どんな時でも気を抜いたらダメです
重たい瞼を無理矢理に持ち上げると、オレンジのぼやけた蛍光灯の光がこちらを見下ろしていた。上体を起こそうと力を入れたが、まるで鉛でも乗せられているかのように身体が重い。気付けば、途中まで持ち上がった身体は重力に逆らうこともできずに、ばふっ、と音を立ててベッドへと倒れ込んでいた。
だるい……。
伊月は長いため息をついた。起き上がらない身体に無理に力を入れる気力もない。瞬きをゆっくり繰り返す。
ぼやけた視界では、天井の白と蛍光灯のオレンジの境目がはっきりとしない。伊月はベッドに全体重を委ねながら、意味もなくそれを探す。ぼんやりと光を見つめていると、突然、耳を劈くような機械音が鳴り響いた。
「んー……」
ベッドに寝転がったまま、脇に設置されているサイドテーブルへと手を伸ばす。指先に振動しているものが触れ、それを手に取る。
四時、か。
携帯の小窓にそう表示されているのを確認してから、この煩い音を鳴り止ませるため、携帯を開き、ボタンを押した。静かになった携帯を元あった場所へと戻し、再び天井を見つめる。
そうだ、今日は早く起きて出かけなきゃいけない日だった……。
今日は、大学のサークルの皆で旅行に行く日。二泊三日で温泉巡りでもしようぜ、と提案した先輩が中心となって、細かい予定などを前から決めていたのだ。別に温泉好きだというわけではなく、ただの思いつきであるのだが、皆で旅行、という響きがなんだか魅力的で、伊月も密かにこの日を楽しみにしていたのだ。しかし。
手を額にぺたりと触れさせる。じゅっ、と音が出てもおかしくないほど熱い。
「完璧風邪、だよな……」
この様子では旅行に行くことはできないだろう。伊月は深くため息をついた。楽しみにしていた分、ショックも大きい。
先輩に行けないってメール送らなきゃ……。
そう思い、昨日送られてきた『明日の最終確認』、という装飾の施された楽しげなメールから返信フォームを立ち上げて旨を伝えようと、受信ボックスを開く。画面にメールのやりとりを最近した人の名前がずらりと並ぶ。そして、その中にある、一つの名前を目に留めて、伊月は少し表情を歪めた。
花宮真。
彼は、伊月と同じ大学に通っており、同じサークルに所属している。もちろん今回の旅行の参加者の一人にも含まれている。そして。
伊月と恋人関係にある人物だ。
伊月がこの旅行を楽しみにしていた理由は、彼も参加するから、というのが大きかった。
元々あまりこういうイベントに進んで参加したがらない花宮が、初めて自ら行きたい、と言ったのだ。あまりの珍しさに伊月も他のサークルのメンバーも皆して驚いたのは記憶に新しい。
それに。伊月と花宮は付き合い始めて日が浅い。まだデートさえしたことがない。とは言っても、それはお互い恥ずかしがってデートに誘えないだけなのだが。
せっかく舞い込んできた旅行というチャンス。これで少しでも距離を縮めて、恥ずかしさを緩和できれば、と考えていた。しかし。
「なんで風邪なんてひいちゃったかなあ……」
自然と声が震える。熱のせいか、少し息苦しくなってきた。
メール送る前に薬飲もう……。
だるい身体に鞭を打ってなんとか起き上がらせる。ふらふらとする身体を支えるため、壁に手を添えながら薬の入っている棚へと向かう。そして棚の前へと辿り着いた時、ふと嫌な予感が頭をよぎった。
そういえば、前回風邪ひいた時、ちょうど薬飲みきって……それから薬買いに行ったっけ……?
さっと背筋を冷たいものが走り、急いで棚を開いてみると案の定。
風邪薬のあるはずのスペースがぽっかりと空いていた。思わずその場に座り込んで項垂れる。
「あー…もう……俺のばか……」
しばらくそこでうんうんと唸るが、ずっとこんなことをしていても埒があかない。
「薬、買いに行くか……」
運良くも家から少し歩いたところに二十四時間営業のドラッグストアがある。そこでさっさと薬を買って今日は安静にしていよう。そう決めて、外に向かおうとするが。
「パジャマはさすがにまずい、よな」
しかし、だからと言って、近所のドラッグストアで薬一つ購入するのにオシャレをしていくのも馬鹿らしい。どうしたものかと部屋を見回すと、ソファの上のあるものがふと目に付いた。
ジャージ………。
それも高校時代のもの。ついこの間、たまたま高校の時に使ったものを整理していて、それだけ仕舞い忘れてしまっていたのだ。一度手に取り、自分の前で広げてみる。やはり、大学生となって暫く経った今、懐かしの物に腕を通すのは少し気恥ずかしい思いもある。しかし、すぐに楽に着られそうなものもそれしかない。広げた白主体に黒と赤のラインの入ったそのジャージを暫し見つめる。
まあ、まだ明け方だし、人もそんなにいない、よね……?
そう自分に言い聞かせると、伊月はパジャマの上からジャージを羽織り、ジッパーを一番上までぐいっと上げた。
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