受信したメールの集められたフォルダに辿り着くまでの間、何度携帯を放り出そうとしたかわからない。メールを見ることで、考えないようにしていた事実を知ってしまうのが怖くて、手の震えが治まらない。
 ここ押したら、メールが開くんだよ、な……。
 先ほど受信したメールの送信者名の欄には、母親、との文字が書かれていた。しかも、それより前に送られてきたメールの送信者名もざっと見てみると、そのほとんどに母親、という表示があった。
 もしかして、全部『早く帰ってこい』とか『話し合おう』とかそういうメールだったりするんじゃ……。
 そう思うと恐ろしくて、メールを開こうとする指が躊躇って宙を彷徨う。
 しかし、いつまでもこうしてはいられない。このメールに書かれていることが全てだ。事実を知って、それがさっき俺が考えたようなことだったなら。家族を説得しにいくか、それともこの関係を、もう。
 気付けば視界が滲んでいた。…あぁ、これだからへたれなんて言われんのかな、俺は。
 気持ちを落ち着けるために長く息を吐き、携帯画面と向き合う。

 こんなことで怖がっててどうすんだよ、俺。俺は伊月のことが好きだ。一番大切だ。何があっても、この関係を終わらせるだなんて結末にはさせねえよ。納得してもらえないなら、無理やりにでも奪っちまえ。




 俺は、メールを開いた。




「………え…?」


 どういう、ことだ……?




 そこに書かれていたものは、『早く帰ってこい』でも、『話し合おう』でもなく。

 ただ一言、『ちゃんと二人で協力するのよ』と。

 それの意味を理解することはできなくて、ただ、その一文をゆっくり目で追う。と。

「んー……」
「……っ!」

 なんてタイミングだろう。
 隣の伊月がもぞもぞと動き出した。そして、その瞼は、小さくふるふると震え、少ししてゆっくりと持ち上げられる。俺はほぼ反射的に手に持つ携帯を自分のズボンのポケットに押し込んだ。

「んー…ひゅー…が……?」
「お、おはよう伊月。つってもまだ夜中だけどな」

 まだ覚醒しきってないらしい伊月は、こちらを眠たげな瞳で見つめてきた。そしてふにゃりと笑う。

「おはよ」
「……おう」

 不意打ちにそんなことをされたら、もちろん平静を保てるわけがない。あまりの可愛さに伊月を力一杯抱きしめたい衝動に駆られるが、先ほど携帯を見てしまったという罪悪感からか、なんとなく伊月に触れるのが躊躇われた。気まずくなってふい、と目を逸らすと不思議そうにこちらを見つめてくるので、さらに罪悪感が増す。

「あー…っと、ここで寝てちゃ風邪ひくぞ。ベッドで寝ろ」
「はーい」

 そう無邪気な笑顔を見せながら伊月は立ち上がり、俺の手をくいっと引っ張った。きっと、俺もここではなく、ベッドで寝ろということだろう。でも、伊月の携帯をポケットに潜ませたまま寝室に行くのは危険だ。すぐに携帯を見たことに気づかれてしまう。

「俺、ちょっと水飲んでから行くから。伊月は先行ってて」
「そう?じゃあお先にー」

 俺の言葉にすぐに伊月は頷いてこちらに背中を見せた。俺はほっとひと息つく。あとは机の上にさりげなく伊月の携帯を戻しておくだけだ。伊月が部屋を出ていくのを横目で見ながら、手をポケットに近づけた。
 ……この時点で俺は完璧に気を抜いていた。これで俺は携帯を見た、という事実を伊月に知られずに済む、と安心していた。
 それが、不運を招いたのかもしれない。 


 ヴヴッ、と。静かな部屋にそのバイブ音は鳴り響いた。


「この音って……」

 当然の如く、部屋を出ていこうとしていた伊月はこちらを振り返った。ぱちり、と視線がぶつかる。

「今のって俺の携帯の音…?」
「え……えっと」

 どうすればいいのか、全くわからなかった。なにをするのが最善なのか。ごちゃごちゃと頭の中がこんがらがり、なにも考えられなくなった。
 伊月は机の上に携帯を置いた記憶がちゃんとあるようで、机の上を少し探しては首を傾げていた。罪悪感が激しく膨れ上がる。隠せない、ばれる、絶対、ばれる。

