Lumiere dans la destination


Hay un límite con la vida, la esperanza.

("Don Quixote" Miguel de Cervantes Saavedra)



Lumière dans la destination.



体力は魔力の回復に反比例している。動けたものではないはずだった。
バージルはスクナと共に走っていた。こうして走るのは意外と疲れることに気がついた。魔力がほとんどない今、彼はただの人間も同然である。スクナは千里のときのように加減をしないで走っているようだし、男には容赦なしかと心の片隅で薄ら考える。

特に会話もなく(というか犬と会話など難しい)、案内するようにスクナが走って行く方向へと自分も向かう。一面赤い世界でよく方向を定めることができるのか不思議でならなかった。犬の嗅覚は人間とは比べ物にならないほど良いとは聞くものの、水など匂いを消してしまうものでも果たしてそれは働くのかと感心した。


しばらく走り続け、一際大きな場所に出た。
冥府の中でもかなり大きな墓地のようになっている場所に彼女が這っていた。足を抑えるようにしているところを見ると、アビスの鎌に裂かれたのだろう。赤い水が滲みてピンクになっている白衣にも、明らかに水ではない赤い部分があった。

バージルは無言で近づいた。
近くに来ると、彼女の苦しそうな息が耳に届いた。かなりの距離を走ったのか、それとも怪我や緊張で苦しいのか、どちらにもとれそうな様子だった。
彼女の持っていた矢筒を見ても、自分が出会った頃よりも本数は減っていた。残りは3本。

アビスはまだあと数体残っている。何体に追われたのか見当もつかない。ただ普通の人間がここまで悪魔、それも割と強めのアビスから逃げ、生き延びていることは奇跡だろう。

「……なん、で」

アビスとは逆の方向から聞こえてくる音に彼女が絶望的な目を向けたが、その音の正体を見ると目を見開いた。

逃がしたはずのスクナが男を連れて自分に追いついたのだから、それは驚くだろう。

千里の傍にスクナが行くのを見届け、バージルはアビスに目を向けた。彼女に何を話すにしても邪魔なのである。話すことなど別にないと思うが、バージルも何となく彼女に聞きたいことはあった。

幻影剣を再び出現させる。円陣にすると魔力の消費が激しいため、一本一本高速で出すことにした。それでも魔力を使うことに変わりはないが、円陣よりはまだ軽いものだ。

アビスが鎌を振り上げる余裕も与えずに、バージルは冷徹な表情のまま幻影剣を刺し続けた。一体、また一体とアビスたちは足元の水へ還って逝く。二度と還られてたまるかという思いはもちろん口にしない。

最後の一体を倒すと同時にガクリと膝が崩れた。水が大きく跳ねる音がし、そして息切れも激しい。ここまで疲れるとは予想できなかった。ハアハアと呼吸に合わせて肩が上下する。こんな体たらくをダンテが見たら何と言うだろうか。「ざまあねえな」か、それとも「助けてやろうかオニイチャン?」か。いずれにせよ、完全に思い出せる弟の記憶はあの頃のものばかりだ。

「大丈夫…?」

彼女がスクナと共に寄って来た。
膝をついて下を向いたまま息を整えようとするバージルと目線を合わせようと、彼女も水の中に躊躇いなくしゃがみ込んだ。
覗き込んでくる彼女の瞳は初めてちゃんと見た気がした。彼女は言うまでもなく、バージルが熱望していた東端の島国の民族衣装を身にまとっていることから、日本人だと言うことは何となくわかっていた。目が合った彼女の瞳は黒だった。髪もそれとお揃いのような黒色をしている。今は後ろでまとめてはいるみたいだが、結構な長さがあるらしい。ただ、先ほどまでの散々な戦闘のせいで乱れてもいる。
彼女たち民族の目を“黒曜石”と称する人間がいるのも確かであるし、バージルも実際に見てみると、確かに言いえて妙だと感じた。涙を溜めているわけではないのに、濡れた瞳をしている。乾きがこない純度の高いインクのような艶やかさがあった。

ふいに彼女の手がバージルの左頬に伸びた。ハッとして払おうと思っても身体が言うことをきかない。優しい手つきでそっと親指の腹で擦られた。ザリザリと肌の上を細かい欠片がこそぎとられる感覚だった。

「…怪我じゃなかったなら良かった」

確かにこんな暗い中では薄い赤も血に見えるだろう。それでもバージルにとっては拍子抜けな一言だった。ほっと肩を下ろした彼女が、少し困ったような笑顔を見せた。

明らかに彼女の方が怪我の具合は良くないのではないか?

そう思うと手は自然と動くらしい、バージルの手は思うことを先取りするかのように彼女の民族衣装の合わせ目に伸びた。ぐっと開くと、バージルのしていることがやっと理解できたのか、彼女の顔が一瞬で真っ赤になった。

「な、何?!何ですか?!!」
「お前の方がよっぽど酷い怪我だろう」
「大丈夫ですから!!」

下にはTシャツが二枚も重ねられていた。知識としてあった着物とは違うとバージルはほんの少しのショックを感じながらも安堵の息をついた。着こんでいたおかげで、彼女が言うとおり大丈夫だったらしい。胸元に一閃に切られている部分があったが、薄皮一枚といった程度だった。
それでは、白衣についている血は一体何なのかと睨むように彼女を見た。

「あ、あの」
「足だ」
「え?」
「足を見せろと言っている」

言うが早いか、バージルは彼女の赤袴の裾を捲り上げた。ぎゃあと色気の欠片もない悲鳴を上げられるが知ったことではない。以前本などで見たものよりも裾が短く、ギザギザに破られているところから、彼女が手を加えたことは明らかだった。
ほっそりとした脹脛から足首にかけて、大きい切り傷が出てきた。

「…った…」
「………」

今になって痛みが出たのか、彼女は顔を顰めた。心なしか顔色も良くないように見える。
どれほど血を流したのかはわからないが、とりあえず血は止まっているのか見ようとして指をそっと滑らせた。なけなしの魔力をさりげなく送ったことで、少し流れていた血が止まった。

「…そう深くはない。運が良かったな」
「十分悪いわ」

こんな世界に落ちて、運が良いも何もない。
険しい表情を崩さずに彼女は言った。それもそうだとバージルは心の中で納得した。

そしてふと彼女の足元に目をやった。彼女が持っていた弓以外にもう一つ何かが置いてあった。目に捉えた瞬間、心臓が跳ねる。

黒く細い、気高さを感じさせる金の紐―――今まで生きてきた中で最も大きな驚愕だったかもしれない。
バージルの手がそろりと伸びた。

見間違うはずがなかった。

「―――閻魔刀」
「…え?」

スパーダが遺した刀のうちの一振りである。
本体の部分はこの数年のうちに行方がわからなくなっていた。バージルは操られていたであろう期間に閻魔刀を使用した覚えはなかったし、使用することを頭のどこかで拒否していた。あれは、自らの意思、スパーダの誇りを持って使用すべき刀なのだ。
それを、何故彼女が持っているのか、信じられない気持ちしかなかった。

尋ねてしまわなければと思うが、視界が真っ暗になる。明らかに身体が回復を欲している―――魔力が底をついた。彼女の怪我に多少の魔力を送って傷を軽くしてしまったことがいけなかったのかもしれない。

「え、どうしたの?!」

目の前の彼女が慌てて自分に手を伸ばすのが見えた。