「やっべ……今日遅くなっちまったな……」

 玄関の前で鍵を出そうとポケットを漁りつつ、ついでに、と左手首につけられた腕時計を確認する。バイトがほんの少し長引いてしまっただけなのだが、電車の待ち時間やらなんやらで、思ったより遅くなってしまったらしい。

「ただいまー」

 慣れた手つきで鍵を開け、ドアを引く。中にいるであろう人物に聞こえるようにと、少し張った声を出してみた。しかし。

「……伊月のやつ、もう寝たのか?」

 俺の声を聴いたら、いつもすぐに「おかえりなさい!」という声とともに、リビングと廊下を隔てるその扉を少し開け、その隙間から可愛らしくひょっこりと顔を出してくれるというのに。今日は顔を出すどころか、物音一つさえ聞こえてこない。
 まぁ暫く勉強にバイトにサークルにってあちこち忙しそうにしてたもんな……。この時間に寝ちまうのも仕方ない、か。
 でも、俺が家に着く前に伊月が先に寝る、なんて珍しい……というか、今まで一度だってなかった。
 俺のほうが帰りが遅いとき、伊月はいつも必ず俺の帰りを起きて待ち、ご飯と風呂の準備をしてくれる。……本当によくできた嫁だと日々思う。

 だからこそ、今の、無音が支配するこの家の中に違和感を覚える。

「……まさか、俺が帰ってくるのを待ってたら寝落ちた……とかじゃねえよな?」

 そうだとしたら、伊月はきっと、リビングのソファでうたた寝でもしているんじゃないか。
 案の定、電気が点いたままのリビングに思わず溜息が漏れる。
 風邪でもひいたらどうするつもりなんだよ……。
 そんなことを考えながら、靴を脱ぎ、廊下を抜けて、リビングへと向かう。



「おい伊月ー……っていねぇし」

 ソファで寝ているだろう伊月に、ちゃんとベッドで寝ろと注意をしようと思ったのだが。予想外なことに、ソファの上は無人だった。そこにあるのは、俺が数週間前に購入した、ふわふわの手触りのいいクッション一つ。
 なんだ、ちゃんと寝室のベッドで寝たのか……。
 もし、俺を待っていたせいで、伊月がソファで寝落ちて風邪をひいたとしたら、土下座でもして謝る必要があった。第一、伊月が風邪なんてひいたら、心配で心配で、伊月を置いて外に出られなくなる自信がある。
 色々な意味でほっとしながら、ソファの上に転がるふわふわのクッションを手に取り、それのあったところにぼふりと腰をかける。

「あー……やっぱ癒されるわ……」

 腕の中のクッションをぎゅうと抱きしめれば、もふもふと柔らかな感触が返ってくる。今日一日の疲れがじんわりと和らいでいくのを感じて、ゆっくり息を吐く。それに合わせて、体中の力を抜くと、腕の中のクッションが空気を取り入れて、再びふんわりと元の状態に戻った。掌でそれを撫でながら、真っ白な天井を仰ぐ。

 ……なんか……物足りねぇ……?

 確かに、こういった物に触れると癒されるし、ほっとするけど。なんだか少し、これじゃない感が残る、というか……。



「……とりあえず、荷物、部屋に置いてくるか」

 伊月がソファで寝てたりしないか心配で、急いでリビングに直行したために、鞄までここに持ってきてしまっていた。ここにあっても邪魔なだけだ。部屋に鞄を置いて、ついでに部屋着に着替えてくるか。
 そんなことを考えながら、俺は鞄を片手に部屋へと戻ろうとした。

 が、しかし。



 ……俺の部屋、電気が点いてる……。

 ドアの隙間から漏れ出す光に、はて、と首を傾げる。
 今日、家を出るときに電気を消し忘れたのか。いやでも、ちゃんと消したのを確認した。それはよく覚えている。勝手に電気が点く、だなんて非科学的なことはありえねぇし……。

「か、確認してみるしかねぇ、か……」

 特に理由はないが、息を潜め、音をたてないようにゆっくり足を踏み出す。
 部屋の前についてから、一度小さく息を吐いた。……何で自分の部屋に入るだけなのにこんなにびくびくしなきゃいけねえんだよ……。
 息を止め、ドアに手をつき、ゆっくりと押す。ドアは静かに開かれ、やがて全開になった。
 そして、目の前に広がった光景に、俺は―――…固まることしかできなかった。


 部屋の中の様子は、殆ど出かける前と変わらない。殆どは、だ。
 ……一部、何かが変わっている。



 ソファベッドの上……こんもり、して…る……?


