コッチよ、そしてあの角を曲がったら直ぐなの、と説明しながら二人並んで歩いて。道案内して自分の部屋へ人を招くって、何だか照れくさいなぁ、なんて思ったりした。
途中で購入した、カレー粉とその他ちょっとした食材の入ったスーパーのビニール袋。大して重い物でもないのに、私の手から攫って持ってくれているトシ。へぇ−、案外良い所じゃねぇか、近くに店も色々あるし、と、さり気に四方を観察し品定めする彼は、まるでお母さんみたいで、私はついつい笑ってしまった。
そんな私を不可解に思った彼から、何だよ、と問われ、だって面白いんだもの、と其れを言えば、当然の事ながら煩ェよと怒られた。
「女の一人暮らしでも安全そうで安心した」
「あはっ、やっぱりお母さんだ」
「だから違ェって。―まぁ。となれば、不安要素はあの隣人だけだな。」
「ん?」
「アイツだよアイツ。言わずと知れた、」
「坂田さん。」
「あ−名前聞くだけでも不愉快だ」
チッと、小さく舌打ちした。
どうしてそんなに毛嫌いするの?と問うも、あんなチャランポランと仲良くなんざなれると思うか?俺が。と、逆に質問が返ってきた。
「でも、毎日揉めたり喧嘩したりしてた総悟とだって、何だかんだで仲良かったのに」
「アレは仲が良いとは言わねェ」
「え−、ずっと戯れてたじゃない。私より一緒にいる時間長かったよ」
「名前との方が長ぇよ。つ−か総悟の奴が勝手に絡んで来てただけだろ」
いや、絡むってより嫌がらせだ全部。と、その頃のあれやこれやを思い浮かべてか、怒りとうんざりが交ざった表情を浮かべた。確かに色々な仕打ちを受けて来たんだ。日頃の小さなものからちょっと口に出すのは可哀相な事まで、私もそんなトシをたくさん見てきたし、その度にまぁまぁと宥めてた。
でも、総悟は勿論、怒りながらも何だかんだでトシだって楽しそうにしてたと、私はそう思う。高校生活、私達、いつも三人で居たよね。何だか酷く懐かしい。
「総悟、元気かなぁ。」
頬を撫でていく夕方の風は心地良い。
暮れ始めた空、ほんのり赤く染まった流れる雲を眺めながら呟けば、
「もう良い。」
たった一言、短く返って来た。
「え?」
その一言がどんな意味を孕んでいるのか良く解らなくて。隣の彼に視線を移す。
ジッと音をさせ、いつの間にか銜えていた煙草へ火を点けたトシは、軽く、フゥと吐き出し、「聞きたくねー」と言った。
「トシ?」
「アホ名前。」
「? 何が?」
理由が解らぬまま、でも脳内では、何だか今日はトシから馬鹿や阿呆と言われてばかりだなぁ、なんて、悠長な事を考えていた。
「名前の口から男の名前ばっか聞きたくねんだよバーカ」
何を言い出すかと思えば。
それをいう顔は決して此方には向けずに。
煙草を吸う姿は格好良いのに、少しだけ覗く赤く染まる頬はとても可愛くて、私は思わず微笑を浮かべてしまう。そんな私を見て、笑ってんじゃねェと言うトシに、私は、ふふっと微笑みを返し。
歩き煙草はいけないんだぞ−と言えば、誰も見てねぇよと言いながらも消した。
――そして彼は、不意に腕を掴み、私を引き寄せ。
予期せぬ事態に混乱したが、でも、閉じ込められたこの腕の中、私は此処を知っている。
「ちょ、トシ。何意気なり。恥ずかし」
「だから、誰も見てねぇよ。…。でも、ルール違反、御免な。」
確かに、あの時交わした約束に反するこの行為。でも、抵抗出来なかった。只、顔は見れずに、俯き。より一層力の籠もる、彼の腕。
「名前は忘れてんのかもしんね−けど、」
「…」
「俺ァ、諦めたつもりはねぇからな。」
私の頭に、唇を付けるように。そして、背中に回す左手はそのままに、右手で髪を梳く。優しく、優しく、頭を撫でるんだ。この仕草に、私はいつも、想われているんだ、大切にされているんだと、この上ない安らぎを与えられていた。そしてきっと、その右手は、私の顎に手を掛けて上を向かせる。
―そう、こんなふうに。
でも、あの頃なら、貴方は自信に溢れるような、勝気のある表情を浮かべていた。ちょっと照れ臭そうに。今私の目の前にあるそれがそうでないのは、そんな切な気で申し訳なさそうな顔をするのは…。
