素直になるのは今日だけで



「え、伊月今日帰り遅くなるの……?」

 まるでこの世の終わりだとでもいうような声で俺がそう言ったのは、つい三時間ほど前のことだった。








 2月13日。
 この日は一年に一度しかない大イベント、俺の誕生日だ。この日に生まれたというだけで、皆が俺に声を掛けてくれる。小学生の時にはすでに女の子にちやほやされたいと考えていた俺は、この日が誕生日だということを毎年皆に広めては、たくさんの人からお祝いの言葉を掛けてもらっていた。もちろん女の子からも、だ。……我ながら黒歴史だと思っている。
 さすがにもう、そんなくだらないことはやらない。去年まではさりげなくやっていたけど、今年からは絶対にやらない。何故なら俺には。

 伊月俊という、愛しい愛しい俺だけの恋人がいるからだ。

 前は不特定多数の女の子に声をかけてもらえるのが一番の幸せだった。でも、今は違う。愛しの伊月にお祝いしてもらえれば、それだけで俺の心は幸せに満ち溢れるだろう。
 今回が伊月と恋人関係になって初めての俺の誕生日。「今日の夜、お誕生日パーティーしましょうか」という伊月の天使のような笑顔を支えに、なんとか退屈な講義を乗り越えてきたのだ。一人暮らしをしている俺の家に来てパーティーをしてくれるということで、俺は胸を高鳴らせて待っていた、それなのに。

 伊月からの一本の電話が、そんな俺を絶望の底へと突き落とした。



『森山さん、本当にすみません!!今日サークルの先輩方の飲み会に誘われてしまって……。……あ、でも絶対に今日中には森山さんの家に着くようにするので!!待っててください!!本当ごめんなさい!!』



 あれから三時間、ソファから一歩も動いていない。











「はぁ……」

 何度目になるかわからない溜息が、口から零れ落ちる。
 今日中には来る、と言っていたが、伊月が誘われたのは飲み会だ。下手すれば日付が替わってもなかなか終わらなかったりするものだろう。伊月が今日中に家に来ることができる可能性はゼロに近いと考えても良い。
 せっかく伊月と二人きりでいちゃいちゃできると思ってたのに……。
 妄想なら何してもいいよね、と俺は朝から伊月とのあんなことやこんなことをずっと考えていたのだ。現実ではありえないと頭ではわかっていても、ほんの少しだけ、心のどこかでそれが実現するのでは、と期待している自分もいたわけで。
 それなのに、その全てを否定されたのだ。頭の中で思い描いていた甘い妄想が音を立てて崩れ落ちていく。こんな呆気ない結末になるだなんて、誰が予想できただろう。
 まぁ……また来年も誕生日あるし、その時に祝ってもらえればそれで……。
 そう一人悲しく思いながら、気持ちを切り替えようとした時、ふと一つの疑問が浮かび上がった。

「そういや、なんで伊月は飲み会を断らなかったんだ……?」

 確かに先輩からの誘いは断りづらいだろう。しかし、理由を正直に言えば断れたのでは、と思ってしまうところがあった。なんせ、伊月の入っているサークルのメンバー全員、俺と伊月が付き合っていることを知っている。俺が何かあるごとにサークルに顔を出すことから、いつの間にか有名な話となっていたようだ。俺自身も何度かサークルの人たちと直接話したことはあったが、さすがに恋人同士の時間より飲み会を優先しろ、と言うような質が悪い人間はいなかったように思えた。それなら、何故。

 もしかして……伊月を狙っている奴がいる、とか……??

 そんな考えが過り、背筋がひやっとする。伊月を狙っている奴なら、俺たちの仲を裂くために飲み会に強制連行するかもしれない。

「伊月可愛いもんなぁ……ありえる話だよなぁ……」

 伊月がこんな俺と付き合ってくれるということで浮かれていた。伊月は可愛い。美人だし、気も利く、本当にいい子だ。俺に対しては毒を吐くことも多いし、ちょっと残念ではあるけれど、モテないはずはないのだ。そんな子と付き合い始めた時点で、変な虫がつかぬよう、常に細心の注意を払っておかねばならないというのに。完璧に抜けていた。

