幸せを、君に。
「夕飯は出前とりますか?」
そう言って後ろを振り返ると、すぐ後ろのソファの上で寝転がっていた森山と目が合う。しかも、目が合った瞬間、ものすごい勢いで顔をそらされた。
「……え、なんなんですか」
声のトーンを低くして尋ねても森山は目を合わせてこない。さっきまで普通に話していたのに、突然どうしたというのだ。
もう一度森山に声をかけようとすると、森山はソファの背もたれの方に顔をうずめるように、ソファの上を転がった。続けて、声が微かにきこえてきた。
「…いや…なんか、突然伊月の顔が至近距離に見えて緊張しただけ…です」
「なんで敬語なんですか…」
口ではそう言ったが、伊月は自分の体温が少しだけあがるのを感じた。
な…なんかそんなこと言われると……。
恥ずかしい。
変に、緊張する。
それを悟られないように伊月は机の上に広げてあるチラシの方に視線を戻した。
沈黙が続くのは耐えられない。伊月はすぐに一番上に広げたチラシを手に取った。
「えと…じゃあピザでいいですか?」
さっきみたいにならないように、伊月は後ろを振り向かず、チラシに目を向けたまま問いかける。もう緊張はなくなったのか、後ろから「いいよー」というのんびりとした声がきこえてきたので、そのまま立ち上がり、電話のあるところへ向かうと受話器を手に取った。
チラシに書いてある番号の通りにボタンを押し、耳に当てる。耳元でコールをききながら、森山の方を横目で見た。森山は相変わらずソファに寝転がったまま、背もたれのほうへ体を向けている。
森山さん……なんか可愛いな。
思わず笑みがこぼれそうになる。ソファの上で少し体を丸めて寝転がる姿は、小さな子供の様だった。
まぁ、口を開けば何を言い出すか全くわからないけど……。
さっきの森山の発言を思い出し、子供はああいう発言しないよなぁ、と考えていると、コールが切れ、人の声がきこえてきたため、伊月は適当にピザを注文した。
「とりあえず、二枚頼んじゃいましたけど…一人一枚も食べますかね?」
注文を終え、森山のいるソファの近くに座ると、森山が小さく唸った。
あれ、もしかして…寝てる…?
森山はこちらに背を向けているため、寝ているかどうかわからない。
「森山さーん?」
「んー…」
名前を呼んでみると声は返ってくるが。
…これは寝てるな。
まったくと言ってこっちを向く気配はない。少しもぞもぞと動いているだけ。
まぁ、放っておいてもいいかな。
そう思って、伊月は森山を起こさないように静かにしておこうとテレビを消した。
と、同時に。
「…っい……?!」
後頭部に鈍い痛みを感じ振り返ろうとする。が、それも叶わず。
流れるように目に映る景色が変わっていった。天井の白が見えたとき、背中に硬くひんやりとしたものがぶつかる。上からはなにかがのしかかってくる。
そして――…目の前には森山の顔がドアップ。
「え……ちょ、なっ…?!」
なんで森山さんの顔がこんなに近くに……?!
驚きと羞恥に、口をぱくぱくと動かす。頬に赤みが差すのを感じる。
混乱した頭の中、森山を引き離そうとするが。
「んぅー…?」
「も…もりやま…さっ…?!」
森山は伊月を強く抱きしめ、顔を首筋にうずめてくる。吐息がかかり、思わず身を震わせる。
このままじゃ…やばい。恥ずかしすぎて死ぬ。
そう感じ、森山の肩に手をかけて、揺らそうとした。が。
ちょっと待てよ、と伊月は身体中の動きを止めた。
…今ここで森山さんを起こしたら、きっと森山さんは顔を真っ赤にしながら何度も謝ってくるだろう。でも、それだと…。
このあと、絶対気まずい空気になってしまう。
実のところ、伊月と森山は付き合い始めたばかりだった。付き合い始めたばかりだからこそ、ちょっとのことでも、お互い恥ずかしがってしばらくそっぽを向いてしまう。もうしばらくすればどちらかが静かに話しかけ始めて、いつの間にかいつも通り…というのが毎回のことなのだが。
さすがにここまで恥ずかしい思いをしたのは初めてだもんな…!!
自分の過去にないほど熱くなる頬と、うるさく鳴る心臓の音を感じ、さらに恥ずかしさが高まる。
森山さんを起こさないように、この場を切り抜けるには…。
伊月は冷静に考えるため、体中に受ける感覚をすべて遮断しようとした。
それが、いけなかったのか。
「んぁっ…?!」
首筋にちくっと微かな痛みが走った。本当に微かな痛みではあったが、感覚を無視しようとしていた伊月にとって、その刺激は大きなものとなってしまったようだ。…どうやら森山の歯が伊月の首筋にあたってしまったらしい。
そして、運悪くも。
「あ…れ…?伊月……?」
森山が、目を覚ましてしまった。
森山はまだ寝ぼけているのか、伊月の顔をぼーっと見つめ続ける。
どどど……どうしよう…!!!
伊月はあからさまに慌てる。
このままじゃいつも以上に気まずい空気に……!!
