うちの子の成長
「うわああああ!!」
がたっ、という騒がしい音ともに、鼓膜が破れるんじゃないかと思うほど煩い声が部室中に響いた。
それを聴いて実渕が思ったのは、また面倒くさいことに巻き込まれそう、ということだった。
現在、最終下校時刻の15分前。この時刻を過ぎるのは、1分だって許されない。
自主練で最後まで残っていたのは実渕と葉山の二人だけで、今日は用事があるからと先に学校を出た赤司に、下校時刻はしっかり守るようにと再三言われていた。尚のこと、これを無視することは出来ない。
それなのにも関わらず。
「……ちょっとあんた、急にでかい声出さないでくれる?あと着替えより先に携帯開くのやめなさいよ」
呆れを含めてそう言うが、葉山の耳にはこの声は届いていないらしい。もともと大きな目をさらに見開いて、穴があくのではと心配になるほど携帯の画面に釘付けとなっている。しかも、何故か手をわなわなと震わせて。
「ちょっと小太郎?聞いてるの?」
完全に聞こえていない様子の葉山に苛立ちを覚える。
全くこの子は何かあるとすぐ周りが見えなくなるんだから……集中力があるって言えば聞こえはいいかもしれないけど。
わざとらしく大袈裟に溜め息を吐くと、未だに前傾姿勢のまま携帯を見つめる葉山に近づき、その背中を勢いよくばしんと叩いた。
「いってえぇぇぇ?!?!」
「そりゃあ痛くしたんだから当然よ」
叩かれたところを押さえながら涙目で睨みあげてくる葉山。しかし、悪いのは葉山であり、実渕は悪くない。人の話を聞かなかったのだから、これくらいのことされて当然である。それに、葉山に睨まれたところで、せいぜい小型犬に威嚇されたのと同じようなものだ。痛くも痒くもない。
「……それで?さっき、大声で叫んでたけど……何かあったの?」
早く話を終わらせて、下校時刻までに学校を出なければ。そう思い、実渕は説明をするように促した。すると、痛みに悶えていた葉山が、思い出したようにその表情を輝かせる。……話が長くなりそうな気が……。
「そう!!レオ姉!!!聞いて聞いて!!!」
「はいはい、だから聞くって言ってるじゃない。落ち着いてさっさと話しなさいよ」
勿論そんな風に言ったって、葉山が落ち着くことはないのだけれど。
「あのね、あのね。今、俺伊月にメールしようとしたんだ!」
「あぁ、また俊ちゃんのことね」
予想はしていた。
最近、葉山は誠凛のバスケ部である伊月俊に夢中なのである。伊月絡みのことがあると、いつもこんな調子だ。騒がしいったらありゃしない。
二人が実際どんな関係なのか、実渕は詳しく知らないが、恐らく友達、というレベルのものではないのだろう。少なくとも、葉山から伊月に向けている感情は、友情、ではなく、愛情だ。
「で、なんてメール送ろうとしたの?」
「冬休みもうすぐ終わっちゃうでしょ?だから、明日伊月に会いに行くって!!」
「あんたの行動力って本当尊敬するわ……」
京都と東京、どれほどの距離があるのか、この子ちゃんとわかってるのかしら……。
思わず心配になってしまうが、さすがに日本地図がわからないような馬鹿ではない筈だ。実渕は小さく息を零した。
「そんでね!さっき、メールを送ろうと思って携帯開いたらね!!!!なんと……なんと……!!!!」
興奮からかじわじわと近づいてくる葉山に眉を顰める。
……残念ながら小太郎みたいな男に迫られても嬉しくもなんともないのよね、私の好みとは違うし。
思考を少し別のところに飛ばしていると葉山がもう一度「なんと!!」と言ってきた。はいはい、ちゃんと話聞けばいいんでしょ、わかってるわよ。
「伊月の方から先に!!!メールしてきてくれてたんだよ!!!!」
きりっ、とキメ顔で言われた言葉に、「え」と声が漏れた。