 気づけばポケットから伊月の携帯を取り出していた。

「なんで、日向が俺のを……」

 信じられないものを見たかのように、伊月は目を大きく見開いた。これで伊月は俺に対してどう思うだろうか。こんなことを勝手にする俺を信用できない、と言って離れていってしまうのではないか。伊月の気持ちじたいが変わってしまえば、もう打つ手はない。 
 ああ、こんなことなら、伊月から話してくれるまで待っていればよかった。
 そんな後悔が渦巻き始めて、目を強く瞑った。

 その時だった。



「母さんからのメール、見た?」


 予想外にも柔らかい口調だった。驚いて伊月を見れば、その表情は申し訳なさそうな、でもどこか恥ずかしそうな、そんなもので。目を丸くして、ただ口をぱくぱくと開閉することしかできなかった。
 伊月はそんな俺をくすくすと笑い、俺の手から携帯を取ると、少し操作しては、時折笑顔を見せた。

「どうせ、いつまでも自分の家に帰ろうとしない俺を心配して、日向なりに理由を探そうとしてくれたんだろ?」
「え、あ……あぁ」

 ……全て、お見通し、ということか。
 思わずため息が漏れる。必死に隠そうとしていた自分が馬鹿みたいだ。

「……でも、ごめんな。勝手に携帯見たりして」
「いいよ、っていうか俺が何も言わなかったから心配かけさせちゃった訳だし……それに、やっぱり話さなきゃって決心ついた」

 伊月が突然改まったような声を出した。自然と俺の背筋も伸びる。
 伊月は少し目を伏せて、床を数秒見つめた。


「……実は、全部俺が悪いんだよ。ごめん」
「……は?」

 突然謝られて、もう俺の頭は全く展開についていくことができなかった。
 伊月は一体、なにをしたんだ……?
 わけがわからなくて俺が眉を顰めると、伊月は身を縮めて俯いた。

「その、母さんに嘘ついちゃって」
「嘘?」

 訊き返せば、伊月は小さく頷いた。そして、一つ息を吐き、こちらをじっと見据えて、こう言った。



「………お正月から、日向と同棲を始めるって」




 息が、できなかった。
 心臓が、一瞬止まったような気がした。




「……どっ……どう、せい……」

 なんとか絞り出してその単語を口に出す。しかし、口に出してみると、それが俺の将来望んでいるものであることに気付き、顔がかっと熱くなった。
 なんで、お前そんなことを……。
 問う前に、伊月が口を開いた。

「母さんがさ、俺たちの仲に勘付いてたみたいで……。何度も俺に、いつから付き合ってたの、とか、一緒に住んだりしないの、とか、色々言ってきてて………つい、正月から一緒に住むから、って勢いで適当に言って終わらせようとしたら、母さん、それ本気にしちゃって……」

 勘違いしたまま、今日まできてしまった、と。
 伊月の話をきいて、俺は全身の力が抜けた。俺が心配していたことは、全部、全部、杞憂に終わったと。そう思うと、疲労がどっと押し寄せ、同時に形容しがたいほどの安堵が身体中を包んだ。
 伊月の先ほどの話を、もう一度頭の中で繰り返す。
 伊月の母さんは俺たちのことを応援してくれている。それが確かな事実であることがわかった。そして、それはつまり。


 『親公認カップル』。


 そんな称号を与えられたも同然なのではないか。
 それを考えると、頬が緩む。この嬉しさをどう表現すればいいのだろう。幸せすぎて、どうにかなりそうだ。
 それに、伊月は勢いで適当に言った、と言っていたが、実際に同棲したいと思っていなかったら、「正月から一緒に住む」なんて言葉は出てこないだろう。勢いで言ったからこそ、つい秘めていたはずの願望を、口にしてしまったのではないか。


 伊月の母さんが、同棲を許してくれるとわかったなら。
 伊月の本音が、わかったなら。


 俺のすることは、一つしかない。




「……ごめん、俺の嘘で日向まで巻き込んじゃって。明日になったら、家に帰って、母さんに本当のこと言うから」
「そうだな。よし、俺もついていくわ」
「え?」


 意表を突かれたように目を見開く伊月に、俺は。




「同棲するっつーのに、伊月のご家族に挨拶も無しとか、失礼すぎんだろ」








 さぁ、同棲の準備を、始めようか。










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