 俺が愛用しているソファベッド。レポート作成に追われているとき、ちょっと仮眠をしよう、なんて時に大活躍する。
 その上には、最近俺が買ってきた、ふわふわ毛布ともふもふ枕、そしてふんわりウサギのぬいぐるみ。それがあるのは、行く前と変わっていない。
 でも。


 やっぱ、絶対こんもりしてるよな?これ目の錯覚とかじゃねえよな……?!


 ふわふわ毛布が、不自然なほど盛り上がっている。そして微かに、本当に微かにだが、動いているような……。


「………ん…?」

 枕のあたりを目を凝らしてよく見てみると、毛布に覆われて、ほぼ隠れてしまっているが。少しだけ見える枕の上。そこに、黒いものがちらりと見えた。
 遠くから見てもわかる、黒い、さらりとした―――……。

 改めて息を潜め、全神経を耳に集中させる。すると、部屋の中から聴こえてきたのは……規則正しい寝息。

 ……あぁ、なるほど、な。

 ほっ、と安堵の息をつく。わざわざソファベッドに近づかなくてもわかる。ソファベッドの上の毛布に、何が、いや誰が包まっているのか、なんて。




「おーい、伊月」

 ……って、ここから呼んでも、あいつ寝てるから反応できるわけない、か。

 呆れたように笑い、ドアの近くにある棚に鞄を立て掛けると、俺はソファベッドの方へと足を進めた。その間も、気持ちのよさそうな寝息が聞こえてきて、こんなんじゃ、寝てる間に襲われても文句言えねぇな、と頭の隅の方で考えて再び笑う。
 ソファベッドの脇に立ち、毛布を少し捲って覗いてみると、やっぱり予想通り。伊月が、炬燵の中の子猫の如く身体を丸めて、すやすやと眠っていた。いつもはクールだなんだと言われている伊月も、眠っているときはあどけない表情をしていて、自然と頬が緩む。

 本当は暫くこの寝顔を眺めていたいし、時間ももう遅いから、このまま寝かしてやりたいのだけれど。
 ……さすがに起こさねえとな。
 ソファベッドだし、毛布も枕も完備されているから、風邪をひく心配はないと思うが。でもちゃんとしたベッドとはやはり少し違うし、身体も休まりにくいんじゃないかと思う。身体の疲れをしっかり取る為にも、やっぱり起こしてベッドに移動させなきゃダメだよな。……決して、寝室のダブルベッドでいつも一緒に寝ているのに、今日伊月なしで一人で寝るのが嫌だとかそういう訳ではない。あくまで伊月の身体を心配して、だ。ここ重要。

 ……つか、そういや何で伊月、俺の部屋にいるんだ……?
 別に、勝手に部屋に入ってきたこと自体には、なんとも思っていない。ほぼ私物を置いたり、集中して作業をしたりするためだけの部屋、という認識になっている自室。一応、形式としてそれぞれ部屋を持っているけれど、なんだかんだでお互いよく部屋に自由に出入りするから、ここも共有スペースになりつつあるし。
 でも、俺がいないときに、意味もなく伊月が俺の部屋に入り込んで、しかもソファベッドで寝る、だなんて。考えられない。きっと伊月のことだから、何かしら理由があるはずだ。

 ま、考えるより、起こして直接訊いた方が早いか。

 そう思って、俺は毛布越しに伊月の肩に手を置き、そのまま軽く揺すってやろうとした、のだが。
 改めて、目の前の状況を見て、俺は再び、全身の動きを停止させた。

 ……待て、待てよ。この状況って……。

 じわじわと体温が上昇していくのが自分でもわかった。身体の内の方からじんわりと何かが広がっていく。ごくり、と唾が喉を通る。





 俺の愛しの伊月が、俺の大好きなふわふわグッズに囲まれている……だと……?!





 そうだ、この状況、だいぶ美味しいことになっているんだ。なぜ俺は今までそれに気が付かなかった……?!
 もふもふの枕に頭を預け、ふわふわの毛布に包まれ、ふんわりウサギのぬいぐるみと一緒に寝ているのは、俺の最大の癒しであり、全てが可愛い天使の伊月なんだ。……もしかしなくてもここは楽園か何かなのかもしれない。

「やべえ、これは……」




 ……どうしようもなく、可愛い。




 もう、なんなんだ、これは……。
 可愛すぎて手が震えてきた。どうしてくれる。どうすればいい。この荒ぶる気持ちを、どこに向ければいい。

「こここ……これって抱きしめてもいいのか……?いいよな……?」

 こんな可愛いもの抱きしめずにはいられない。伊月を抱きしめるのに許可とかいらないよな?伊月俺のもんだしいいよな、いいんだよな……?!

