蹲る梓と、それを憐れんだ目で見下す俺。
そのシュールな絵図を、少し離れたところで杏と柚葉がクスクスと眺めている。

「やっぱり雪那はどっちもいけるね。いやでも個人的には受けの方が良いと思うけど」
「杏ちゃん、あの二人っていつもあんな感じなの?始終見てたら萌え死んじゃうわよ」
「ふふん、いいだろ。あの仲良し組をずっと見てきた僕はもう目覚めてしまった時から妄想が尽きない」
「そんな昔からの仲なんて反則」
「おいしいです」
「ご馳走様です」
「おいお前ら俺で妄想すんな」

出来るだけ小さな声で話しているつもりなのだろうが、人気の無い廊下ではほとんど筒抜けであった。
杏があのような趣味に没頭し始めたのはここ最近のことではない。中学時代、同級生から何も知らずに借りた薄い本を読んでしまったのがきっかけらしい。今では二次元だけに飽き足らず、こうやって実の兄ですら妄想の糧にしている。
杏の俺を見る目が日に日に変わっていくのが、最近の一番の悩みの種だ。

「没頭出来る趣味があるのは良いことだよ、杏ちゃん」
「梓さんもそう思いますよね!」

むくっと起き上がった梓の一言で杏がますますつけあがる。
こいつ、もう一発殴ってやろうか。

「節操が無い。もっと外出ろよ。梓みたいにサッカーするとか、何か続けるとか」
「十分外出してるじゃない!イベント参加とか!」
「運動しろ」
「うるさい帰宅部」
「はあ?言ったな。表に出ろ杏」
「構わないよ。そろそろ決着つけようじゃないの」
「上等だ」
「こら二人共!廊下で喧嘩はあれほどやめろって言っただろ!」

梓に叱咤され、俺も杏も思わず黙り込んだ。
見ると、時折行き違う生徒がひそひそとこちらの様子を窺って笑っていた。それを確認し、そういえばここは家ではなくまだ学校なのだと気づかされる。 同時に羞恥心で顔が焼けそうだった。
とんだ晒し者だ。穴があるなら今すぐに入りたい。
それは隣にいた妹もどうやら同じようで、二人揃って重い息を吐いて項垂れた。

「ああ…喧嘩するなら外ではやらないつもりだったのに…」
「これで何回目だよ…」
「まあ、それでもすぐ仲直りするから俺としては別にいいんだけどな」

俺達がおとなしくなったのを見て、梓はにこりと笑う。その一部始終を眺めていた柚葉が、ようやく俺達の間に口を挟んできた。

「梓さん、二人を宥めるの上手いんですね」
「まあ、雪那と杏ちゃんの口論はもう飽きるほど見てきたからなあ…大抵この後ゲーセンの音ゲーで勝敗が決まる」
「変なの。…でも、昔からの付き合いって素敵ですよね」

何故か柚葉に憧憬の眼差しを向けられ一瞬戸惑うが、彼女はすぐさま杏の方へと向き直る。

「さあて、茶番はこれくらいにして早く本題の元へ向かいますよ!」
「あ、ゆずってば待ってよ!」

一人駆け足で向かって行った彼女の後を、杏が慌てて追いかけていった。
嵐が去った後の様に静まり返った空間で
俺は小さく溜め息を吐いた。柚葉に言われた通り、とんだ茶番だ。さっさと目的を終わらせて帰ろう。
気分を変えようと顔を上げたのに、梓が隣で声を押し殺して笑っているのが聞こえてきてまた一気にブルーになる。
睨みつけてやると、怖い怖いと涙目で梓はおどけて見せた。こいつもう絶対に許さない。

「笑うな」
「いやごめん。でも二人の喧嘩本当面白いよな。終わった後も雪那はしばらく引きずってるけど杏ちゃんは結構サバサバしてるし」
「俺がねちっこいみたいな言い方だな」
「どっちも灰汁が強いってこと。良い意味でな」

ほら行くぞ、と梓が一歩先に出る。
ああやっぱり、いつも彼には敵わない。梓はいつも俺を引っ張っていく。きっと一人だと何も出来ず途方に暮れていたであろう俺に、いつだって道を示してくれる。中学でサッカーを始めたのも梓の影響だし、あの時はそれなりに楽しかった。
はずなのに、今はどうしてこんなことになっているんだろう。

