ベッドに入ってからずいぶん長い時間がたった。時計をみれば、あれから約四時間ほど過ぎたことがわかる。眠くないわけではない。意識が夢の中に引きずり込まれてしまわないように、頭の中でいろいろなだじゃれを考えて頭を働かせていた。……眠気のせいであまりいいものは思いつかなかったけど。
何個目になるかわからないだじゃれを考え出したとき、寝室のドアが開く音がきこえてきた。音が微かにしか聞こえなかったのは、こちらを気遣ってドアを丁寧に扱ったからだろう。ドアが閉まると、足音がこちらに近づいてくる。
花宮、だ。
昂る気持ちを抑えて、起きていると気づかれないように意識的に呼吸を穏やかなものにする。
右のほうでベッドの軋む音が鳴る。花宮がベッドに腰をかけたようだ。
ついに、きた。
瞼が震えそうになったが、なんとか堪えて花宮の動きを待つ。
少しして、頭に微かな重みを感じる。そのまま、優しい手つきで髪を撫でられる。気持ちよくて緩みそうになる頬に少し力を入れて引き締める。
「……俊…」
どうも、慣れない。
名前で呼ばれるのは、この時だけなのだ。夜の、俺が寝たふりをしている、この時だけ。
熱を帯びた、甘い響きを持つその声で名前を呼ばれると、なぜだか背中がぞわぞわとして、身体中が熱くなるような感じがした。
「今日な、仕事場で……」
花宮は俺の頭を撫でてしばらくすると、今日あった出来事などを話してくれる。普段花宮は自分のことをめったに話したりしないから、俺の知らない花宮の姿を知ることができるようで嬉しくて、この時間がすごく楽しいと感じている。一応寝たふりをしているため、相槌を打ったりできなくて寂しいが、起きている時には話してくれないのだから仕方がない。
暫くすると、今日の出来事についての話が一通り終わったようで、沈黙が続いた。その間にも花宮は頭を撫でたり、俺の手を弄んだりしてくるので、俺は寝たふりをしたままその心地の良い触れ合いの時間を楽しんだ。
ふと、頭を撫でる彼の手が止まる。
「俊……」
手が頭の上から頬へ、するりと下ってきた。頬を軽く触れるように撫でられて擽ったい。彼の手に頬をすり寄せたくなる衝動を抑えて、小さく「んぅ……」と唸る。そんな俺を見た花宮がクスリと笑ったのを感じた。そして、ベッドが軋む音をあげたと思ったら、顔に少しかかっていた俺の髪が花宮の手によって耳にかけられる。すっと息を吸う音が聴こえてくる。
「俊、好きだ、愛してる」
花宮の声で、好きだって、愛してるって。
その言葉は否定されることなく告げられた。
この時間が、幸せで、幸せで、仕方がない。
好きだ、と言っている彼の表情がどんなものなのか、寝たふりをしている俺は見ることができない。きっと、俺が起きている時には絶対に見せてくれないような柔らかい表情をしているのだろう。まあ、それも俺の予想でしかないのだが。
どんな表情をしているのか見てみたい、という気持ちがないわけではないが、今ここで目を開けてしまったら、二度と彼の口からこの言葉をきくことができないかもしれないのだ。それを考えると、静かに目を瞑っていることしかできない。
俺は目を瞑ったまま、彼の動きを待つ。
しかし。
……あれ、花宮まだ部屋にいる……よな……?
いつもなら、そのまま「おやすみ」と続けて、部屋を去っていくのだが。立ち去った様子は感じられないし、まだ近くに花宮の気配がする。しかし、長い沈黙の中、俺に少しも触れてこないし、物音もしないのは、さすがに普通ではない、と感じる。
まさかとは思うけど……そのまま寝ちゃった、とか?
仕事の疲れもあって、自分のベッドまで行く気力もなくて。今、俺の横に座ったまま寝てしまっている可能性も否めない。
でも、寝ちゃったなら寝ちゃったで、そのまま放置するわけにはいかないよな…。
なにも掛けずに寝るのは風邪の元だ。今、彼のために動けるのは、もちろん俺しかいない。せめて、花宮のベッドから掛布団だけでも持ってきてあげないと。
そう思って目を開いたとき。
「え…?あ、あの…?」
「え、い、いづ………き……?」
何故か、花宮の顔が俺のすぐ目の前にあった。それも、少しでも動けば鼻と鼻がぶつかりあいそうなほどの距離。
突然のことに頭が追いつかなくて、俺たちは暫しそのままお互いのことを至近距離で見つめ続ける。
「いいいいい…いづ……伊月?!?!」
今の状態をいち早く理解したようで、花宮がものすごい勢いで俺から離れていった。
「お、おまっ…?!いつから起きて……?!?」
「へ?!あ、えっと最初から…??」
…未だ理解できず混乱している俺は、馬鹿なことを言ってしまったかもしれない。
なに本当のこと言っちゃってんだよ俺…!!!
