「あなたはどうしてここにいるの?」

先ほど会った奇妙な女の言葉がバージルの中で蘇った。彼女はどう考えても人間だった。それも何も知らない、迷い込んだ人間。

どうやって魔界に来たのかは分からないが、悪魔の存在さえ知らなかったのだから、それだけ安全な中で過ごしてきたのだろう。世の中にはまだまだ悪魔の存在を知らない人間は多い。
父、スパーダのことは知っていても、その伝説は2000年も前の出来事のことであり、信じている人間もそう多くはないだろうとバージルは考えていた。スパーダは悪魔だったが、人間の味方であったと。そういう神話などは見かけるが、大抵は信憑性に欠けているものだ。息子であるバージルでさえも、中には信じられない伝説もある。


しかし彼女の言葉はバージルの心に突き刺さった。

そう、何故自分は魔界のこの冥府にいるのか。自分でさえも理解ができなかった。

数日だか数週間だかは覚えていないが、ダンテに会った。対峙したのは自分が魔界に落ちたとき―――つまりテメンニグルで魔界を開いたとき―――のため、既に数年は経過しているはずだ。

バージルは魔帝ムンドゥスに敗れた後は操られていた。その後のことはついこの間のダンテとの戦闘までほとんど覚えていない。意識がなかったと言って良い。
胸元にアミュレットがなく、かつ魔帝が倒され魔界が再び閉じられたのを見ると、ダンテはどうやらフォースエッジの封印を解き、魔帝に勝利を上げたようだった。
いつの間にか正しい強さを手に入れていた弟。ダンテは父の力を正しい方向から受け継いでいたのだろう。

そんな弟に最期に斬られるのなら悪くないと操られた中でも思った記憶がある。だが、そのまま死ぬことは叶わず、こうして冥府に墜ちて彷徨う状態になってしまった。

数年に及ぶ魔帝の支配の所為で身体はボロボロであった。思った以上に身体が疲れていて、動かすことも正直しんどいというところだった。

しかも閻魔刀は手元にない。
父から受け継いだ唯一の武器であったが、ムンドゥスに挑んだ際に鞘は投げてしまった。そして本体の方は行方が全く思い出せない。
ダンテと戦ったときは使わなかったような気がしているが、正直なところ本当に思い出せなかった。



自分に対して嘲笑が浮かぶ。
力も手に入れられず、魔帝に敗し、そして何とか生きながらえている無様な姿。
力のみを求めた者の末路というものなのかもしれない。


それでも、何故か彼女を助けたくなった。
身体もきつい中で、どうしても助けなければという思いがどこかにあった。何故かはわからない。

「歩いても歩いても何もないし、出口はないし、ご飯もないし、何なのよ!」
「酒もねえ、食い物もねえ、おまけに女も出て行っちまった―――」

彼女も限界だったのだろう。怒鳴られたときはうるさいと思ったけれども、どうも言動が数年前にダンテに言われたものに似通っていた。
それだからなのかもしれない。
冷酷であると思っていた、否、冷酷な悪魔でありたいと思っていた自分を根本から覆そうとする―――慈愛。
テメンニグルからダンテを逃がしたときと同じ想いが心のどこかにあったのかもしれない。

ぎゅっと小さな手ですがるように弓を持つ彼女、震えながらも気丈に矢を取り出し構える彼女。
思わずアビスたちに幻影剣を使っていた。
全て消し去った後にバージルの視界はぐらりと揺れた。まだ魔力の回復ができていないようだった。彼女にそれを悟らせまいと平気な顔をしていた。何となく彼女は気付いていたみたいだが、バージルのことを考えてなのか、聞いてくることはなかった。

一緒に魔界に落ちてきたという白い犬を連れていた。どうも双子の犬らしいが、もう一匹とは落ちる途中にはぐれてしまったらしい。大人しい犬だというのがバージルの中での第一印象だった。
レッドオーブが乾いて欠片となって身体に張り付いてしまっている。もともとはかなり真っ白な美しい毛並みなのだろう。賢そうで品が良い顔付きだった。兄であるスクナといった犬には青い首輪がしてあった。

双子、兄、青―――まるで己のようだった。

幼い頃、どちらかといえば大人しく両親の言うことを聞いていた自分の姿が思い出された。ぼんやりと浮かぶ記憶の中には、元気に走り回るダンテと、それを後ろから歩いて咎めながら付いて行く自分、そして更に後ろで母が微笑んでいる光景があった。

「………遠い話だ」

今はそんなものはない。
自分は何もかも失ってしまった。

そう思っていたのに、彼女に光を見た気がした。

己を振り返らずに再び冥府を歩いて行く彼女の後姿を一瞬だけ、目を開いて見据えた。ただの人間、それも女なのに、そしてこの場は光などないのに―――メシアのような神々しさがあったような気がしたのだった。

自分も随分弱くなったものだ。


そこまで思考が辿り着いたとき、水が跳ねる音が聞こえた。その感覚は短く、走っていることが分かり、悪魔ではないと直感が告げていた。

薄く目を開くと、先ほど見送ったスクナが息を切らせながら吠えてきた。(ようにバージルには見えた。)
その傍らに、彼女はいない。


「…………何があった?」



真理を行う者は光の方に来る。
その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

(ヨハネによる福音書3-21)