好きだって言って欲しいから
「ただいー………ま……?」
伊月とこの愛の巣に住み始めてもう一年が過ぎた。
いつも俺より早く家に帰ってくる伊月は、俺のために夕飯を作って、風呂を温めて待ってくれている。俺がドアを開ければ、夕飯のいい香りがふわりとして、オレンジの暖かい光に優しく包まれる。そして、俺の「ただいま」という声をいち早く聞きつけた伊月が、ぱぁっと可愛らしい笑顔を浮かべて飛び込んできて、俺の疲れを癒してくれる。
それが、日常となっていた。そして、今日もきっとそうなのだろうと疑いもしなかった。
しかし。今俺の目の前には、そんな当たり前となっていた”日常”は、存在しなかった。
微かに夕飯の香りはするが、何故か電気は点いていない。何処の部屋も、だ。
伊月……どっか出かけてんのか……?
とは言っても時間が時間だ。こんな夜遅くに伊月が出掛けるだなんて考え難い。
闇の中、なんとか手探りで電気のスイッチを探し出し、それを押す。明るくなった玄関で視線を落とせば、伊月がよく履いている靴がそこにあった。やはり、伊月は家のどこかにいるらしい。
「伊月ー?」
名前を呼びながら廊下を進み、リビングへと向かう。そこの電気をつけると、伊月の姿はなかったが、机の上にラップのかけられた料理を見つけた。いつもは伊月がほかほかのご飯を盛っている様子を見てからの食事。それを見ることなく、すでに盛り付けが済んでいるものをぽんと出されると、なんとなく物寂しい気持ちになる。
相変わらずうまそうな料理だけどな……。
そう思って並べられた料理を見ていると、その傍らに一枚のメモ用紙があることに気が付いた。
『適当にレンジで温めて食べて下さい』
ボールペンで走り書きされた文字と暫し見つめ合う。そして、一つ思った。
……なんか、怒ってる?
文頭の『適当に』や、敬語で書かれているということから、少し素っ気ない印象を受ける。そして、元から字は上手いため、形こそ整ってはいるが、走り書き、というか殴り書きに近いインクの擦れ具合。
俺、なんかやっちゃったかなぁ……。
自分の行動を思い返してみるが、全くと言っていいほど心当たりがない。……もし無意識に伊月を傷つけていたとしたら、俺すげえ最低な奴だけど。
メモ用紙を机に戻そうとした時、ふとその端に目がいった。
『ばか』
小さく、でも気づいて欲しいというように存在を控えめに主張する文字。それを見て俺は思わず手で顔を覆った。
あー……くっそ、可愛い……。
詳しいことはよくわからないが、どうやら俺の愛しの人は少し拗ねているだけのようだ。本気で怒っていたら、こんな可愛らしいことわざわざしない。それは長年の付き合いから知っていること。
リビングにいないとなると、可能性の残る部屋は一つ。
寝室。
恐らく、いや、必ずあいつはそこにいる。ベッドの上で毛布を被って丸くなっているに違いない。俺が声を掛けるのを待っているに違いない。
すぐに慰めてやんないとな。つっても、ばかとか言われちまった時点で拗ねてる原因は俺にあることが確定したし、まず謝んないとだけど。
寝室に足を踏み入れて、部屋の端にあるベッドへと目を向ける。部屋の電気は点けられていなかったが、サイドテーブルに置かれた小さなランプがベッド付近だけを明るく照らしていた。ベッドの上には予想通り、ふわふわの毛布の塊がころんと転がっている。部屋の角に合わせ、壁にぴたりとくっつけて設置されたダブルベッド。その壁に身を寄せて転がっているのを見て、笑ってしまいそうになるのをなんとか堪える。
……さて、そろそろ声掛けてやるかな。
ベッドへと近づき、身動き一つしない毛布の塊へと話しかける。
「いーづきさん?何拗ねてんの?」
小さい子をあやす様な目一杯優しい声で、でも少しからかうような口調で。毛布越しに伊月に触れてみる。温かさをじんわりと手から感じて、そこに伊月の存在を確認する。が、返事はない。
「……伊月、寝てんのか?」
一度、そう口にしたが、すぐにその考えは打ち消される。静かな部屋に響く伊月の呼吸音は寝ている時とは違うものだ。きっと寝ていない。だから、俺の言葉はしっかり伊月の耳に届いているはず、なのだが。
「……俺なんかしちまったか?ご、ごめんな……??」
あー……なんか、すげえ今ヘタレ炸裂してる気がする。なんで俺こんな弱々しい声で謝ってんだ。じわじわと冷や汗が出てくるのを感じる。ここまで返事がないとなると、伊月はちょっと拗ねている、というレベルではないんじゃないかと不安になる。
何か対処法はないのか、と悶々と考えていると、不意に伊月に動きが見られた。ごそごそと毛布の塊が動いて、パカリ、という間抜けな音が聞こえる。それと同時にベッドサイドのランプとは違う、白い光が漏れだした。携帯、か……?
