≫ 「怖くないよ」
前回の続き的な。盲目少女と芸術家のお話
まだ若干の肌寒さが残る3月の某日、彼女は市内の病院から退院した
タクシーを呼ぼうか迷ったが彼女が「歩いて、帰りたい」と、そう言ったので、歩いて帰ることにした
手を繋いで、確かめるようにゆっくり歩く。目の見えない彼女の不安が、繋いだ左手から伝わってくる
恐らく無意識だろう。恐怖からか。不安からか。彼女の右手はきつく私の左手を握る。力の入りすぎで白くなった右手とは裏腹に、笑顔で言葉を紡ぐ彼女。怖いのを隠して、笑っている
「怖い?」
「ぜーんぜん」
怖くなんてないよ。そう言ってまた笑う彼女。繋いだ左手に少しだけ力を入れて彼女の右手を握り返し、問いかける
「見えないのは、怖い?」
当たり前だろう。と、自分でも呆れてしまうような質問だけど、訊かずにはいられなかった。好奇心、というよりは、確認のそれに近い声音で、私は彼女に問いかけたのだ
「全く怖くないって言ったら、嘘になっちゃうけど、」
そういってポツポツと話し出した彼女。俯いていてその表情をうかがい知る事はできないが、口から溢れる声から察するに、明るい表情ではないだろう
「でもやっぱり、怖くないよ」
私は、怖くなんかないよ。だって貴女が私の傍にいてくれるもの。と、彼女は最後に、顔をあげて、前を向いて、言い放った。
彼女の視界に映されているモノを共有する事は私にはできないが、彼女が抱える不安や恐怖を取り除く手伝いをすることぐらいはできるだろう
そう自分に言い聞かせて、私は彼女の力の抜けた右手を引いて、これから共に住む新居までの道のりを他愛の無い会話を交わしながら歩いた
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