お前の唇は俺のもの!



「むー……」

 元々大きな目をさらに大きく見開いて、屈んだまま唸り声をあげているのは、俺の恋人である葉山。その表情は、試合中を思わせるほどの真剣なもので、不意にこんな顔を見せられたらきゅんとときめいてしまうかも、と思った。

 ……勿論、今、奴の視線の先にあるものが、もっと違うものであれば、の話だが。



「ねぇ葉山。早くしてくれない?」
「待って!今、三つまでに絞ったところだから!!」

 呆れて溜め息しかでない。
 ここに立ち止まってから、約三十分が経過した。いい加減早く家に帰りたい。そう思うのに、それが出来ない原因は、この葉山にある。


「お前リップクリームひとつ選ぶのにどれだけ時間かけてるんだよ!」





 ―――――……そう、今、俺と葉山は、リップクリームがずらりと並べられた棚の前にいる。目的は当然、リップクリームを買うため。
 しかも、葉山の、ではなく、俺の。
 リップクリームを必要としているのは俺であるというのに、おかしなことに、葉山がリップクリームを一生懸命選ぶ、という状況が目の前に広がっている。……何でこんなことになったのかは、俺にもわからない。

「葉山、俺、本当にどれでもいいんだけど。さっさと買って、早く帰ろ?」
「どれでもいい訳ないでしょ!!もうちょっと待って!!」

 ……本当に俺のリップクリームを選んでる、んだよな……??
 あまりの必死さに、葉山は自分で使うためのものを選んでるのでは、なんて一瞬考えてしまった。でも、すぐにその可能性を頭の中から消し去る。
 だって葉山、リップクリームつけたって意味なさそうだし……。
 何故かはよくわからないけれど、奴の唇は常に潤いを保っている。何か特別なことでもしているのかと思ったけれど、小さい頃から乾燥には強い、と本人が言っていたから、恐らく生まれつきなのだろう。……羨ましいなんて思ってない。

 ……葉山の唇はあんなに潤ってるけど、俺のはこの時期になるとさすがに乾燥しちゃうから……。葉山にキス強請られてもなんとなく断っちゃうんだよな……。……って、何を考えてるんだ俺は……!!

 キスをする前の、男くさい表情をした葉山の姿をはっきりと思い出してしまったせいで、頬や耳が一気に熱を持ち始める。
 
「ねぇ伊月、これとこれならどっちが……ってどうしたの」

 ……こいつはどうしてこうもタイミングよくこちらを向くのだろうか。
 俺の真っ赤になっているだろう顔を見て、葉山はぎょっと目を見開いた。猫のような目をくりくりとさせて、こちらの顔を凝視してくるものだから、なんというか、物凄く気恥ずかしい。顔を見られたくなくて「なんでもないよ」と言い、その場から離れようとすると、すぐに葉山から焦ったような制止の声が掛かった。

「ほら、二択!これで決まるから!どっちがいい?!」
「……どっちでもいいよ、安い方でいいんじゃない?」
「えー!あんまり安いのだと逆に唇に悪そうじゃん!!それに、これは両方とも同じ値段だから!!」

 右と左、一つずつリップクリームを持った葉山は、俺の返答が気に入らなかったらしく、頬をぷくー、と膨らませた。

「同じ値段だったら尚更どっちでもいい」
「もー!自分のことなんだからもっと真剣に考えなよ!!」

 真剣に考えろ、と言われても。
 元々、リップクリームにこだわりなんてないし、ちょっと乾燥が気になった時にパパッと塗ることができればいいかな、くらいにしか考えていない。そもそも、何が良くて何がダメなのか、違いもいまいちわからない。

「その二つのリップクリーム、何が違うの?」

 俺が質問すると、よく見比べろ、ということなのか、葉山は手にある二つのリップクリームを俺の手に押し付けてきた。




「こっちが柚子の香りで、こっちがチョコレートの香りね!!!」
「…………は?」





 目をきらきらと輝かせ、嬉々として言う葉山に、思わず口をぽかんと開いた。


 柚子……?チョコレート……??