俺を知らんぷりしたまま携帯をいじる伊月の姿に何とも言えない感情がふつふつと沸き上がる。俺より携帯を構うとはどういうことだ。……って携帯に嫉妬するとかアホらしいなおい。
少しムスッとしたままこの状況を打開するために目を瞑って頭を働かせていた時。俺のポケットの中からブブッという振動が伝わってきた。もしかして、と少し期待するように伊月を見れば、こちらを盗み見るような視線とぶつかった。でも、すぐに伊月は毛布を被ってしまい、様子が窺えなくなる。やばい、俺の伊月がマジ天使可愛すぎる。
急いでポケットから携帯を取り出し、新着メールを確認する。やはり予想していた通り、送信元は伊月俊と書かれていた。思わず口元が緩む。
さて、可愛い俺の伊月さんは一体俺になんてメールを送ったんだか。
少しワクワクしながら本文を表示させる。が、そこに書いてあったのはたった一言。
『ばか』
……あれ、俺さっきもこの字面見たような。
ばっと伊月の方に視線を戻せば、また毛布の隙間から顔を少しだけ覗かせているのが見えた。その姿は小動物のようで本当に可愛らしいんだが。まずはこのメールにどんな意図があるのかを問いたい。
「おい伊月これは一体どういう……」
詰め寄るようにベッドに少し乗り上げると、伊月はばふん、と勢いよく毛布を被ってしまった。俺の話は聞きたくないってか……?
「いーづーきー」
毛布を無理矢理剥ごうとするが、伊月の方もかなり頑固で。毛布を必死に掴んで顔を隠している。ああもうじれったい。
とにかく伊月と話がしたい。……でもこの調子では無理そうだ。俺は溜め息を一つ零し、ベッドの上にどかりと胡座をかく。そして、携帯を開き、新規メールを作成。送信先はもちろん伊月。
『ばかって何だよ。俺なんかしたか?』
あまりメールでのやりとりは得意でないが、今、伊月に俺の言葉を届かせる手段はこれしかない。送信して少しすると、毛布の中から短い音楽が聞こえてきた。続いて携帯を開く音。
……これでなんの反応もなかったらさすがにどうしようもないよな……。
そうぼんやりと考えていると、手の中の携帯が震えた。伊月だ。俺は急いでメールを確認する。
『日向って本当ヘタレだよね』
………伊月さん、質問の答えになってないと思うんですけど。
「ヘタレっつーのは……まあ否定しねえけど。んなの別に今に始まったことじゃねえだろ」
画面から視線を外し、伊月のいる毛布を見つめるが反応はない。ぴくりとも動きやしない。何だ?メールでしか反応しないってか?お望みなら何通でも愛のこもったメール送ってやろうか??
そんな少しふざけたことを考えながら、俺はボタンを押して文字を打ち込む。
『お前はそんなヘタレな俺もひっくるめて好きになってくれたんじゃねえの?』
ぶっちゃけ、こんな文章を打つのには勇気が要った。でも、メールだから、というのも手伝って、少し積極的な台詞を書いてみた。これを、面と向かって伊月に言え、というのは無理な相談だ。何せ、俺は誰もが口を揃えて言う程にヘタレだからだ。
……返信、遅いな……。
基本的に伊月は文章を打つのが速く、返信も早い。いつもなら、数分と経たずしてメールが届くのだが。五分程度経った今でも俺の手にある携帯は静かなままだった。
……俺の送ったメール、そんなに変だったか?
確かに普段は絶対言わないような内容だと自覚はあるが。ここまであからさまだとさすがに恥ずかしくなってくる。なかったことにしたい。
とにかく何か違う話題を、と新規メールを立ち上げようとした、その時だった。
画面にメール受信中、という文字が表示され、すぐに手に振動が伝わってきた。そのメールを開くのを俺は少し躊躇った。さっきの俺のメールを伊月はどう受け取ったのか。これで『ドン引きだ』とか言われたらさすがに立ち直れる気がしない。
でもまあ……伊月のことだからきっとちょっとバカにするくらいで済ましてくれる、よな?
