アルバイトの子たちは自分より年下の方が多かった。高校生だという子も、そして自分と同じ大学生の子も様々だった。

「千里ちゃん!破魔矢を持ってきてくれるかい!」
「はーい」

他の子たちと違い、幼いころからこの神社で遊んでいた千里は、どこに何があるのかを理解している。それもあって、先ほどからお守りだのおみくじだのをあちこちから引っ張り出してはまた倉庫に戻りということを繰り返している。

今度は破魔矢かと思いながら、頭の中の地図でどこに行けばいいのかを思い出す。
す、す、と背筋が伸びた美しい歩みは、周りのアルバイトの女の子たちの視線を独り占めしていたが、千里は気付いていなかった。

裏の石段の近くにあったはずだと思い出し、その方向へと向かうことにした。

境内を横切り、おみくじが結びつけてあった辺りも通り過ぎ、小さな祠の前を歩いた先にある蔵に辿り着く。

そのとき、ワンと犬の鳴く声が耳に入った。カチカチと爪と石床が触れる音も近づいてきていて、迷い込んだ犬だろうかと振り返る。

「…あれ…ヒコナ?」

ワン、もう一度答えるように声を上げた犬―――ヒコナとは千里の家の犬だった。

「散歩?」

散歩であるならば近くに母か姉がいるはずなのだが、その姿は見当たらない。きょろきょろと辺りを見回してみても人の気配はなかった。
よく見れば紐も付いておらず、赤の首輪が白い体によく映えているだけだった。

「…家出してきたわけ?」

ワン、じゃ分からないわよと呟き、千里はヒコナの体を撫でた。優しい手つきにスヒコナが目を細める。
千里が溺愛しているからか、忠実なのだが、ひとたび外に出て知らない人間に会おうものなら追いかけ回すような気性の荒い犬だ。人を襲っていないだろうかと不安になってしまう。

そして、もう一つ、足音が近づいてきた。すぐ近くまで来たかと思うと、千里がヒコナを撫でる為に上げている腕の下に入り込んできた。そのまま「撫でてくれ」とでも言わんばかりに顔を千里の顔に近づけてくる。

「スクナ…あんたも?」

もう一匹飼っている犬のスクナだった。
スクナとヒコナは双子の犬だ。スクナには青の首輪がしてあり、ヒコナほど気性も荒くない。大人しいが、吼えるときは恐ろしさを感じさせる。
ヒコナから手を離してスクナを撫でると、今しがた気持ち良さそうにしていたヒコナの表情と同じものになった。

「本当にあんたたち双子ねぇ」

可愛いわねえと満足そうに嬉しい溜息をついて千里は破顔した。

―――そうじゃない。

仕事をしなければとハッと気付き、千里は袂から蔵の鍵を出して鍵穴に差し込んだ。一度目は回らず、次の鍵を差して回すとすんなりと開いた。十ほどついてる鍵の中で二回で開いたのはラッキーだと、思わずヒュウと鳴らない口笛を吹いた。

ガラガラと錆ついて重くなった戸を引き、一息つく。本当に重い。それだけこの蔵が古いということの表れなのだろうが。

灯りもなく、ひんやりとした空気が頬を刺した。

「破魔矢破魔矢…っと」

積み上げられた段ボールを一つずつ開けて中身を確認する。先日祈祷されたという破魔矢が大量に入っていた。数本で一つの矢筒に入れられている。

「…結構重いんだよね…」

いくつかの矢筒を引っ張り出し、肩に掛ける。矢筒自体はこの神社のものであるし、売り物ではない。何回か往復すればいいだろう。下手に持って行って途中で転んだりする方が迷惑になるに違いなかった。

立ち上がって扉の方へ体を向きなおしたときに、矢筒が何かに当たってしまった。ガタンと倒れた音がしてしまい、もう一度奥の方へ眼を向ける。

弓が一本倒れていた。しゃがみ込んで拾うと結構な重さがある。弓ってこんなに重いのかと驚きながら立て懸けておこうと持ち上げる。倒した自分が一番悪いのは分かってはいるが、無造作に置かないで欲しい。




突然、スクナとヒコナが吠え出した。
普段ほとんど吠えることのない二匹が揃って吠えるなんて、とまたしても驚きながら弓を持ったまま外に出た。

入る前とはどこか違う雰囲気があった。
空を見上げてみても晴れたままであるし、辺りに人がいないのも相変わらずだ。
それでも言いようのない冷たいものがあるような気がして、千里は思わず背を震わせた。

ざわざわと落ち着かない気持ちが、ここを早く離れるべきだと頭で警報を鳴らしている。
それなのに頭から指令が伝わっていないのか、体は全く動かなかった。動かせない。手に汗が滲む感覚があった。力を入れることも許されない、一瞬の動きで全てが駄目になってしまうような―――そんな感覚だった。

体が固まった状態でただ前方を見ているだけの自分は、周りから見たらどんなに不審なのだろう。

真っ青な空の中にぽっかりと穴があいたように真っ黒なものが浮かんだ。ありえない光景を見て、目を見開いた。

疲れている?それとも夢?どういうことなの?