「もし伊月が他の男に惹かれでもしたら……」

 最悪の結末ばかりが頭に浮かんでくる。
 俺、これからどうしていけばいいんだろう……。
 どうしようもない絶望を感じながら長い溜息をついた。その時だった。


 ピンポーン、と。

 間延びした音が部屋中に響いた。俺は思わず背筋を伸ばして時計を見遣る。
 11時15分。まだ、日付は替わっていない。
 それを確認した瞬間、俺の内側でむくむくと言葉に表せない喜びが膨れ上がっていくのを感じた。
 伊月が、伊月が俺の誕生日を祝いに、来てくれた。
 俺は緩む頬も気にせず、玄関まで走っていった。体当たりでも食らわすかのようにドアを開ける。

「伊月!!!」

 そう、呼んだのだが。

 俺の視界に入ったのは、伊月と、そしてもう一人の男。

「あー、どうもどうも、森山さん」
「あ……えっと……どうも……?」

 見覚えがある。確か、伊月のサークルの先輩で、結構伊月を可愛がっていた人だ。
 でも、そんなことより気になることがあった。

 何故、伊月はその先輩におぶられているのだろうか。

「え…っと、伊月……は……」
「いやぁ、それが酒飲んでたら酔いつぶれちゃったみたいで」
「え……?」

 その男は、自分の背中の方を見ながら「着いたぞー」と言う。その後、すぐに愛らしい声が唸っているのが聞こえてきた。

「んー……森山、さん……?」

 男の背中から降ろされた伊月は、俺と目が合うと呟くように俺のことを呼んだ。その顔はほんのりと赤くなっていて、どこかぽーっとした雰囲気を纏いながら俺の方へととてとて歩いてきた。

「んじゃ、お届けしましたのでー」
「あ、わざわざありがとうございます」

 男は楽しげに笑うと、すぐに背を向けて帰っていった。去り際、伊月に向けて「じゃーねー」と手を振ったのが若干気に食わなかったが、意外にもすぐ帰ってくれてほっとする。

 それにしても……。
 ちらりと横を見遣れば、俺の腕をひしっと掴む伊月の姿。可愛い、確かに可愛いけど。普段、クールで俺よりも大人びている伊月がこんな風に甘えてくるだなんて。
 初めて、だよね……?
 嬉しい気持ちもあるが、戸惑いも大きい。なんて声をかければいいかわからず、視線を宙に彷徨わせていると、隣からくしゃみが聞こえてきた。

「寒い……」
「え、あ、そっか。帰ってきたばっかだもんね、寒いよね。とりあえずリビング行こうか」

 一度、当たり前のようにリビングへと足を踏み出しかけたが、先程伊月がおぶられてきたことを思い出す。そのことから、酔っていてまだ足取りが覚束ないのだろうと推測する。俺は伊月の肩を抱き、ぐい、と引き寄せる。

「リビングまで歩けそう?」
「は、はい……ありがとうございます」

 伊月は驚いたように目を見開いたが、すぐにふにゃりと笑顔を見せた。至近距離でそんな笑顔を見せるのは反則だ。欲に負けて変なことをしてはいけないと、無心に足を進める。
 ソファの前まで移動すると、伊月は倒れ込むかのようにソファにぼふりと腰を下ろした。さりげなくソファの半分を空けて座ったのは、俺のためだろうか。ありがたく伊月のすぐ隣に腰を掛ける。

「今日は何処で飲み会してたの?」
「ん…っと……ここからすぐ近くのとこです」
「へえ、この辺まで来てわざわざ飲み会だなんて珍しいね」

 無難な話題を投げかけ、伊月の様子を見る。視線を落とし、深く座ったために床に届かない足をぶらぶらとしている伊月。口調は少しほわほわしているが、それなりに落ち着いて会話できているようだし、思ったより酔いはひどくないらしい。ほっとすると同時に、ちょっと楽しい展開を期待していたのに、と物足りなさを感じてしまう俺はさすがにどうかしてる。

「水飲む?持ってくるよ」

 自分の頭を冷やすついでに、と思い、俺は立ち上がった。しかし、台所へと向かおうとしたところで、その動きは阻まれてしまう。くい、と後ろに引っ張られるのを感じて振り返れば、目を逸らしたまま俺の服の裾を掴む伊月の姿。

「ど、どうしたの伊月」

 伊月の赤い頬と少し潤んだ瞳に俺は喉を鳴らす。酒だけでこんな卑猥な表情をしてしまう伊月は、俺をどうしたいのだろうか。いや、別にどうしたいわけでもないのだろうけど。
 思わず見入っていると、伊月が小さく口を開いた。







