今は何時だろうか。
これまた内緒で付けていた腕時計は、あの赤い水の中で時を止めてしまった。故に何時かはわからない。この場所もずっと暗いままなために余計に時間間隔が狂う。

それでも腹時計は正確らしい。
ぐう、と緊張感のない音が腹から響き、千里は歩みを止めた。それに付いてスクナもぴたりと歩くことを止めて千里を見上げている。

「お腹空いた?スクナ」
「ワン」

結構歩き回ったし、どこまで行っても景色は同じだし、もう嫌になっちゃったよと言いながらその辺の崩れた像の上にお邪魔することにした。そうでもしないと乾いてきた服がまた濡れてしまう。

「ヒコナどこに行っちゃったのかな。無事だといいね」

隣に伏せたスクナの赤い水で少し固まってしまった毛並みを撫でる。梳いているとでも言うべきか、指を滑らせる度にパラパラと紅い欠片が落ちる。
未だにぐうぐうと鳴る腹はどれだけ空気が読めないのだろう。一発殴ってみても、鳴りやまない。

―――今頃、神社はどうなっているんだろう。

千里がいなくなったことに気付いている人はいるのだろうか。それとも、そのままもう年を越してしまったのだろうか。家族には巫女のアルバイトが終わるのは午後6時頃だと伝えているから、その時間まで帰って来なくても不審に思うことは全くないだろう。
神社の崩れた石段などもどうなっているのか全く予想できない。もしかしたら参拝どころではなくなっているのかもしれない。

膝を抱えて頭を膝頭に押し付けた。水を一度吸ってしまったものだからなのか、表現し難い臭いがついている。それでも顔を上げる気にはなれなかった。

「なんで……」

訳の分からない化け物に襲われて、
訳の分からない場所に落とされて、
見つかりそうにない出口を探して、

「………疲れた…」

もしかしたら今頃はもうお正月のごちそうを食べていた時間かもしれない。お年玉はもうもらえるような年齢ではないけれど、初売りに行って福袋を買っていたかもしれない。
哀しすぎる年末年始になったことを恨みたいくらいだった。

スクナが握りしめた千里の手を舐めてくれる。これでスクナがいなかったら、もう全てを投げ出してその場に留まっていた。

「……がんばるしかない」

ここに来たのだから、きっと出口もある。
そう信じて歩くことにした。早く外に出て、今のことは全て夢だと思いたかった。



歩きはじめてすぐにスクナが千里の前を歩きだした。今までは隣にいたのだが、何か感じることがあったのか、千里は不思議に思った。

「どうかした?」

千里が周りを見る限りでは何もないようだった。だが人間よりも嗅覚に優れた犬は探索やら何やらが得意なのだ。
どことも同じに見える赤い水の匂いをたどっているようで、下を向いたままスクナは迷うことなく進んでいく。

(誰かいるのかな)

こんな不気味な所にいるのだから、きっとすごいヤツに違いない。誰がわざわざ好んでこんな場所に来るだろう。

スクナの後ろをついていくこと5分。
千里の目にも今までとは違う光景が飛び込んできた。

崩れた柱に体をもたれさせた人影があった。

(―――人だ!!)

どのくらい時間がたったのかはわからないが、かなりの時間を歩いたと自負している千里には、その人が救世主のように思えた。例え、その人が何もできなかったとしても、いてくれるだけで気持ちは安らぐ。

走り出したことで足に跳ねあげられた水滴が頬にぶつかる。スクナも走り出し、一人と一匹の水との接触の音は大きく響いた。


「す、すいません………あれ」
「ワン」
「あれ…寝て、る…?」

声を掛けてみるものの返事が返って来ない。こんなところで寝ているなんてさっきの自分みたいじゃないかと思いながらしゃがんでその人物の顔を覗き込んだ。

「…………っ」

なんて綺麗な人なのだろう。

それが第一印象だった。顔のあちこちに傷や血のようなものがついているが、白い肌にすっと通った鼻筋、彫りの深い顔立ちなのは見て明らかだ。固く閉じられているが恐らく切れ長の目であろう。前髪が少し崩れて額に影を作っている。あとの髪はボサボサになりながらも綺麗に後ろへ撫でつけられている。

