スクナとバージルに再会する数分前のことである。

千里は再びアビスに追われていた。
赤袴を脱いだものの、結局着ていた方が良いことになって身に付けてしばらくしたところへタイミング良く彼らは現れた。白くぎらついた目は、千里を逃がさないというように光っていた。彼らはあの水のようなところへ潜ることができるらしく、飛び出してきたときに鎌を投げるのだ。ヘル=ヴァンガードという骸骨と似たような鎌だった。あの鎌も、刃の部分はおどろおどろしく光っていた。

あまり休めていないために、すぐに息が切れる。脇腹も痛み始め、苦しい。

「…っ」

ちらりと後ろを見やると、ちょうど潜ろうとしている所だった。恐らく出てくる先は千里が今立っている所に違いない。立ち止まれば死んでしまう。だが、ずっと逃げていてもいつか殺されてしまうのもそう遠くない事実。

矢筒から一本矢を抜く。手汗が出そうだ。
弓を持つ左手に力を入れ、後ろ―――アビスたちの方へ身体を向けた。彼らは千里が立ち止り、自分たちの方へと身体を向けたことを不思議に感じたのか、それとも逃げるのを諦めたと見たのか、動きをめた。

―――見てなさいよ

舐めた動きをしたことを後悔させてやる、と千里は一気に弓を引いた。一気に引くと重みが増して、右手が矢から離れそうになった。しかしこれで手を離したら今度こそ死んでしまう。

一歩後ろに下がって最大まで引き絞る。

着替えたときに矢もゴムがついている部分だけを折り、先が刺さりやすいようにしてはいた。ただ、それだけ自分が何かを殺そうとしている感覚は恐くて仕方がない。ヘル=ヴァンガードは実体があってなかったようなものだったために、刺さったという感覚がなかった。だがアビスはまるで人間のような身体を持っているのだ。実体があるということは刺さった感覚も、矢が突き抜ける瞬間も分かるということなのだ。

足元からアビスが勢いよく飛び出して来て鎌で千里の首だか心臓だかを斬り裂こうと振り上げた。

驚くほどスローモーションに見えた。
構えた矢の先にアビスの心臓部分が来たと何故か確信し、右手を離した。

真っ直ぐ、近距離で時速200キロ近くになるものを避けられるわけがなかった。もともと清められているとされる破魔矢なために、アビスの体は一瞬にして消し飛んだ。
破魔矢で消滅してしまうということは、恐らく彼らは悪霊的な存在なのだろう。

今の矢には大変効果があったらしく、アビスたちは動きを止めたままであった。それをいいことに千里はさらにもう一本矢を番えた。射って、また構えて、それを数回繰り返した。
アビスがあと三体ほどになったところで、踵を返して再び走り出す。息はあがっていても、生きる為に力を振り絞る。足はまだ動く。

どこに逃げようとは考えられなかった。知らない場所であることもそうだし、周りの風景が全く変わり映えしないこともそうだった。だが、何かに引っ張られるように足を動かしていた。自分の意志ではないものに導かれている気さえしている。左手にある弓が熱を持っている。自分の手かもしれないが、それを確かめようとする余裕はない。

「…う、わあっ?!」

何かに躓き、バシャーンと大層な音を立てて顔面から水に突っ込んだ。

良いことがあるとすぐにこれだ。
千里は水のおかげでなんとか被害が最小限に食い止められた顔を擦りながら身体を起こした。怪我もないようだった。少し頬が擦れた程度で済んで良かったと思いつつ、何に引っかかったのか足元を見る。

「…何これ」

黒い何かを入れるものだった。
水で湿ってしまった紐が少し重そうだったが、金色が失われることなく輝いているように見える。重さも結構あるため、きっと良いものだろう。

自分を転ばせたものに対して「このやろう」とは思ったが、それ以上に何か「持っていなければ」という感覚があった。その感覚が何故起こったのかは説明できないが。

(…逃げなきゃ)

追われていることを思い出し、立ち上がらなければならないと足に力を入れる。

ザシュッ

「?!」

突然のことに声が出なかった。何かが切り裂かれた音と、ワンテンポ遅れてきた痛みに体を襲われて、千里は再び赤い水の中へ身を倒してしまった。周りの音が一気に遮断されて何も聴こえない。自分の心臓が早鐘で体を叩いている音と速さが尋常ではないことだけは理解できた。
そろそろと手を伸ばし、熱を持っている足の部分を確かめると、肌の上で指が滑る。「ぬるり」とよく漫画では表現されていたりするが、まさにその感触だった。恐る恐るその指を見ると、赤い、水ではないものがべったりと付着していた。

「いや…」

仕方がなく足も確認するが、目に入ったものに気を失いそうになった。
ぱっくりと赤袴とジーンズが裂け目を作り、その開いた部分から血が流れ出していた。その血は裂け目に滲み、さらに服を黒く汚している。
信じられない光景に一気に血の気が引いた。

「スパーダ…」
「血…」

相変わらずスパーダと言われても何の事だかさっぱりわからない。立ち上がろうとしても痛みで前方に体が倒れてしまう。それでも逃げなければならない。最早生存本能に体を動かされているようなものだった。
這いながら、最後まで、死ぬまであがいて―――。

そう思っていると、アビスたちの反対方向からも足音が聞こえてきた。若干焦っているような音がする。

もう駄目だ。
顔を上げ、千里はその足音の主を確認しようとした。

しかしそこには予想した化物はいない。

「……なん、で」



生命のある限り、希望はあるものだ
(ドン・キホーテ//セルバンテス)