更に吠える二匹の愛犬たちの様子から、否、それがなくともその存在が得体が知れない危険なものであることはわかる。

黒い靄の中から出てきたのは、本や映画などでしか見たことがないものだった。

空洞のはずの目と、自分の目が合った。


「な、何あれ…!」

やっと開いた口から出る震えた声。寒気が全身を駆け、体がガタガタと震えた。
グッと後ろに引っ張られてバランスを崩しそうになったが、下を見るとヒコナが袴を引っ張っていた。動きづらい袴と草履だが、脱いでいる暇はなく、一刻も早くこの場から離れようと千里は走り出した。

どこかで鐘が鳴っている音がした。


叔父のいるところの戸を開け、中を見る。
しかし叔父の姿はない。それどころか人がいる様子も見えない。先ほどまで広げられていた掃除道具もたった数分で消え去るものなのだろうか。まだ掃除も始めたばかりだったのに。

木枯らしの音がやけに耳に入る。自分しかいないような錯覚に陥りそうだった。

とにかく早く叔父を見つけて逃げなければいけないと考える。年末年始だとか、そういう話ではなく、命の危険に発展する話だ。


ガシャンとガラスが割れる音が響き、肩が跳ねる。両隣にいる犬たちに再び引っ張られて、後ろに倒れこんだ。バサバサと書類が床に落ちる。

その瞬間、風を斬る音がした。
障子を張ってある戸が上下に別れ、千里達の方へ上の部分が落ちてくる。
震えが止まらない体を何とか後ろへずり下げると、今まで自分がいた部分にその障子が落ちてきた。その風で散らばった紙が更に吹き上げられた。

紫色の毒々しい刃を、フードのようなものを被った骸骨が振り上げる。

「…っ!!」

手を顔の前に持っていっても無駄なのはわかるが、持っていかざるを得ない。スクナとヒコナの声も一気に小さく聞こえて、千里は「ああ死ぬのかな」と薄ら思う。

しかし、攻撃するには時間がかかり過ぎていた。目の前にいるはずの獲物を狩るのに数秒もいらないはずだった。

いつまで経ってもこない斬撃に眉を寄せ、横に反らした顔を前に戻す。

「!」

ヒコナが千里の前で唸り、スクナがあの骸骨に後ろから噛みついていた。断末魔と言うに相応しい金切り声を上げ、骸骨は体を横に揺らす。大振りな動きに耐えきれなかったのか、スクナは体を投げ出され、押し入れの戸に体を打ちつけてしまう。

「スクナ!!」

攻撃が来る時は全く動けなかったのが嘘のように、千里はすぐさま押し入れへと駆ける。
大きな音がしたために体を痛めたのかと思ったが、スクナはすぐ起き上がった。近くに来た千里の手を舐め、「大丈夫だ」というように一度吠えた。
スッと撫でて千里はスクナの体を抱え込んだ。痛みがあるかもしれない体に無理はさせられないと思ったからだった。
相変わらずヒコナが前で、恐がることなく骸骨を睨みつけている。
千里も恐怖心が少し薄らいだ。愛犬に何という仕打ちをするのかと怒りが湧いてさえいるようだった。

内心ではこのままだと逃げ場がないという焦りがあった。家屋の中にいるのは、場所的に狭いし視野も狭くなってしまう。危険なのは明らかだった。

骸骨が体勢を立て直し、再び叫び声を上げた。ビリビリと空気が振動して体を通り過ぎてゆく。

ヒコナが飛び出し、直前のスクナのように骸骨に噛みついた。その間に千里は立ち上がり、今しがた破壊された障子の下半分を力の限りに蹴り飛ばした。外れた感触がし、見事に障子は向こう側に倒れた。
飛び越えるには無理な高さがあったために取った行動だったが、自分がお嬢様だったら絶対に取れない動きだった。

「行くよ!!」

顔は向けなかったが、声だけで伝わったらしい。ヒコナは骸骨の周りを動いて惑わせていたが、すぐさま千里の元へ駆けてくる。スクナと共に既に屋外へと飛び出した千里は境内へと急ぐ。
走りにくい袴に舌打ちが出そうだった。

それにしても人が全くいない。
今の大きな音があっても誰ひとりとして現れなかった。

人っ子一人いなくなったがらんとした境内は、最早不気味でしかなかった。