「―ちょっと、待って、トシ、」
「…」
「駄目だよ。私、やっぱり、」
「―…待たねぇ。」
ゆっくり近付いてくる影に、顔を背けようとしながら固く目を閉じ、自分の罪を思った。
結局私の我が儘。純粋な愛情が更にそれを自覚させ、苦しかった。逃げ続けるだけの自分が心底嫌になる。一体、私はどうしたいのだろう。その時、あの人の笑顔が、微かに脳裏を掠めた。
「はいはいストーップ。」
「!」
「!」
突然訪れたその声が耳に届くと同時に、私の口元が大きな掌で塞がれたと思えば、ぐい、と強く肩を引かれ、身体をトシから剥ぎ取られ。よろめいた私の背中がぶつかったその人は微動だにせず、今度は、違う、私の知らない片腕の中。
「な−にやってんのォ?多串クン」
「て、テメェこそ、何で此処に居やがる」
「俺ァ帰宅途中に婦女暴行現場を目撃しちまっただけだ。」
「邪魔だ。消えろ。」
「お前が消えろ犯罪者。嫌がってんのに無理矢理チューしようとしやがって。」
「何一部始終傍観してんだっテメェの方がよっぽど犯罪者だろ」
「うっせぇよ。助けに入るタイミング次第で名前が俺に靡くかもしんね−だろうが」
「人をだしに使ってんじゃねェっ」
頭上で繰り広げられる口論。
何がどうなってるのか、いまいち把握に欠けていたが、追い付かない頭でも、これは、取り敢えず助かったのだろうか。なんて単純に考えながらも、更に傷つけてしまったのではと、ぼんやりと、思っていた。
が、段々と、息が苦しい。もう、未だ続いている口論すら聞こえない。
口元を塞ぐ手を力任せに外し、夢中で空気を肺一杯に吸い込んだ。
「あ、貴方、何、するんですかっ。息出来な、」
肩を上下させ呼吸を整えながら、後方から私を捕らえていた主の方へ顔をあげた。
「あ?あぁ悪ィ悪ィ。とにかく唇死守しね−と…。ってお前、何かその顔エロ…。」
「ハイ?」
坂田さんは、くるりと、私を向かい合わせれば、
「あのよォ、さっきの続き俺と…」
なんて、頬へ手を添えるから、
「ふざけた事ぬかしてんじゃねェっ!」
トシの持っていた荷物が顔面にクリーンヒットした。
「そんな奴ほっといて。行くぞ、名前」
「あ、うん。」
先に歩き出したトシを小走りに追い掛けながらチラリと後方を伺えば、痛ェ、と擦りながらも、ふ、と微笑を洩らす坂田さんが見えた。
もしかしてあの人、わざと…。
「―…。名前、済まねェ。」
ボソリと、隣に並んだトシが言う。
「俺やっぱ今日、帰…」
そう言うと思った。だから私はトシの手を取った。
「お腹空いたね−。そう言えばお昼半端だったんだもん」
貴方は優しいから、
きっと、私を傷付けたなんて要らない心配して、
本当は、誰より傷だらけなのに、それでも貴方は自分でない他の誰かの傷を思ってひとり悩むんだ。きっと、坂田さんもそれを見越してた。
「美味しい夕飯、作るからね。」
寧ろ、誤りたいのは私。
大丈夫よ、気にしないで、って、本当にごめんねって。この繋いだ手から伝われば良いのに。
優しく表情を緩める、隣に居てくれる彼に、救われているのは私の方だった。
「あ−、ホント腹減った−。名前、いちご牛乳まだあったっけ」
後方から届いた声に、確か、あとひとつあったと、まで言い掛けたところで、「自分で買いに走れや。そして付いてくるな」と言ったトシは、もう普段のトシに戻っていた。
「ああ?コッチは俺ん家なんだよお前こそ来んな。名前との至福の一時を邪魔すんじゃねェ」
「テメェと二人きりになんてさせられっかよ」
「オメーの方が危険じゃね−か」
「うるっせ−んだよどっか行け」
「お前が行け」
「いやお前が行け」
「いやいやお前が行け」
子供のような口論が続く。
後方の彼は一定の距離を保ったまま、同じ場所を目指し歩き出す私達。まぁまぁ、と宥めながらも、収拾のつかないこの現状を、私は何処か懐かしくも感じながら。
気付けば周囲は夕暮れを迎えていた。
それは理想論にすぎないことなど、承知の上で
(空の底で藻掻くような矛盾と、重ねていく罪)
090818 憂安