「……ぎゅってしてくれませんか」
「え」



 人生で一番間抜けな声が出たかもしれない。それほどまでに伊月の言葉が衝撃的だった。
 なんだ?俺の妄想が幻覚として目の前に映し出されているとかそういう??
 しかし、速くなる心臓の音や一気に上昇する体温、それによって出てくる汗が妙にリアリティで。

「え、ぎゅってしていいの」

 確認する必要なんてないだろうに、わざわざそんなことを言ってしまうくらいに、俺は混乱していた。しかし、伊月が弱々しくこくり、と頷き、こちらの様子を窺うかのように見上げてきた時。俺の中で何かが吹っ切れた。

「伊月可愛すぎ……!」

 ふわり、と包み込むように伊月を抱きしめる。腕の中にすっぽりと収まった伊月は、甘えるように俺の胸に頬を擦り寄せてきた。普段とのギャップに思わず俺の方が恥ずかしくなってくる。伊月の方が少し強めの力で抱きしめ返してきたので、それに合わせるように俺もぎゅう、と抱き締める。その時、ふと違和感を覚えた。


 酒のにおいが、あんまりしない……?


 強く抱き締めたことにより、距離がさらに縮まって、伊月の香りが一層強くなった。しかし、酒のにおいはほんの少しするくらいでほとんど気にならない。
 伊月ってほんのちょっと飲むだけでも酔っちゃうのかな……。
 俺も伊月も特別酒を好んで煽るようなタイプではない為、必然と一緒に飲むことは今まで一度もなかった。伊月が酒に弱いだなんて聞いたことはなかったのだが。酒を飲んでいる姿を見たことないのだから、それも仕方ない気がする。

「森山さん……」
「ん、何?」

 腕の中の伊月は、こちらを上目遣いに見上げると、少し口を開き、しかし何か言いかけてすぐに黙ってしまった。何かあったのかと尋ねるようにその頭を撫でてやれば、伊月は意を決したように俺の目を見つめてきた。







「キス、してください」
「え」



 本日二度目の間抜けな声がでた。
 え、キスって…伊月が、キス…え……?!
 じわじわと顔に熱が集まってくる。別にキスをすること自体は初めてのことではない。しかし、伊月からキスを求めてきたのは人生初のことで。
 お酒のせいでここまで大胆になっているということはわかっている。わかっては、いるのだけれども。こうも目の前で可愛らしく求められてしまったら、もう欲のままに動くしかない。
 俺は妙に緊張した手つきで右手を伊月の腰に回し、左手をその頬に添える。伊月は自然と目を瞑り、こちらが動くのを待っているようだった。

 あぁ、もう、どんだけ無防備なんだ、この子。

 可愛らしいが、こんな顔を簡単に見せられると少し心配になってしまう。
 俺が相手だから安心して無防備になってくれている、とかだったらまだいい。でも、今無防備な顔をしているのは、きっと。

 酒のせい、だよな。

 それを思うと、更なる不安が募る。
 そういえば、さっきまで伊月、先輩と二人きりだったよな……その時先輩にも酔った勢いでこんなことした可能性も……。
 一度その可能性を考えてしまうと、あとに考えることは全て負の方向へと傾いてしまう。伊月を連れてきたあの男がやけに楽しそうな笑みを浮かべていたのも、伊月がこんな風に甘えてきたから、だったりしたら。
 伊月の顔を眺めながらそんなことばかり考えてしまう俺は、彼氏として最低かもしれない。事実かもわからないのに勝手に嫉妬してしまう自分が情けなくてたまらない。

 俺は溜息を零し、頬から左手を離すと、再び伊月を抱き締めた。戸惑いの声が腕の中から上がる。

「どうしたんですか……?森山さん……?」

 不安そうな声に、俺は乾いた笑いを零す。

「……ごめん。もう夜遅いし帰る?家まで送るよ」

 こんな気持ちで伊月とキスなんてするわけにはいかないし、自分の気持ちも整理したほうがいい。そう判断して言った言葉だったのだが。




「………、ですか」
「え?」



 俯いたままの伊月の言葉がよく聞き取れなくて聞きかえす。すると、勢いよく顔をあげた伊月と目が合った。そして、その目には。




 確かな怒気が、籠っていた。







「ここまで恥ずかしい思いしたのに、森山さんってバカなんですか?!ヘタレなんですか?!」
「え、は、え?!」








 突然怒鳴られて、俺はその勢いに押されるように伊月から二、三歩離れた。開いた口がふさがらないとは、まさにこのことだと思う。先ほどまでの弱々しい様子もほわほわとした雰囲気も全て吹っ飛んでいて。