「それにさ、雪那」

梓の言葉で我に返る。
窓の向こうの夕日を背にした彼の姿は、逆光のせいでぼんやりと視界に映されていた。

「俺のやつは、趣味って呼べるほど大層なものじゃないよ」
「…え…」

そう言った梓の心意を読み取ることが出来ず、再び声をかけようとするが彼はそそくさと階段を駆け上がって行ってしまった。

「梓…?」

ぽつり、廊下に一人残される。
何かが崩れた様な音。それはきっと気のせいだと耳を塞ぐ。
俺は躊躇いがちに、階段の上へと続く梓の影を追いかけていった。





×××××××××××××××

本校舎の4階、突き当たりにある小さな美術室。こんな夕暮れ時に行き交う人の姿は見当たらなかった。テスト期間だし尚更だろう。

「あ、いた」

ひょっこりと窓を覗くと、キャンパスの並んだ部屋の奥に金髪の少女が一人、黙々と作品制作に取り組んでいた。
彼女が美術部に入部したと聞いた時は正直驚いた。てっきり運動部にでも入るものかと思っていたが。
ノックしようか悩んでいると、待つのに耐えかねた杏が俺の前にずいっと割り込んで勢いよく扉を開けてしまった。

「お、おい…!」

教室の隅にいた少女の肩が小さく跳ねた。恐る恐る振り向いた黒い瞳とばっちり目が合う。扉の前に佇む人物が俺だとわかった途端、彼女の表情が一瞬で曇った。

「…雨甲斐、君?」
「あー、悪い玄条…これは俺じゃなくてだな…」
「やだ、すごい美人さんだった」
「おい杏、いきなり開けるなよ」

我先に美術室に押し入ろうとする杏を腕で制止する。
突然のことに状況が理解出来ない星羅はぽかんと口を開けたままだ。

「ねえねえ雪那、この人?」
「多分」
「どうしようめっちゃ可愛い。この人ならアシュリーちゃんもきっと出来るよ」
「な、何よいきなり…!貴方達、テスト期間でしょ!さっさと帰りなさいよ!」

ようやく本調子に戻ってきたのか、俺達のやり取りに星羅が強めの口調で乱入してきた。しかし杏は屈するつもりは一切無いらしい。積極性があるのは良いことだが、多少強引なところは玉に瑕だと俺は思う。

「あ、ごめんなさい。全てはこの馬鹿兄がですね…」
「なんでだよ」
「この子、雨甲斐君の妹さん?」
「いや他人」
「何言ってんの雪那!」

これ以上杏が絡むと厄介なことになりそうだったので適当に流そうと思ったが、そう上手くもいくわけがなかった。結果的にますます面倒なことになる。
全くこの妹、空気を読むということができないのか。

「ねえ、美人さん見つかった?」

この状況下で、俺と杏よりやや遅れて柚葉と梓が美術室へと入ってきた。
少し前に遡る。柚葉がイベントの資料を一式教室に置いて来たとか言い出し、何故か梓も巻き添えに教室に戻って行ったのだ。先に向かうことになった俺達が星羅に事情説明をすることになったのだが、結果的にそれは失敗に終わった。
侵入者が増え、火に油を注いでしまったのではないかと俺は慌てて星羅を見やる。
が、当の彼女は別の感情がこもった表情で二人を見つめていた。それは驚きというよりも、何処か懐かしいものを見るような目だ。

「…柚葉、ちゃん?」

星羅のその一言に、その場が一瞬で静まり返る。星羅と柚葉以外の三人が、目を丸くして彼女達を交互に見た。
俺達の間を掻い潜り、ようやく星羅の前に辿り着いたばかりの柚葉はまだ状況が飲み込めずにいるらしい。瞬きを繰り返しては、向けられる視線に冷や汗を流している。

「えっ…何?」
「覚えてない?ほら、昔よく一緒に遊んでいた…」

遊んでいた?反芻して、柚葉は記憶を呼び起こそうと必死に頭を抱えている。しかし、彼女の目が爛々と輝くまでそんなに時間はかからなかった。

「…セラさん!セラさんだ!」
「そうそう。私のこと、そう呼んでくれていたわよね」
「うわー!何年ぶりですかね。でもまさか戻って来ていたなんて…!」
「ふふ、黙っててごめんなさいね」

