もう予想はできていたというべきなのだろうか。 千里は音もなく現れたあのピンクの化け物に追われていた。時たま飛んで来る鎌をギリギリで避けられているのは奇跡に近かった。一度当たったら死んでしまうことくらいは理解しているつもりなため、火事場の馬鹿力が働いているのだろうと勝手に決めつけていた。 「…パーダ……」 「ニオウ…」 「スパーダ………」 スパーダ、という単語が細々出された声から聞きとれたが、千里には全くわからない。 恐らく人なのだろうが、覚えはない。自分の知り合いは日本人ばかりだ。外国人の友達はいないし、関わりがあったのも高校で英語を習った先生くらいなものである。 「人違いだよ…!」 振り返ると、初めに追いかけられたときよりも数が増えていた。 いたいけな女の子一人に対して何て仕打ち! 頭の中は案外まだ余裕がありそうだった。 しかし、こんなに開けた場所で多くの化け物から逃げ切ることができるのかは甚だ疑問である。あの彼からどれだけ離れたかも分からない。 袴のせいで早く走ることができず、しかし立ち止まって脱いでいる間に斬られてしまいそうで止まれない。裾を持ち上げるにも、肩に掛けている矢筒や弓が邪魔だった。 結局転ばないように必死に走ることだけに意識を集中させるしかなかった。 息はもう切れ始めている。多勢に無勢の中で自分ができることなど何もない。 「……スクナ!さっきの人の所に行きなさい!」 自分は駄目でも、スクナは逃がしたい―――それだけがフッと頭に浮かぶ。自分よりも速く走れるし、それにヒコナのこともある。兄弟が別れてしまうなんて悲し過ぎる。 それにさっきの彼ならば、スクナを嫌がることはないだろう。あの強さで守ってくれるかもしれない。 「行って!!」 もう追いつかれる、そう思うと語調も強くなる。叫ぶように千里は言った。スクナは少しビクリと体を震わせたが、千里の思いが通じたのか、走る方向を少しずつずらしていく。安心が千里の体を満たし、前を向いて先の見えない赤い世界を強く見据えることができた。 本当にスクナは良い子だ。 千里の言うことを素直に聞き入れ、時には千里が言わないことでもまるで分かっているように動いてくれることがある。 弟のヒコナはもっとやんちゃで、千里を困らせることも多いが、スクナに対して「困る」ということをした覚えはない。 双子の兄とはそういうものなのかもしれない。 二手に分かれたことは功を奏した。 追っていた化け物たちも大体半分に分かれてくれたのだ。千里の方が若干多いが、それでも数が減ったことは安心に繋がった。スクナが追いつかれることはないだろう。 別れるときに少し距離を稼げたこともあり、大きめの像の後ろに身を隠した。上がりきった息を急いで落ちつけようと深呼吸をする。奴らに聞かれないように、なるべくそっと、回数を減らしながら。肩が大きく上下し、息を吸っている途中で詰まったりもしたが、何とか変な声も出さずに済んだ。 像の上に座っては姿が見えてしまうため、水の中に座ってしまった。必死で座ったときは気付かなかったが、よくよく考えてみれば水が再び滲みてきて気持ち悪い感覚になる。 今のうちに脱ぐべきかと思い、辺りに化物がいないことをそっと確認してから袴の紐に手を掛けた。水を吸って解きにくくなっているが、必死に手を動かして結び目を解いた。しゅるりと紐同士が擦れた音がした。 「……よし」 足を抜き取り、下に忍んで履いていたジーンズが姿を現した。こちらも水を吸ったために黒に変色してしまっている。本当はごく普通の少し暗い色のジーンズだったのだが、仕方がない。 袴を小さく畳み、置いていくべきか持ち歩くべきか迷う。置いていけば居場所がばれるし、かといって持ち歩くには邪魔になる。 上の白衣を脱ぐつもりはなかった。脱いでしまえば、肌が出る部分が多くなってしまう。だが袴を履いていないのなら白衣はだらりと上着のようになってしまうだけで意味がない。(それに外に出してしまうと丈が長い) 「…………着るべき?」 袴を着ると動きにくくなる。 白衣まで脱がないと動きにくいことに変わりはない。 どうすべきか本当に迷ってしまう。 万が一、正面から斬られたら、Tシャツだけだと絶対に死ぬ確率は高くなる。といっても白衣を着ていても斬られたら終わりなのだろうけれど。気持ちの問題かもしれない。 仕方がない。着るしかなかった。 濡れたものを再び身につける気持ち悪さは金輪際ごめんだと思いながら、結局水を吸って重くなってしまった袴を着た。紐はきつめに結び、そして丈を少し短くしようと手を掛けた。破こうという考えである。 「……ごめん、おじさん!」 固くて手では切ることができないため、一本矢を折りその割れて尖った先で切り目を入れた。そこから指を入れて思い切り引っ張ると、ビリビリと虚しい音が響いて袴は破けた。両足で長さが若干違ってしまったが、これも緊急事態だから仕方がないとこじつける。 立ち上がって見ると、破れた裾からジーンズが覗くという変な格好になっていた。思わず失笑してしまう。 足袋と草履は仕方ないので履いたままにしておく。裸足で走るよりはまだいいだろう。滑らないことを祈るだけだった。 → |