 いつもと同じように俺を罵る伊月が、そこにいた。




「え、あれ、伊月……酔ってたんじゃ……」

 震える声でそう指摘すると伊月は、はっとしたように自分の口を押さえた。……なんだかこの展開、嫌な予感がする。

「えっと、これはどういう……」

 説明を求めると、伊月は真っ赤な顔でこっちを睨みつけてきた。まるで、何も聞くなと言うように。もう一度声をかけようとすれば、ふい、とそっぽを向かれてしまう。

「い、伊月、さ。もしかして、最初から酔ってなかった……の……?」

 気になった質問を伊月の横顔にぶつけるが、答える気はないようでなんの言葉も返してこない。しかし、伊月の頬がさらに赤く染まったのを見て、確信する。


 伊月は、最初から酔っていない。


 つまり、俺の腕に大人しく収まっていたのも、ハグやキスを求めてきたのも、全部。
 伊月自身の、意思だったと。そういうことになる。


 俺は右手で自らの口を覆う。
 駄目だ。伊月が、可愛すぎる。
 体温が上昇していくのを感じながら、そっぽを向く伊月に歩み寄り。正面から力強く抱きしめた。

「ちょ、森山さん?!何してんですか、離れてください…!!」

 腕の中で伊月が暴れるが、構わず抱きしめ続けると、さすがに諦めがついたのか、次第に大人しくなる。

「……ね、伊月。何で、こんなことしたの?」

 自分でも驚くくらい柔らかい声が出た。それを耳元で聞かされたからか、いつもなら毒の一つでも吐くだろう伊月は、真っ赤な顔で目を伏せるだけとなる。

「……森山さん、今日誕生日だから、何か特別なことをしたかったんです。いつも俺、森山さんにひどいこと言ってばっかりだから、誕生日の時くらいは素直になったりとか、あ…甘えたり、だとかできたらと思って……」

 そこまで話すと伊月は一度息をつき、こちらに遠慮がちに視線を寄越す。

「でも、やっぱり素面でそんなことするのは恥ずかしくて……先輩方に相談したら、酒を飲んだらどうかって言ってくださったんです。だからお酒ちょっと飲んできたんですけど……緊張してるからか全然酔えなくて……」
「だから、酔ってないのに酔った演技をしよう、って?」

 俺の言葉に伊月が頷いた。
 ……何でこの子は、こんなにも健気なんだろう。全て俺のためにやってくれたことだというのに、俺は勝手にありもしないことを想像して嫉妬して。
 本当に、馬鹿だ。


「ごめんね、伊月。突然帰った方がいい、みたいなこと言っちゃって。俺、本当馬鹿なこと考えてた」

 そう言うと、伊月は拗ねたように「本当ですよ」と唇を尖らせる。

「色々、か、覚悟してきたのに……森山さんがヘタレだから……」
「ご、ごめんって…!!!」

 何度か謝ると、伊月はむすっとした顔のままではあったが、俺の胸に頭をぽすりと預けてきた。その頭を撫でてやれば、伊月は気持ちよさそうに目を細める。

「……伊月が俺のために色々してくれて、本当に嬉しかった。ありがとう」
「いえ……。でも結局、俺も素直になりきれなかったというか……あまりうまく甘えられなかったというか……森山さんの満足いくようなことしてあげることができなかったので……」

 何を未だ弱気なことを言っているのだろう、この子は。
 それもそれで可愛いが、どうやら俺の言いたいことは伝わっていないようで。俺は思わず苦笑する。

「何言ってんの。素直になって甘えてきてくれるのはもちろん嬉しいけど、いつもの伊月だって大好きだからさ」
「そ、そうは言っても……!!」
「それに」

 伊月の顎に左手を添え、目線が合うように持ち上げる。ぐい、と鼻先がつきそうなほどに顔を近づければ、伊月の肩がびくりと震えた。





「……今日ちょっと素直になってくれたおかげで、伊月がいつも俺にどんなことされたいと思ってるか、十分にわかったからね」







 ―――……最高の誕生日になったよ。












 素直じゃない言葉を言おうとするその可愛らしい唇を、そっと俺の唇で塞いだ。





[memo]
森山誕2014
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