きゃっきゃと話を始める女子二人を遠巻きに見る俺と杏と梓。
一体どういうことだ。
何故星羅を探しに来た張本人が何食わぬ顔で彼女と会話をしているのだろう。誰かこの状況を説明してくれ。30文字以内で。

「ゆず、これは…」
「あ、ごめんね杏。セラさんはね、昔近所に住んでた知り合いなの。転校しちゃってて、でもまさかまたこっちに来ていたなんて思いもしなかったからさ…」
「なに、それ…知り合いなら見かけた時気付こうよ…」
「いやあ、私普段は裸眼で生活してるから遠くの人の顔あまり見えないんだよね」
「コンタクト買いなよ!…はあ」

がくっと肩を落とす杏。その隣で小さく苦笑を浮かべる梓。俺に至っては、怒りも驚きも通り越して呆れしか出て来そうになかった。
これこそ、とんだ茶番に付き合わされたものだ。まさか星羅と柚葉が知り合いだったなんて。俺達がついてくる必要は無かったのではないか。
正直、あの病院での一件がまだ謎に包まれたままの今、星羅と無闇に関わることは避けたかった。けれど、先程のように楽しそうにはしゃいだり怒ったりする星羅を見て、少しだけ安堵している自分がいる。
得体の知れない人物だと思っていたが、彼女もまた普通の女の子と何も変わりないのだ。考えを改めなければいけない。

「…でも…」

それでは、あの時のあの言葉は一体何だったのだろう。

『いい、これは忠告よ。アスタリスクループに関わったらダメ』

少なくとも彼女は、アスタリスクループについて何か知っている。だからこそ、俺にそれを使わせまいとしている。
あのサイトは一体何なのか。人生が変わる、堕天使がやって来る。不気味な噂しか伝わって来ないそれは、まるで都市伝説の様だ。
校内では、星羅はアスタリスクループを使ったという噂も流れていた。もしかしたら、彼女に聞けばわかるのではないか。
本当に人生を、過去を変えられるのかどうか。

「ところで柚葉ちゃん、こんな大所帯でどうしたの?」
「あ、そうそう実はね…セラさんにコスプレしてほしいと思って…」
「…えっ」

そういえば、とこの場にいたほぼ全員が思い出す。
すっかり忘れていたが、今回星羅に会いに来た一番の目的はこれだった。某ゲームの隠しヒロインであるアシュリーのコスプレをするのに適役な人物を探し求め、柚葉の目撃情報を頼りにここまで来たのだ。
しかし柚葉の言葉を聞いた星羅を見ると、何故か笑顔が引きつっている。まるで聞いてはいけない話題に触れてしまったかのように、今すぐこの場から逃げ出したいと言わんばかりの表情を浮かべている。

「こ、コスプレって…何の?」
「アシュリーちゃん!だってほら、セラさんって昔は巷ではすごく有名なコスプレイ…」
「わーっ!わーっ!!ちょっと待って柚葉ちゃん!!雨甲斐君達もいるんだから、ね!?」

星羅は動揺しながら慌てて柚葉の口元を押さえる。隠しているつもりらしいが、あまりに不可解な行動に残りの面々は柚葉の言葉の続きが一瞬で理解出来た。

「…なに、お前レイヤーだったの」
「ち、違うわよっ!知り合いの手伝いで着ていたことがあっただけ!」
「へえ、でも着てたんだ」
「あ…」

墓穴を掘った彼女は顔を真っ赤にし、視線を逸らす様に俯いてしまった。
初見のイメージと随分変わってきたがこの転校生、正体は杏や柚葉の同族だったということか。

「…やってあげろよ、コスプレ」
「なっなんでよ!もうコスプレはしないの!」
「どうして?」
「い、いいじゃない別に…貴方には関係ないでしょ!」
「…星羅さんって、ツンデレ?」
「はぁ!?誰がツンデレよ!」

杏の言葉にますます顔を赤らめる星羅。
その攻防を眺めながら梓は一人で嬉しそうに何かを納得し、満足気に頷いている。

「玄条って取っつきにくいイメージあったけど、実際すごい面白い子なんだな」
「確かに」

人は見かけと雰囲気で判断してはいけないものだ。
俺は今日一つ、新しい教訓を学ぶこととなった。




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