「お、お前……まさか香りの違いでそんなに必死に悩んで……?」
「あたりまえじゃん!!」

 ……開いた口が塞がらない、とはまさにこのことかと思った。「でもちゃんと唇に良いって評判のシリーズの中から選んだから!」と付け加えた葉山の言葉は、右から左へと流れていく。



 それだけのために三十分以上も無駄な時間を…………!!




「……葉山ってさぁ……本当馬鹿だしアホだよね……」
「はぁ?!こっちは真面目に考えてあげたっていうのに!!」
「こんなの無香料でいいだろ、無香料で」

 呆れたように言いながら、葉山に勧められた二つをもとあった場所へテキパキと戻す。そして、柚子の香りのすぐ隣に無香料のものを見つけ、そのままそれに手を伸ばした。


 ――――……が、俺の手がそれに届くことは、叶わなかった。





「……なんだよ、葉山」
 ぎぎっ、と力強く掴まれた手首が少し痛い。痛いんだけど、という文句も込めた目で葉山を睨みつけてやれば、向こうからも鋭い視線が返ってきた。
「だって、…………いじゃん」
「え、なに?」
 声が小さくて肝心なところが聞き取れなかった。しょうがなく聞き返すと、葉山の目がさらに鋭い物になる。





「だって、無香料だと楽しくないじゃん!!!!」
「え……」




 楽しくない、って…………何が?!



 思わずそう叫びたくなった。だってリップクリームだぞ??リップクリームに楽しいも楽しくないもあるのか?!
 しかし、それを口にする前に、少し離れたところにまではっきりと聞こえる程の葉山の大声が、言葉を続けた。



「伊月とキスする時、いい香りがするほうが楽しいし!!」
「お、おま、何言って……?!」




 突然『キス』という単語を出されて、かっと頬が熱くなる。何故か、近くにいた女性客が思いっきりこっちを振り返ってきたが、今はそれについて考えている場合じゃない。早くこいつを止めなければならない。

 葉山の奴……声がでかすぎる……!!!



「まあキスしてる間にリップクリームなんて全部とれて意味なくなっちゃうかもだけどさ!!」
「は、葉山……!?」
「いや、つか香りなんかなくても伊月とのキス好きだし、気持ちいいし、ずっとしていたいけど!!!」
「葉山……!!ちょっと!!ま、周りの人が……!!」
「でもまあせっかくなら香りあるのも楽しいし、リップクリームとれるのを気にして恥ずかしそうにキスを拒もうとする伊月も可愛いし、みたいな!!!!」 
「ああもう何恥ずかしいこと言ってんだこの馬鹿!!!」


 どす、という鈍い音と、苦しそうな呻き声が聞こえてきたのは、俺がそう言ったのと同時だった。いい感じに拳が葉山の鳩尾にフィットした気がする。
「い……伊月………?……何で、……っうぐ………」
「今のは自業自得だ、馬鹿葉山!!」
 あんっな恥ずかしい内容を大声で言いやがって……!!周りの人からの視線が怖いよすごいグサグサ刺さってくるよ……?!
 それなのに、葉山という奴はどれだけ鈍いのか。まったく視線等を気にしている様子はなく、「本当のこと言っただけじゃん……」なんて小さい声で言うんだから質が悪い。


「と、とりあえずもう帰るぞ!!」
「え……?リップクリームは?」
「そんなのどうだっていい!!」

 ……本来の目的はリップクリームを買うこと、だったけれど。こんな視線が向けられている中、二人で仲良くリップクリームを手にレジに向かうだなんて、どんな羞恥プレイだよ。……いや、もう既にさっきのが羞恥プレイだった気がしなくもないけど……。

 じわじわとさらに熱を集める身体から意識を振り払うようにして葉山の腕を掴む。


「ほら、早く、店出るぞ!!」
「えぇっちょっ伊月……!!」


 ぐいぐいと腕を引っ張り出口へと向かう間も、ずっと複数の視線が向けられているのを感じた。恥ずかしさに死にたくなってくる。
 泣きそうになるのをこらえながら、俺は小さく息を零した。
 




 あぁ、もう二度とこの店、入れないな………。






[memo]
チョコレートの香りのリップクリームを見て衝撃を受けた時にふと浮かんだ話です。



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