決意を固め、画面に本文を表示させる。俺は本文を見て―――……一瞬息が止まった。そして、少し遅れて顔に熱が集まった。
『日向、抱きしめて』
この短い文章を打つのに、伊月はどれほどの時間をかけたのだろう。送信ボタンを押すまでにどれほどの時間をかけたのだろう。携帯と見つめ合いながらメールを送ろうか送るまいかと葛藤していたことが手に取るようにわかる。可愛すぎて、俺の方がおかしくなりそうだ。
「伊月……」
小さい声で呼ぶと、伊月がびくりと身体を震わせたのがわかった。そして、毛布を自分でゆっくりと剥がすと、俺に背を向けて上半身を起き上がらせた。俺はその華奢な背中を見て、あぁやっぱり可愛い、なんて改めて思ってから、伊月のご希望通り、後ろから優しく抱き締めてやった。シャンプーのいい香りがする。風呂に入ったばかりなのかと、すん、と鼻を鳴らす。
「っひゅ……うが……」
擽ったそうに少し身体を捩って俺の名前を呼ぶ伊月。今日家に帰ってから初めて伊月の声を聞けた。俺は思わず抱き締める力を強くした。
「なあ、なんかあったの?伊月」
耳元で囁くように言う。真っ赤になった伊月の横顔が目に入って、 押し倒したい衝動に駆られたが、今はそんなことをするようなところではない。伊月に何があったのかを聞くのが最優先だ。
そう思って、伊月の言葉を待っていたら、どういうことなのか。伊月が携帯を開いた。
「ちょ、伊月?ここにきてまでメールで会話とか無しだろ」
力ずくで伊月の手から携帯を奪い取ろうとした時。伊月が俺にその画面をぐい、と近づけてきた。白い画面に、黒い文字が一列並んでいる。
『好きだって、言って』
俺がその文章をちょうど読み終えたとき、携帯がすごい勢いで閉じられた。抱き締めているその身体が微かに震えているように感じる。顔を真っ赤にして、目をぎゅっと瞑っている伊月にしてやれることなんて、もちろん一つしかない。
「……伊月、好きだ」
いつもそう思っているのだが、何故か言葉にする直前、妙な緊張を覚えた。その原因は、すぐにわかった。
俺、あんま伊月に向かって改めて『好き』とか言ったことなかったかもな……。
思い出してみれば、いつも心の中で伊月可愛い、とか伊月好きだ、とか思うだけで終わってしまっていて。本人には何も言えていなかったかもしれない。
もしかして、伊月、それでちょっと不安になっちまってたのか……?
そう思うと申し訳なさが込み上げてきて、伊月を抱き締める力が自然と弱まる。でも、そんな俺に伊月が再び携帯の画面を突き付けてきた。
『一回だけじゃなくて、もっと』
…伊月はどうしてこうも人のツボをついてくるのだろう。今の俺の顔は真っ赤になってしまっているにちがいない。
「好きだ……伊月、好き。あんま言ったことなかったかもしんねえけど……ずっとずっと、お前が好き。伊月だけが好きなんだ」
俺はひたすらに好きという気持ちを伝え続けた。今まで伝えられなかった分も、全部伝えるように。
抱きしめていた俺の腕にそっと伊月の手が触れる。
「……ありがとう、俺も大好きだよ、日向」
そんな可愛い顔で言うだなんて、反則すぎる。
「そういや伊月、昨日何で拗ねてたんだよ」
次の日の朝。朝食の準備をするために台所に立つ伊月の背中にそんな質問を投げかけた。
「別に……拗ねてはなかった、けど……」
「んじゃなんなんだよ突然ばかだのなんだの」
目玉焼きの乗った皿を俺の前のテーブルに運ぶと、伊月は視線を落として口を一度、きゅ、と結んだ。少しして、こちらに控えめに視線を寄越す。
「……日向がヘタレなのがいけないんだろ」
「…………はぁ?!」
一体どういうことなのか。訳が分からないといった風に眉を顰めれば、伊月も少しムッとしたように唇を尖らせた。
「日向がヘタレで俺に全然好きだーとか言ってくれないからさ、どうすればいいかなって黒子に相談してきたんだ」
「え、は、黒子……?」
黒子と言えば、高校の部活の良き後輩である。たまに連絡を取り合うことはあったが、まさか伊月と黒子が二人きりで会う程に親しい関係を続けているとは思わなかった。別に嫉妬は……してない。
「そうしたら黒子が教えてくれたんだ。俺が怒ったような態度を見せたら、きっと日向は謝ってくるだろうから、あとは俺のペースでうまく良いムードに持っていって………最後はベッドの上で愛を囁き合えばいいって!」
「……………」
黒子、悪い。たぶんお前の言いたかったことは、正しくこいつに伝わってねえわ。まさか言葉通り、ベッドの上で本当に好きだって言い合うだけで終わるだなんて、黒子は思ってもなかっただろうな。黒子が言いたかったのはもっと先の話だよな、うん、俺ならわかってやれるわ。
……俺の愛しの人は思った以上に健全でド天然なようだ。「怒る演技はあんまりうまくできなかったなー」と独り言のように呟く伊月に溜息が出そうになった。
暫しの心地よい沈黙の後、可愛らしい声が俺の名前を呼んだ。
「俺、日向に好きって言ってもらえて嬉しかったよ」
「……おう」
……そんな幸せそうな顔で可愛いこと言うな、ダァホ。
[memo]
日月の日2014