お人形さんではないだろうかと思ってしまうような造形美に、顔に熱が集まる。綺麗な人を見たら誰だって顔が赤くなるに違いない。近くにいてごめんなさいと意味もなく謝ってしまいそうだ。

「あの……」
「何だ貴様は」
「ひっ?!」

大丈夫ですかと問おうとしたら、突然美丈夫の目が開き、ギッと睨みつけられた。やはり切れ長の美しい蒼い瞳だった。ただ目を開いただけなはずであるのに、迫力は十分だった。下手に触ったら噛みつかれるどころか殺されそうな空気だった。

「……ここは、どこですか」
「…魔界だが」
「魔界?!」

何それ、と思わず間抜けに口が開いた。開いた口が塞らないとはこのことだろう。

銀髪の美丈夫は千里の驚き様に眉間に皺を寄せた。うるさかったのだろう。
どう見てもいつもニコニコしているタイプには見えないし、言葉も棘棘しく、千里を拒絶している節があるように感じられた。

「魔界って…」
「……人間の癖にどうやってここに迷い込んだ」

―――どうやって?そんなのこっちが聞きたい。

「知らない…目が覚めたらここに…」
「知らぬわけがない。ここには特別な方法でしか来れないはずだ」
「知らないものは知らない!歩いても歩いても何もないし、出口はないし、ご飯もないし、何なのよ!」

ああ、ただの八つ当たりだ、と思っても次から次に言葉が飛び出てくる。今まで溜まっていたストレスなのかもしれない。
美丈夫は一気にまくしたてた千里にうざったそうな視線を投げつけるだけだった。言い返してくれればいいのに、こう黙られて咎めるような視線をぶつけられる方がよっぽど痛い。それを分かってやっているのかもしれないが。

「出口はない」
「え…」
「魔界は閉じているものだ。出口などない」
「何よさっきから魔界魔界って…」
「魔界も知らんのか」

流石に少しは驚いたらしい。ぴくりと彼の性格を象徴するようなきつい眉が動いた。

「それに、さっきの鎌を振り回す骸骨だって一体何なの?あなたは知ってそうだけど」
「…ヘル=ヴァンガード…」

名前言われたって分からないしと思いながら千里はこれからどうしようかと考え始めた。

もらった情報を少し整理してみる。
まず、自分を非日常へ追い込んだあの骸骨はヘル=ヴァンガードらしい。よく分からないのでそれはそれで置いておく。そしてここは“魔界”である。普段から閉じているらしく、出口はない。自分はそれをどうにかこじ開けて入ってきたというところか。

千里の頭がそこまで整理したところで、ぞくりと骸骨と対峙したときに感じた悪寒が体を駆け巡った。
振り返れば、そこにはピンクの体に赤が斑に入った鎌を持つ化け物が三体。先ほどの骸骨とは全く違ったものだった。鎌の先も赤い。

「な、な、なに?!」
「………」

銀髪美丈夫は座ったまま慌てる様子がなかった。千里はその様子に引っ張られるようにドキドキと煩くなっていた鼓動が落ち着く気がした。
手にある弓を握り締め、体の前にそっと持ってくる。自然と右半身を引く。そのまま矢を一本抜き取る。

スクナも体の前方に重心をかけて、いつでも飛び出せるような体勢になっている。

赤い化け物が鎌を振り被ると、その瞬間に体の周りに青い剣が円を作った。囲むように突然生まれた剣を見て千里は目を丸くした。
そのまま一本一本がピンクの体を順に貫く。そのたびに体から赤い血を飛び散らせ、化け物は叫び声を上げる。あまりの大きさに耳を塞ぎたくなった。

「…遊びにもならん」

ぼそりと呟かれた言葉は、ぞっとするくらいに感情が籠もっていなかった。