「…………それだけ?」
「え、うん、そうだよ?」
焦らした割に大したことではなくて拍子抜けしてしまう。……まあ恋する男子は些細なことにでも舞い上がってしまうものなんでしょうけどね。
が、葉山はそんな実渕の反応が不満だったのか、さらにずいっと距離をつめてきた。
「いやだって考えてみてよ?俺がメールしようと思ってたところに伊月からのメールだよ?伊月も俺と同じ気持ちってことだよね、あ〜さすが伊月と俺……まあまだメールの内容は読んでないんだけどさ、絶対『会いに来てもいいよ』とかツンデレ風に書いてあるんだろうな……」
「ちょっとあんたの言ってる意味全然理解できないけど……まああんたが幸せならそれでいいんじゃない?」
とりあえず話は終わったことだし、さっさと帰る準備を進めてもらいたい。実渕は既にほぼ帰る支度ができている。葉山待ち、ということだ。
しかし。
「ん?……ええええええ?!?!」
「うるっさいわね!!!今度は何よ?!?!」
一難去ってまた一難。どうやら帰り支度はまだ始まらないらしい。
再び葉山を見れば、さっき大声を上げた時と同じような格好で、しかし今度は悲痛な表情をしていた。
実渕の声で、葉山はその悲しげに歪められた顔をぎぎぎ、とゆっくりこちらに向けてきた。
「ど、どうしようレオ姉!!!!」
わーんと声をあげて抱きついてこようとする葉山のでこを反射的に手で押し返す。さっきも似たようなこと言ったけど、あんたに抱きつかれても嬉しくないのよ私は。
「なに、今度はどうしたのよ?」
「伊月が、伊月がぁ!!!」
……また俊ちゃんなのね。
さっきまであんなに騒いで喜んでいたというのに。今度は何があったのか。
しかし訊いても葉山からは嗚咽しか返ってこない。どうしたものかと思ったが、代わりに葉山に何かを押し付けられた。……いつも大事そうに握り締めている携帯電話だ。
これを見ればわかる、ってこと?
まあ携帯の画面を見てあんな顔になった訳だし、全てはこの携帯に書いてあると考えて間違いはないだろう。
葉山から携帯を受け取り、画面を見る。開いたまま暫く放置されたため、その画面は自動的に消灯して真っ暗になっていた。適当にボタンを押すと、ぱっと画面が明るくなり、画面に文字が映し出される。
送信元は……伊月俊。なるほど、このメールね。
間違っていないことをしっかり確認してから本文を見る、と。
「こ、これは……」
思わず口の端が引き攣った。ひくひくと頬が震える。
画面には、たった一行。絵文字や顔文字もなく、ただシンプルに一言。
『絶対東京来るなよ』
「えーっと……小太郎……?」
「レオ姉……これってさ……完全に嫌われたって奴だよね……」
長く溜め息を吐く葉山の顔は心なしか青白いように見える。よほどショックを受けているらしい。
「で、でも小太郎、あんた昨日までとかいつも通りメールしてたんでしょ?」
「え、うーん……」
「ちょっと、あんたねぇ……」
葉山の反応からして、近頃のメールのやりとりで何かがあったと予測する。
「心当たりがあるならちゃんと反省して謝るのが一番よ」
「いや、喧嘩したわけじゃないんだけどさ!んー……なんか、伊月の様子が変?というか……」
「だから、その変になった原因はなんなのか、それはわからないの?きっとあんたが何かやったんでしょ?」
そう言うと、葉山は低く唸りながら考え込んでしまった。しかし、無自覚に何かをしてしまったという可能性もあるから、葉山だけで考えていても仕方がないのかもしれない。
こういうことは、推測ばっかりしてないで、やっぱり本人とちゃんと話し合うのが一番なんだろうけど……って、なんで私がこんな真剣になって考えなきゃいけないのかしら……。
別に葉山が伊月とどうなろうと自分には全く関係がない、のだが。
