俺のためだけに歌ってください
「あっ、日向おはよう」
朝学校に着いて、自分の教室に向かうために廊下を歩いていると。向こう側から日向が歩いてくるのが見えた。声をかけたのだが、返事はなく、不機嫌そうな顔でこちらを見つめ、無言のまま近づいてきた。
なにかあったのか……?
不安になり見つめ返しながら一方通行である廊下を進むと、ちょうどすれ違いざまに。
「……おはよ」
ボソリ、と囁くほどの声が返ってきた。その声はいつもより低く、少なからず何かあったことが察せられる。
日向……ちょっと何か嫌なことがあったにしては……テンション低すぎだよな……?
なにかもっと大きな事件でもあったのか。嫌な予感がして思わず振り返る。少しずつ遠ざかっていく背中は、何か暗いものを背負っているのか。伊月にはわからず、不安が募る。
「……日向!」
背中に呼び掛ければ、歩みを止め、こちらを振り返った。
何があったかはわからない。でも少しでも日向の力になれるなら。
「誰かに頼りたくなったら、俺が力になるから」
別に無理矢理悩んでいる内容をききだそうってわけじゃない。日向が、誰かに相談したくなったら、誰かの力を借りたいと思ったら。一番に頼って欲しい。
そんなことを思ってかけた言葉だったのだが、日向はというと。
「………………」
こちらから一度視線を外すと、小さなため息。そして何故かこちらに再び近づいてきた。
大して二人の間に距離があったわけではない。そんなに大きな声を出さなくてもお互い聞こえる程度の距離だ。さっき話しかけた時も、そこまで大きな声を出さなかったけれど言葉はしっかり日向に届いていたみたいだった。
わざわざ近づいてこなくてもそのまま話せばいいのに……。
不思議に思いながら、首を傾げて日向の言葉を待っていると、日向は伊月のすぐ横に立ち、耳元にその唇を寄せてきて。
「風邪、ひいたんだよ」
「え?」
今この男はなんと言ったか。風邪?風邪って言ったのか……??
何を言っているのか、というような顔を向けると、日向は眉を顰めた。
「だから……風邪ひいててこれよりでかい声出すと裏返っちまうんだって」
「……あー」
なるほど。そういうことか。
やっと意味がわかり、何か悩みを抱えているわけではなかったのか、とホッとする。
それにしても。
いくらでかい声が出せないとは言え、耳元でいつもより低い声で囁くように話しかけてくるのは……心臓がもたない。
うるさい心臓の音を落ちつけようと、胸のあたりをぎゅっと押さえる。
「……伊月?どうかしたのか」
「へ?あ、えと、いや」
日向のかっこいい声に心臓をばくばくさせていました、だなんて言えるわけがない。あからさまに慌てる伊月を訝しげに見つめてくる日向。なにか話題を、と考えていると、ふとあることを思い出した。
「あれ、今日って部活の皆で放課後カラオケ行こうって話になってなかったっけ」
「あぁ、そうだったな」
その話自体はしっかり覚えていたのか、日向はこくりと頷いた。
数日前、部活が終わって皆でいつものように着替えをしたり、ロッカーの中を整理したりして帰りの準備をしていると。小金井が突然声をあげたのだ。
「ねえねえ、今度みんなでカラオケ行かない?!」
小金井が突然なにか提案をするのはいつものことだったが、カラオケ、というのは初めてだったため、反応は人それぞれいつもよりバラバラであった。
「カラオケ……?男だけでがやがやカラオケって……」
「いいじゃん!!楽しそうじゃん!!」
いいでしょ?!と興奮気味に日向に食らいつく小金井。日向も最初は不満気な声をあげていたが、ほかのメンバーが意外とノリノリである様子を見て、了承せざるを得なくなったらしい。
「ったく、しょうがねえなあ」
「やったあああ!!!じゃあ次のオフの日なんてどう?!」
