Le cantique du diable


「あんたごろごろしてるならバイトでもしたら」
「えー…普段あれだけ忙しいのにそれはないでしょ」

千里はずず、と味噌汁を啜りながら嫌そうな声を出した。

大学四年生の千里にとって、大学の講義は今はないに等しい。そして、久し振りにアルバイトがない土日だった。

塾に来る生意気なガキどもから久方ぶりに解放され、朝が来るまでゲームをしていたこともあるのかもしれないが、今日は昼まで寝ていたのだった。それを母に咎められ、朝ごはん兼昼ごはんを食べながら、微妙な心境になっている真っ最中だ。

今は年末も近い十二月の初旬。
そろそろ冬期講習の始まる時期だ。必然的に忙しくなるし、その忙しさといったら半端ないのだ。朝早くから夜遅くまで、昼休み以外はすべて授業というまさかの展開だ。

「おじさんちの神社人手が足りないって言ってたわよ」
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないわよ。手伝ってあげようって気はないの?」
「寒いの嫌いなの」
「はぁ…あんた本当に神社関係の娘?奉仕の心の欠片もないんだから」
「そんなに言うなら母さんがやればいいでしょ。姉さんだっているのに」
「私ができるわけないでしょう!未婚の女の子しかできないのよ。それにお姉ちゃんはもう働いてるから無理よ」

兼業は許されないんだから、と社会人の豆知識を頭に入れたところで、千里は動く気はなかった。

飲み終わった味噌汁のお椀をテーブルに置き、「ごちそうさま」と手を合わせた。そのまま椅子から立ち上がり、食器を片付ける。
ガチャガチャと食器同士の軽いぶつかり合いの音が心なしか大きい気がしたのは千里が苛ついているからだろうか。

「巫女さんやりたい子って結構いるんじゃないんだ?」
「何かそうでもないみたいよ。そこそこの規模でしょう?だからそれだけ人も必要みたい」
「ああ…」

母の兄である千里の叔父は、神主だ。昔から代々続く神社を守っている。

「それに、一度くらい巫女衣裳でも着てみればいいじゃない。結婚したら着れないわよ」
「まあねー……結婚しないと思うけど」
「それは困る」

巫女衣裳ねえ、と頭の中で反芻しながら自分が紅袴を着用している姿を想像しようとした。が、できなかった。似合わなさすぎる。

「私が似合うわけないじゃん、あれ」
「そうかしら…あんた結構日本美人て言われてるから大丈夫だと思うけど」
「何それ…見返り美人図的な?」
「そうかもね。…というか、おじさんがあまりに悲痛に訴えてくるからもうあんたをバイトに行かせるって言っちゃった」
「へぇ、………はぁっ?!!」

思わず洗っていた食器をシンクに落してしまう。割れたような音は聞こえなかったが、もしかしたらヒビが入ったかもしれない。

結局一択なのか、私に拒否権はないのか、と思いながら母を睨んでも、あっさり目を反らされた。反抗さえ許してもらえないようだ。

「私の年末年始…」
「社会に貢献してきなさい」

もっともらしいことを言っているが、千里にとってはこの上なく酷い話だった。

-Le cantique du diable-

そして時がたつのはあっという間だった。

気付けば塾のアルバイトは年末年始の休みに入り、カレンダーの日付も年で最後の日になった。

叔父の家に荷物を置き、千里は隣の敷地内にある中規模の神社へと足を運んだ。

寒さを極端に嫌う千里にとっては、この時期の寒さは本当に耐えがたいものである。北風なんてこの世からなくなってしまえと思いつつ、着替え用の袋が風でバサバサと揺られる音を耳に入れて溜息をついた。


周りでは出店の準備をしている人がほとんどで、境内にはまだ参拝客はいない。
これから増えるであろう人々―――特に年と日付が変わる前から並ぶ人々の精神の気が知れないと千里は冷めた思考で感じていた。

新年と同時に祈ることがそれだけ大事か?それで風邪を引くかもしれなくても?千里にはなかなか理解できない考え方だった。

かといって、信仰心がないわけではない。一般程度に“神様”というものを信じてはいる。
ただ、神に祈りを捧げようとも、その効果を得ていると実感することはあるのだろうか。

「千里ちゃん!」
「おじさん…」

賽銭箱の前という分かりやすい待ち合わせ場所の前に叔父はいた。彼は既に、というかいつも着ている青袴だった。水色に近いその袴だけだといつも他の男性と間違えてしまう。

「ごめんね、無理矢理妹が頼んじゃったみたいで…」
「いいんですよ、困ってるときはお互い様ですから」

妹、つまり千里の母とは対極のような性格のこの叔父は、申し訳なさそうに謝ってくれた。そんな彼も幼いころは母に振り回されてきたのだろう。
自由人である彼女に振り回される苦労を知っている千里は怒る気にはなれず、やはり苦笑して当たり障りのない言葉を返すことしかできなかった。

「それにしても千里ちゃんはいつも澄んだ雰囲気だよね。巫女としてここに就職してくれればよかったのに」
「私なんか、ただの冷めた人間ですよ」

澄んだ雰囲気とは何だろう。
この場に来るたびに言われるのだが、千里には訳がわからなかった。亡くなってしまった先代の神主である祖父もそのように言っていた。

神社の系統を汲む家とはいえ、千里にはよく言う“霊感”とやらはない。

友達が金縛りにあっただの、今日は何人の見えないお友達に遭っただの、そういった話は聴くことはあったが、自分には起こったことがない。
金縛りかと思えば、ただ足を攣っただけというのはよくある話だ。


自分は普通に人生を過ごしてきた。
平均より少し上の公立高校に、平均よりは上の普通の四大に通っている、本当にどこにでもいるような女子大生だ。

「千里ちゃん、寒いの嫌いなのにね…わざわざありがとう」
「いいえ」
「給料は他の人よりちょっと高くしとくから許してね」

彼氏と初詣とか行きたかったよね、と言われたが、これも苦笑で返した。
彼氏なんてここ数年いませんとは答えられなかった。



アルバイトの巫女さんたちが集まるところへ案内され、白衣と緋袴を渡される。
着替える前に禊だけしといてと言われて顔の表情筋が固まった。問い質したが、自分は特に氏子であるためにやらなければならないようだった。

「うう…なんで…」

早速帰りたくなった。

しかし、帰ったら母が絶対に怒ると思うと我慢一択である。

「くっそ…」

女の子らしからぬ呻きを出し、千里はせめてもの反抗、と着替え用袋に忍ばせていた着ているだけで温かくなる某ヒートなんちゃらを取り出した。
色は白だから透けて見えることはないだろう。それに胸ぐりも深い。
下にはジーンズを履く。これも温かくなる素材が含まれているらしいが千里は感じたことがない。裾から見えるとまずいため、脹脛あたりまで捲っておく。

その格好の上から白衣を身につけ、袴を履く。家が家なため、幼いころから着たりしている袴を着ることは慣れている。一人、早めに呼び出されたのは、着付けの手伝いを頼まれているに違いなかった。


夏に体重落しといて良かった、と鏡に映る自分を見て満足した。着ぶくれている様子は全く見えなかったからだ。


それでも寒いものは寒い、とやっと効きだした暖房に舌打ちしたい気分だった。