……この子見てると世話焼きたくなっちゃうのは何でなのかしらね。
目の前でどうしようどうしようと青ざめている葉山を見て、思わず呆れて笑ってしまった。
「レオ姉……何笑ってんのさ……」
「あら、別に馬鹿にしてる訳じゃないのよ、勘違いしないで?」
寧ろ、あんたと俊ちゃんについて真剣に考えてるんだから褒めてくれたっていいわ。
「とにかく、まあ……そうね。電話は頻繁にするほうなのかしら?メールが多いなら、最近のメールを読み返してみるのがいいんじゃない?」
「あー、最近俺、課題とかやばくて、電話はあんまり……電話するとつい長く喋っちゃうし…………って、あ」
実渕の提案に難しい顔をしていた葉山が、突然声をあげた。ぱちくりと目を瞬かせて、宙を見ている。
そして。
「……わかったかも」
ぽつり、とまるで独り言のように呟いた。
「わかったって……俊ちゃんのこと?」
「そう!!」
ぱあっと表情を明るくした葉山は、一人で「そっかそっか、伊月がなぁ」と口元をにやけさせる。
「……ちょっと、一人で納得してないで私にも説明しなさいよ。一応相談に乗ったんだから、それくらい良いでしょ?」
「ん?いやぁ言っても構わないけど……惚気話みたくなるよ?」
「あんたからの惚気話なんてしょっちゅうじゃない。いいから話しなさいよ」
急かすように言えば、葉山はデレデレとだらしなく笑って、頬を赤らめた。ついさっきまで今にも死にそうな顔をしていた癖に……本当単純なんだから。
「ほら、伊月って、自分の思ってることとか意外と言葉に出せないっていうか……」
「え?あんたが馬鹿なことしたら、すぐにバカだって言いそうなタイプじゃない?」
「あー、それはそう、なんだけど……そこじゃなくて……その、例えば、好きだ、とか、会いたい、とかさ?」
……やっぱり二人ともそういう関係だったのね。
突然爆弾を落とされたような気もするが……これでやっと確信した。葉山が伊月のことを好きだというのは誰もが察していたけれど、まさか伊月のほうからも、とは。なんとなく予想はしていたとはいえ、少しだけ驚いてしまう。
「この冬休み、最初の方はほぼ毎日電話してたんだけどさ、一月入ってからは一回も電話できなくて……メールもそんなに出来なくて。だから、伊月、寂しかったんじゃないかな」
「それで……あのメール?」
つまり拗ねてる、ということなのか。連絡がほとんどとれなくなって、寂しくて……それで、会いに来るな、と意地を張っている、と。
まあそれはありえそうだけど……あの小太郎がここまで相手の気持ちを汲み取ることができるようになったなんて……。
「向こうから突然わざわざこんなメールが来るってことはさ、会いに来てって言ってるのと同じだよね?」
「……あんたが一番あの子のことよくわかってる筈よね。良いんじゃない?明日、会いに行けば」
「うん、そうする!!」
きらきらと眩しいほどの笑顔を向けられて、もう溜息しか出ない。
「それにしても、あんた俊ちゃんとの連絡とることより課題を優先したなんて……珍しいこともあるのね」
好きなこと、やりたいことを一番に楽しく生きてそうな葉山。課題なんて最終日に泣きながらやっていそうなのだが。
葉山は不思議そうに眉を寄せる実渕のそんな質問に無邪気に笑ってみせて。
「だって、伊月が『課題は早めに終わらせるものだろ』って言ってたからさ、見習おうかなって思って」
「……そう、なの……」
明日のことを考えているのか、頬を緩ませたままやっと帰り支度を始める葉山。いかにも浮かれている、といった様子だ。
……驚いたわ、まさか俊ちゃんの一言でここまで……。
葉山の後ろ姿を見つめながら、実渕は小さく微笑む。
……小太郎、俊ちゃんを大切にしなさいよね。