そんな感じで部活がオフである今日、皆でカラオケに行こうという話になったのだが。
「…風邪じゃあしょうがないよな。日向は授業終わったらすぐに帰って風邪治しなよ」
「いや、俺もカラオケついて行く」
「……は?」
駄目だ、この男は本当に何を言っているんだ。
けろっと当然かのように言ってのけた日向に驚くことしかできない。
「いやだって、え、日向それ以上声でないんでしょ?」
「別に歌わなきゃいいだろ」
「え、歌わなくても部屋代っていうのはとられるんだよ?」
「んなこたぁ知ってんだよダァホ。馬鹿にしてんのか?」
「いや風邪早く治すために家で安静にしてろよ!!」
カラオケについてくる気満々である日向に、思わず強くそう言ってしまった。でも、これは言わなければならないことだ。これで遅くまで外で遊んで風邪が悪化したら困る。カントクだって、そんな理由で体調を崩したなんて聞いたら笑顔で練習量を五倍にしてくるだろう。
……それに、日向の風邪がひどくなったら、日向のことが心配で練習に身が入らない、だろ……。
自分でそう考えて、恥ずかしくなってくる。頬が少し熱くなるのを感じながら、日向が今回の件から引いてくれることを祈るようにその目を見つめた。
「……そんなに俺に来て欲しくないのか?」
「え、あ、そういうんじゃなくて。本当に早く風邪を治してもらいたくて……」
至近距離でそんなことを言われて焦った。捨てられた子犬のような目で見られてしまうとなかなか強くものを言えない。自然と語尾が弱くなる。
なんと言えばいいのかわからなくて視線をさ迷わせていると。
「……わかった、伊月の言う通りにするわ」
「え……?」
もっと何か言ってくると思っていたのだが、思いのほかあっさりと引き下がってくれた。
「早く治さなきゃっていうのは最もだし、下手して他の誰かに移したりなんてしたら笑えねえしな」
日向が安静にしてくれるとわかり、ほっと安堵のため息を漏らし、顔を綻ばせる。日向が元気になったら、また皆と一緒に行こうな。そう声をかけて、教室へと向かおうとした、のだが。
「あー……伊月の歌声聴きたかったなあ」
「え、お、俺の……?」
如何にも残念だ、というように天井を仰ぎながら長いため息をつく日向に戸惑う。俺の歌声?別に俺の歌声なんてそんな特別なものじゃないのに……。
首を捻っていると日向がこちらにちらりと視線を寄越した。
「お前の声、綺麗だし、可愛いからまた聴きたかったんだけどな」
「なっ、可愛いって……!!!」
反論しようとしたところで、日向は伊月の横からすっと離れていき、こちらに背を向けて歩いていってしまった。
「な、なんなんだよ一体……」
確かに前に一度、二人でカラオケに行ったことがある。最初は今のバスケ部二年のメンツで行く予定だったのだが、当日になって、皆用事やらなんやらでドタキャンしてしまったのだ。しょうがなく残った二人で予定通りカラオケに行って、初めてお互いの歌声を聴いた。
そういえばカラオケ行ったのはあの日が最後だな……。
もともとカラオケに頻繁に行くようなタイプでもないし、部活が忙しくてそれどころじゃなかったため、あれっきりとなってしまったのだろう。
あれが最後だったからなのか、日向のあの時の歌声を鮮明に思い出せる。
すごく、透き通った声で。でも芯がしっかりしてて、力強くて……。
はあ、と口からため息が零れる。
「俺だって、日向の歌声ききたかったよ、バカ」
遠くなった背中に小さく告げつつ、今日は俺もドタキャンして日向の看病をしよう、と心に決めた。そして、日向が元気になったら。
また二人でカラオケに行こう。
そう、思った。
……日向の歌声を独り占めしたい、なんて本人に言ったら笑われちゃうかな。
自分の教室へと歩みを進めながら、伊月は看病に必要なものリストを頭の中で組み立てた。
[memo]
日月デュエ聴いての妄想。