 片足を上げ、そのままソファベッドに乗り上げる。伊月の身体を跨いで、その状態で伊月を見下ろすと、少し窮屈なのか、伊月が唸りながら身を捩った。やはりこのソファベッドは、一人が寝転がれるスペースしかないようだ。……まぁ、当然か。
 眉間に皺を寄せる伊月にくすりと笑いを零してから、その顔にかかった黒いさらさらな髪を撫でるように優しく払ってやる。

「伊月、可愛い……」

 ほぼ無意識に出たその言葉とともに、圧し掛かるように毛布ごと伊月を抱きしめた。ぎゅう、と力強く。可愛い、愛しい、という気持ちをいっぱいに込めて、強く、強く抱きしめる。



「伊月、伊月……」
「……ん…?みや……じ、さん……?」



 ……まぁ、起きてしまう、とは思った。遠慮なく、ぎゅうっと抱きしめた時点で、きっと起きるな、とは思っていた。そりゃそうだよな、どんなに爆睡してても、こんなことされたら誰でも起きるわ。 
 まだ夢と現実の間を意識が彷徨っているのか、ぽやー、としたまますぐ近くにある俺の顔を見つめてくる伊月。

「おはよ。あと、ただいま」
「おはよう、ございます……えっと、おかえりなさ、い……?」

 意識がはっきりしていないまま一つずつ挨拶を返す伊月が可愛くて、改めて抱きしめる。

「あー。あと、俺の部屋にいらっしゃいませ?かな?」
「え……?宮地さんの……部屋………」

 小さい声でそう呟いた後、伊月の身体がびくりと大きく震えたのがわかった。……どうやら完全に目が覚めたらしい。
 腕の力を緩めて、密着した身体を離すと、真っ赤に染まった伊月の顔が見えた。

「みっ宮地、さん……?!」
「あぁ、そうだな」
「えええ、あのっえっ?ここ、あれ、ソファベッ……あれっ?!」
「うん、合ってる合ってる」
「えっいや、あれ…?俺、ここで寝て……?」
「爆睡だったな」
「ええっ?!ちょっ……えぇっ!」

 ……だいぶ混乱しているらしい。真っ赤な顔であたふたする伊月が可愛い。思わずからかってやりたくなったけど。さすがにいじめ過ぎるのよくねぇからな。

「あの、とと、とりあえず、俺の上から降りていただけませんか?!」
「え?あー」

 そういえば、ずっとこの状態のままだったか。つか、だから伊月がさっきから目を合わせてくれないのか。なるほど。

「別にいいだろ、このままで」
「よ、よくないです!!このままだと!!俺、何も考えられなくっ…あのっ…!!」
「あー、はいはい」

 必死に言う伊月に、さすがに言うとおりにしてやるしかない、とソファベッドから降りて、脇に立つ。……あのままだと伊月、普通の会話さえできなそうだったしな。
 俺が離れたことで少し落ち着いたのか、伊月は上半身を起こし、足を床につけると、ふう、と息を吐いた。

「お、俺……いつの間に寝ちゃってたんですね……」

 俺に話しかけている、というよりは、独り言に近いもののようだったが。俺は「そうだな」と返事をしてやる。

「それも、しっかり毛布に包まって。……でも、その口調だと、もともとは寝るつもりじゃなかったのか?」
「……うぅ、まぁ………はい」

 恐らくこのあたりに、伊月が俺のいない間に部屋に入ってきた理由、というのがあるのだろう。これは詳しく訊くしかない。……とは言っても、いろんな角度から色々と質問をぶつけて分析、だなんて面倒なことはしたくない。

「んで、何で俺の部屋にいたんだ?」

 ど直球で理由を尋ねた。さすがの伊月も少し驚きの色を見せたが、少しして「言った方がいい、よな……」と呟いた。それがどういうことなのか、今の俺にはさっぱりわからず首を傾げていると、ソファベッドに座ったままの伊月がこちらを見上げてきた。俺は立っているから、自然と上目遣いになる伊月。これはあざとい。


「……あの、宮地さんが悪い訳じゃなくて、完全に俺が変に気にしすぎているせい、なんですけど」

 伊月はそこまで言うと俺から視線を外し、少し俯いた。何か話しにくいことらしい。急かすべきではないことはよくわかっているから、そのまま伊月の言葉を待つ。

「……本当に女々しくて、面倒だなって思われちゃうかもしれないんですけど……」

 伊月を面倒だと思うことなんて絶対にないのに。俺が、面倒だと言う姿でも想像したのか、伊月の声は震えていた。
 言葉を止めた伊月は、まだ言うべきか迷っているらしい。口を意味もなく開閉させ、視線を床に落としたままあげようとしない。ゆっくりで構わない、という意味を込めて、その頭をくしゃりと撫でてやれば、今にも泣きだしそうな濡れた瞳が俺を見上げた。赤い顔をさらに赤くさせた伊月は、また俯いてしまったが、でも、膝の上に置かれた拳が、ぎゅっと強く握られたのが見えて、漸く話す覚悟ができたのだと察する。

