「よぉ、名前」
学内で顔を会わせる事なんてそう不思議な事でもないし初めてという訳でも勿論ない。
「…っ、トシ、」
「おお」
「あ、…元気?私今日はもう終わりで、今から帰るよ−」
「そうか。名前、時間平気なら付き合えよ」
「ごめん、私ちょっと…じゃまた」
背中に名前を呼ぶ声を感じたが、そのまま小走りして逃げたという表現が何より相応しいと思った。今は、今だけはなんだかトシの顔は見れない気がした。怒られるから?違う。どちらかというと根拠もない罪悪感のような、それさえも何か違っているような気がして。
ふと見上げた空は今日もとても青く、残り少ない夏をこれでもかというくらいに主張していた。
あの日、微睡みの中で感じた微かな違和感にそっと重い目蓋を持ち上げれば目の前には昨日の彼の広い胸。驚き肩を揺らした私はとにかく離れようと藻掻いてみたけれど、背中に回された腕も私の上に乗せられている脚も微動だにしなかった。ただ、打つ手がなくなった私がそっと見上げ覗き見たその寝顔は凄く可愛くて、起こさないよう此処を抜け出そうと注意を払いながら彼の腕を潜り抜け上半身を起こしたその時。
「ん…、名前」
呼ばれたそれに覚醒したかと思いきや、どうやら寝言だったらしい。でも、
「―…脱げよ、ホラ…」
「なっ、なんて夢みてるんですかっ!」
「んがっ、おわっ!」
彼の枕を引き抜きそれを思いっきり顔に叩きつけてやった。
「大体どうして私ベッドなんかに…」
慌てて離れ背を向ければそれなりに髪を整えてみたりする私に、そんなとこで寝られて風邪引かれても困るしよォ、つ−か、俺も寒かったし、と頭を掻く彼。体調は?と振り返ったけど、そういや平気だな、と自分の額に手を当てる彼は昨夜より幾分マシに見えた。
「それなら良かった…、じゃあ、私戻りますから」
「名前、」
「?」
立ち上がろうとした私はベッド脇に腰掛けた彼が伸ばした手に腕を捕まれ、バランスを崩しそのまま。
「…わっ」
「―…」
驚いたその時には抱き締められていて、首筋に感じる吐息にすら麻痺させられるようで。本当なら突き飛ばしたいし言ってやりたいことも沢山あるのに、でもこんなふうに力強く腕を閉じられるのは初めてで。
「…チクショ−。」
「……?」
「覚めて欲しくなかったなァあの夢」
これには流石に馬鹿!と声を荒げたけれど、名前ぎゅ−…と言いながら力を込め甘えられるこれに嫌な気はしなかった。
思い浮べた回想で顔を赤くしてる自分に気付けば一人取り乱しながらも自分を戒める。本当に何やってんの。でも、彼の存在の大きさに毎度参ってしまってるのは事実で。
彼にとっては挨拶のハグなのかな、そうだ、そういう事にしておこう単なるスキンシップだ、なんて、何処に向かってなのか分からない弁解や慰めの類を準備しながらも、今日の夕飯は何にしようかなだとか考えるそういう普遍な毎日を、私はとても満足しているように思った。その反面、前に進めずにいる自分に、昔と何も変わっていないと焦燥感を抱いた。
「名前。」
突然後方から呼び掛けられた声に、悲鳴が漏れた。
「うわ、何で叫ぶんだよ」
「ご、ごめ、」
振り返った其処で目を丸くしていたのは先刻背を向けた彼で、いや驚かせてごめんなと優しく言うトシに、私こそごめんと、終わりないごめんの繰り返し。
「何つ−か、お前がなんか変だったからさ」
気になって、と頭を掻く姿を見ると、何だか苦しくなった。
「ううん。…どうもしないよ」
「お前、ホント嘘下手過ぎ」
本当に驚く程に的を得たそれに、あはは、と愛想笑いを浮かべ歩きだせば、彼もまた当然のように足を進める。
以前も思った。
ごく当たり前の事のように、彼の隣を歩くこれは私にとって安らぎであると。
なのに、今日は、今だけは心が苦しかった。
そんな時、あのさ、と切り出されたそれに、いやな予感がした。
「名前はそうじゃねぇかもしれねぇけどよ。俺にとっちゃ、やっぱ、「やめて」
「……聞けよ。」
「聞かない……、」
「聞けって。」
「やだ。」
「ああ?」
一変してピリピリとしたぎこちない空気が漂った。
―――どうしてこんなに苦しいのだろう。此処がどうして、酷く居心地が悪いのだろう。
「お前が気になって、心配して、そんなに悪いのかよ」
何時もの帰路が、普段と何の代わりもないはずのこの夏の終わりの空気が、酷く息苦しかった。
「…、」
「言えよ。」
「え?」
「もう関わるな、構うなって言えば良いだろ。俺の事なんか別に何とも思ってねぇって、」
「そんな事思ってもな「だったら!」
遮られたそれに歩みが止まった。足元が揺らついて、視界が定まらない気がした。
「だったら隠すな。何でも話せば良い。俺は、ただ、お前が」
掴まれた腕が、その大きな手の熱が
「名前、」
私を呼ぶその声が
「今も昔も変らねぇ」
全てを包み込んでくれる温もりが
「俺は名前が好きだ。」
苦しかった。
ただ瞠目したまま動けない私を、そのまま力任せに抱き締める彼は、いつもの私を思いやる優しさばかりの彼とは違っていた。苦しいくらいのこの抱擁、全面的に全てをぶつけてきている。
「…トシ、ちょ、」
「…っ、」
不意に顎を掬われ、待ってと言う間も与えられず触れた唇。何の躊躇いもなく早急に侵入した舌に私の其れも攫われ。こんなに荒々しく彼自身を見せられるのは本当に初めてだ。
「……ん、」
「…」
ただ、抵抗する事なんて、出来なくて。
優しさというマニュアルが決壊したかのような彼、未だ自らが作り出した自分という境域に閉じ籠もる私。
荒々しかったそれが柔らかくなり、慰めるように私の頭を撫でる大きな手を感じた頃、そっと唇が離れた。彼を正面から捕える事が出来ずに只逃げていた私の視線。
「…なぁ、」
「……」
その大きな手が、そっと頬を撫で、落ちた。
「お前さ、今、堅く瞑ったその目蓋の裏で、誰を想った」
「…え」
上げた視界に映る顔を顰めたトシは今までに見たことのないくらい酷く苦しそうに見えた。
私を一人残し、彼が踵を返す直前に言ったその言葉が、何度も私の頭の中で木霊した。
私は、流れるこの涙の止め方を知らない。
「何で、
―――俺じゃ駄目なんだよ」
置き去りにしていた 傷口
(それでも笑ってくれたのは 君)
110317 憂安