「あ、あの…森山さん…!」
なにかしゃべっておいたほうが、気をそらせるのでは。そう考えて、なにか言葉を発しようとすると。
「…………伊月。俺、どこまでやった…?」
「え……?」
森山の発言にそう返すことしかできない。
…なにが言いたいんだ?森山さん……。
てっきり、焦って伊月の上から飛びのいて謝り続けるのだろうと想像していたのだが。その想像とは似ても似つかない展開に、伊月は目を瞬かせる。
その間にも、森山は真剣そうに伊月の瞳の奥をのぞき見るかの如く見つめてくる。
「……どこまで……というと…?」
そんな森山から視線をはずすことのできないまま、声を絞り出すようにして尋ねた。すると森山は、バツが悪そうに眉をひそめる。
「…………ごめん、伊月」
突然森山が謝りだした。いや、もとから謝ってくるだろうな、とは思っていたが、それとはまったく違う形の謝り方で。伊月は戸惑うことしかできない。
「あ…あの………?」
「俺は……こんなことするはずじゃ……」
そう言って、下唇を噛む森山に、さらに意味が分からなくなった。
なんでこんなに深刻な空気に…?
このような体勢になってしまったのはただの偶然である。ソファから落下しただけでこの体勢…というのも不思議な話ではあるが、こうなってしまったものは仕方ない。
恥ずかしがることはあるかもしれないけど…別にそこまで深刻になるようなことじゃ…。
「まさか伊月の同意なしに無理やり…」
………え?
なんだか、どっかの大人向けの漫画とかに書いてありそうな台詞をなぜ森山さんが…。
「初めてはちゃんと…同意の上で、優しくしようと思ってたのに……!!」
気づいた。森山の言っていることが、わかった。
…なにこれ森山さんなんか勘違いしてるよおおおお!!!
森山のおかしな勘違いに気付き、冷めかけていた伊月の頬はボッと赤くなった。
「ちょ…ちょっと待ってください森山さん!!」
「もうあれだ伊月!!俺のことをぶん殴ってくれていい、土に埋めてくれたってかまわない!!」
伊月が声を大きくすると、それにつられて森山も声を張り上げてくる。
あぁ、もうっ!
「俺たち、別にそういうことしてませんから!!」
「本当もう謝るから!!許し………て、え?」
森山の言葉の勢いがなくなった。そして、伊月の方をただ目を大きく見開いて見つめ続ける。
「え、してない…の?」
「はい、まったく」
頷くと、森山は唖然としながら、伊月の姿を改めて見た。
「………え、でも伊月若干服乱れて…」
「森山さんが俺の上にソファから落っこちてきたからです」
「………え、でも伊月首がちょっと赤く…」
「寝ぼけた森山さんの歯が当たっちゃっただけです」
伊月の返答をきいて、しばらくかたまったまま動かなかった森山は。
少しして、身体中の力がすべて抜けたかのように伊月の上に覆いかぶさり、再び抱きしめてきた。
「え、森山さ…」
「よかった…」
伊月の胸の上で長く息をつく森山。目をかたく瞑り、伊月の温もりを確かめるかのように優しく抱きしめてくる。
そんな森山を見て、伊月は何も言うことができなかった。
ただ…自分は大切にされているのだ、ということを感じた。
二人は、お互い恥ずかしがって、遠慮して、距離を作ってしまっていたからかもしれないが。なんとなく、『恋人』という関係とは遠い感じがしていた。『恋人』と言えるほど、お互いの中に踏み込んではいないし、触れあいもないに等しい。
こんなふうに優しく抱きしめられるだなんて、夢にも思わなかった。
あぁ、俺達って本当に…恋人どうしなんだな…。
伊月は頬を緩める。そして、森山の背中に腕を回す。
「……伊月とこんなに近い距離で話せるなんて、夢みたいだ」
胸の上に乗った頭が動き、目と目が合う。至近距離で見つめ合い、恥ずかしかったが、今までのようにお互い飛びのき合ったりはしない。
「……でも、これが当たり前なんじゃないですか?」
――…恋人どうしなんですから。
そう言って微笑むと、森山は困ったように笑う。
「俺たちは……なんだか、遠回りしすぎちゃったのかな。恋人どうしになってから、この距離になるまで」
「そうかもしれない、ですね」
目を合わせ、お互いクスクスと笑いあう。
変に離れた距離よりかは、この距離の方が安心できる。お互いの温もりを感じることができるし、好きな人の顔を近くで見ることができるし、好きな人の声を逃さず聴くことができる。
なんていうか……幸せだな。
そう思う伊月を見た森山は突如として真剣そうな顔をして、口を開いた。
「伊月には幸せになってほしいって思ってて、でも俺じゃあ伊月を幸せにできないんじゃないかな、なんて考えちゃってさ。それでちょっと、伊月との距離をとりすぎちゃったんだと思う」
恥ずかしいって言うのももちろんあったけど、と付け加えて森山は視線を逸らす。
…そうか、森山さんは、俺の幸せを思って…。
素直に嬉しい。
自然と頬が熱くなる。
「…心臓、はやいね」
クスッと笑われ、伊月は思わずむっとした。
しかし、森山はそんな伊月の表情さえ愛おしいと言うかのように見つめてくる。
「でも……それが幸せを感じてるってことなんじゃない?」
そうでしょ、というように優しく語りかけられ、肯定するしかなくなった。
「………そう、ですね」
一瞬視線をそらしてから、もう一度森山へと視線を向ける。
「森山さんも、はやいですよ」
抱きしめあっているから、自分の鼓動と森山の鼓動がよくわかる。
二人の鼓動がごちゃまぜになっているけれど、それでも二人ともがはやくなくては、こんなに鼓動の音は騒がしくないだろう。
少し余裕ぶって笑う伊月に、森山は。
「だって、俺も幸せだから」
耳元で囁くように言われ、身体中が熱くなる。
「あ、またはやくなった?」
そうからかってくる森山を少しにらみつつ。
「幸せだからに決まってるじゃないですか!!」
幸せを、主張してみた。