「……最近、宮地さん、ふわふわしたものを買うこと、多いですよね」
「あぁ、そうだな」
「それで、家に帰ると……やっぱりふわふわしたものに癒しを求めますよね」
「あー、まぁそうだな?」
「家に帰って、一番に触れるものって……ふわふわしたもの、ですよね……」
「……………」

 ……ここまでわかりやすく言われてわからない程、俺は鈍感な男ではない。
 つまり、あれか……?伊月はふわふわしたものに、嫉妬してたってことか……?
 まさか自分がそれほどまでにふわふわしたものに執着していたなんて、自分ではわからなかったけれど。伊月は、俺の様子を近くでよく見ていたからこそ、そのことに気付いたようだ。……伊月ではなく、ふわふわしたものに触れる、俺の様子を。

「前までは、宮地さんは一番に俺のことを抱きしめたり、頭を撫でたりしてくれてて……それなのに最近は……」

 寂しい、とずっと思っていたのだろう。別のものに構ってばかりの俺を見ながら、伊月はずっと寂しいと思っていたのだろう。それに今更ながらに気づいて、申し訳なさが込み上げてくるのと同時に、嫉妬するほど俺のことを好きだと思ってくれて嬉しいだなんて場違いな気持ちまで生まれてきて、俺は本当にバカなんだなと思う。

「……だから俺、少しでもいいから宮地さんに……か、構ってもらいたかったんです。でも、どうすればいいのか、よくわからなくて。……それで、宮地さんの大好きなふわふわしたものと一緒だったら、その、一緒に構ってもらえるかな……って思って……」

 考えた結果が、俺の部屋のふわふわの毛布に包まる、ということだったらしい。でも、そのふわふわした心地のいい感触に、気づいたら睡魔に襲われて―――そしてああなった、と。
 ……なんだよそれ、可愛すぎかよ……。
 こんな可愛い伊月を面倒くさがるだなんて、やっぱりあり得ないことだ。むしろ癒される。全ての行動一つ一つに、全てが癒される……。


 そこまで思って、ふと引っかかりを覚える。
 何故、伊月という癒しがいるのに、最近の俺はふわふわしたものに癒しを求めていたのか。こういったものを買い始めたあの日。何故、ふわふわしたものを手に取って、購入したのだろう。
 記憶を遡ってみれば、すぐにわかった。
 ……そういや、あの日、伊月は一日家にいなくて……それに対して、俺は一日ずっと休みで。

 ―――つまり、癒しがなかったのだ。

 俺自身がバイトやら授業やらで忙しく外に出かけていれば、家に帰ってから伊月に癒しを求めるだけで済んだのだけれど。課題をさっさと終わらせ、午後には殆どすることがなくなっていた俺は、癒しがなかったためにずっともやもやしていたのだ。それで、気分転換にでもとふらふら外にでかけて巡りあったものが、あのふわふわのクッション。
 俺はあの日、伊月という癒しの代わりになるものを求めていたのだ。

 ……あぁ、だから、物足りない、ってさっきクッションを触ったときに思ったのか。

 所詮代わりは本物に及ばない。俺が満足するまでの癒しをくれるのは、伊月だけ。

 それなのに、それに気づかず、物足りなさを埋めようとバカみたいに必死になってそれらを集め続けていたのは、この俺だ。そして、伊月に寂しい思いをさせていたのも、俺。

「……あまりに癒しが当たり前のように近くにいたから、そのおかげで毎日癒されて生きてるって気付かなかった、って訳か」

 俺の独り言に、伊月はきょとんとして不思議そうに首を傾げた。でも、説明する必要はない、俺だけがわかっていれば、それで十分だ。

「宮地さん……あの……」

 きっと、次に伊月の口から出てくるのは謝罪の言葉だ。俺はそれを言わせまいと、遮るように「伊月」と呼ぶ。


「……悪かった、寂しい思いさせて。本当ごめん」


 ぎゅ、と包み込むように優しく抱きしめる。ひゅ、と息が止まったのが聞こえたが、少ししてほっとしたように「俺こそ我儘ですみません」と言うのが聞こえた。俺の真似をするように、伊月の腕が俺の背に回る。



「俺、今すごい幸せです」



 少し照れたように笑う声が聞こえてきて、胸の奥がじんわりと暖かくなった。






「……やっぱ俺の癒しはお前だけだわ」








 多分、他のものが幾らあったとしても。




 俺は、伊月がいないと生きていけないのかもしれない。
 








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