「本日の主役は俺が独り占めしていいですか」


 母さんに、行ってきます、と告げてから、すぐ後のこと。
 ドアをあけて約五秒の間、俺の身体は完全にその動きを止めた。



「あ、えと、おはよ……?」
 たっぷり時間を掛けて絞り出した言葉は、一般的な朝の挨拶。……疑問系ではあるけれど。
 戸惑う俺の姿が面白かったのか、目の前にいる人物はくくっと肩を震わせて笑った。でも、今はそれを咎める気になれない。何故なら、彼が今ここにいる、ということ自体が珍しくて、尋ねたいことがいくつも浮かび上がってきたからである。

「……俺が家出てくるの、ここでずっと待ってたの?」
「…………あぁ」
「何で俺を、待ってたんだ……?」

 俺と目の前の彼は、少し前にただの幼馴染みという関係から、『恋人同士』というものに発展した。
 でも、だからと言って特別生活が大きく変化するようなことはなかった。
 いつも別々に学校へと向かい、学校内でちょこちょこ話をする程度。部室を出るタイミングが偶々合えば途中まで一緒に帰るけれど、基本的にはバラバラ。……そんなのを恋人同士と呼べるのかって?まあ確かに傍から見たら、ちょっと冷めているように見えるかもしれないし、ただの幼馴染みだった時となんら変わりはないじゃないか、と思われるかもしれない。



 でも、ほんの少しだけ。


 ほんの少しだけだけれど、俺にとって、そして、俺達にとって、確かに大きな変化があって。


「……日向」


 質問になかなか答えてくれないのに焦れて、その名前を呼ぶ。すると、目の前の彼―――日向は、短く息を吐いた。
 そして、続けて向けられた、柔らかな、ほわんと心が温まるような優しい笑み。

 ……あぁ、そうだ、この顔だ。俺の大好きな表情。
 ただの幼馴染みだった時には見せてくれなかった、恋人である俺だけに向けられる、俺だけが見ることができる、日向の甘い、甘い表情。


「そんなん決まってるだろ。今日はお前の誕生日だからだよ。他の奴らより、早く直接言いたかったんだ」

 いつもより優しく、蕩けるような声が鼓膜を震わせる。


「誕生日おめでとう、伊月」


 まるで壊れ物でも扱うかのように、優しく、やんわりと抱きしめられる。腰の辺りをぐっと引き寄せられて、何故だか緊張を覚えた。でも、首筋にすり、と頬を擦り付けられると、甘えてくる大きな子供のように思えて、少し笑ってしまう。
「伊月。伊月も」
「……うん」
 ちょっと甘えたような口調にいくらでも甘やかしてやりたくなる。日向の望み通り、その俺よりほんの少しだけ広い背中に腕を回し、同じくらいの力で抱きしめ返す。日向が息を呑む音が微かに聞こえたと思うと、さらに強い力で抱き締められた。
「伊月、生まれてきてくれて、ありがとう」
「……ありがと、日向」
 腰の辺りに添えられたのと逆の手が、俺の頭をゆっくり優しく撫でる。その感触が心地よくて、顔が綻ぶ。
「可愛い、伊月」
 独り言のような小さな声も、この距離だとはっきりと鼓膜を震わせて聞えてきて。恥ずかしさを紛らわすように、一度ぎゅ、と力を入れて抱き締めた。

 するり、と日向の手の平が腰から背中へと滑る。……先日気付いた事だけれど、日向は『これ』をする前に必ずこの動きをする。日向の癖らしい。期待に胸が高鳴るのを感じる。
 抱き締め合う腕の力をお互いに緩め、ひと一人入るか入らないかほどの、ちょっとの隙間を作る。すると、何故か少し不安そうな日向の顔が見える。でも、『これ』の前は、いつだって日向はこんな顔だ。わざとおでこ同士をこつん、とぶつければ、小さく笑った。
 そして、待ってましたと言わんばかりに触れ合わせる、互いの唇。

 優しく触れるだけの、ほんの一瞬のキス。


「好きだ、伊月」
「俺も日向のこと、好きだよ」


 ――――……こんな風に、お互いの想いを、愛を確かめることだって、ただの幼馴染みだったら絶対にしないこと。
 日向とこんなことが出来るのは、恋人である俺だけ。
 勿論、まだキスなんて数えられるくらいしかしたことないし、いつも触れる程度のものだけど。
 でも、キスをすると、胸のあたりがじわりと熱くなる。

 日向が幸せそうに笑うのを見て、つられて俺も笑った。幸せだな、と感じながら。


 どちらからともなく抱き締めていた腕を解き、並んで道を歩き始めた。
 誕生日だからと、俺を迎えに来てくれた日向。
 そういえば、一緒に学校に行くのは、数ヶ月ぶり……かも。
 そう思うと嬉しくて、つい微笑んでしまった。
 




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