これでは最初から寝る気など全くなく、ずっと寝たふりをしていましたと自白してしまったようなものだ。
花宮を見ると、薄暗い照明の中でさえはっきりわかるほどに顔が真っ赤に染まっていた。耳にも赤みが差している。
「……まさか、毎日寝たふりしてたわけじゃねえよな……?」
事実を言い当てられてしまい、俺は否定するわけでもなく、花宮から視線を逸らした。その反応を見てすべてを察したのか、大きなため息が聞こえてくる。
「おいおい……嘘だろ………」
自分が今までしたことを思い出したようで、花宮は苦虫を噛み潰したような顔をした。
怒らせちゃった、かな……。
なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまい、ぎゅっと掛布団を握り、皺を作る。
「ご、ごめんなさい……まさか俺が寝てる時に花宮がこんな…」
「だあああっ!!わざわざ言うんじゃねえよ!!!」
顔を真っ赤にして睨んでくる花宮に、もう一度「ごめん」と告げる。
どうしよう。本気で怒らせちゃったかもしれない……。
花宮の顔が見れなくて、どうしようかと俯く。
これで花宮が二度と俺に好きだと言ってくれなくなったら。愛してると言ってくれなくなったら。
言葉をもらえなくなったら、俺はまた、不安になってしまうかもしれない。
花宮は、本当に俺のことを好きでいてくれてるのか、と。
「………俺、嬉しかったんだ」
「あぁ?」
突然そんなことを言いだした俺を花宮は怪訝そうな顔で見つめてきた。
「花宮、今まで俺に全然好きだって言ってくれなかったでしょ?いつも最後に、んなわけねーだろバァカって言っちゃってさ」
「んー…あー…そう、だったか?」
「うん、ずっとそうだったよ」
頷いて花宮の反応を窺うと、やはり心当たりはあるようで、彼は視線を彷徨わせた。そして、「うー」だの「あー」だの何か言いだし辛いことでもあるのか、一人で唸りだす。
「花宮が、こうして夜、俺に好きだって言ってくれて。愛してるって頭を撫でてくれて。それで俺は、花宮は俺のこと好きでいてくれてるんだな、俺も花宮のこと大好きだなって、強くそう思えたんだ」
花宮の瞳が、俺のことをしっかり捉えた。真剣なその瞳を、俺も逸らすことなく見つめ返す。
「言葉をもらえると、花宮のことを好きでいていいんだなって、安心できるから」
だから、と言葉を続けようとしたところで、花宮が大袈裟にため息をついて、これ以上は喋るなと手で制してきた。俺は大人しく口を噤む。しかし、それ以上花宮は何か行動を起こすわけでもなく、ただただ視線を落としていた。どうかしたのか、と言うように首を傾げると、不意に花宮がこちらに視線を戻した。
「お前って、本当バカだよな」
「は…?!」
顔をあげてまず第一声がそんな言葉だとは予想もしていなかったため、思わずそんな声をあげてしまった。しかし、花宮の顔はこれ以上ないほど真剣なもので。もう何が何だかさっぱりわからなくなってきた。
「お前……俺が目を合わせて、その、す、好きだのなんだのって言えると思うか?」
「いや……それは……思わない、けど」
「だろ?」
だろ?って言われても。
不満げに眉を寄せていると、花宮が少し視線を外し口を再び開く。
「でも……それが原因でお前を不安にさせちまうのは、よくねえよな」
呟くようなその言葉は、恐らく俺に向けて言われたものではない。花宮が、花宮自身に向けて言ったものだと、なんとなくそう感じた。
「伊月、ちょっとベッドから立て」
「へ?あ、うん」
ずっとベッドに座ったまま花宮と話をしていたことに気付き、俺は急いで掛布団を引きはがし、花宮のいる方に立ち上がった。その瞬間。
ふわり、と温かいものに包まれた。知っている、大好きな香りに優しく包み込まれる。
花宮に抱きしめられたのだ、という事実に気づくまで数秒かかって、それに気づいたときに思わず小さな悲鳴のようなものをあげてしまった。それをきいた花宮が、さらに強く抱きしめてくる。俺は身体中の体温が一気に上昇したのを感じる。
「伊月……好きだ」
「……っ」
耳元で囁かれた声は微かに震えていた。初めて『起きている俺』に向けて花宮が言ってくれた愛の言葉。そう思うと身体の芯から、かっと火が出るほど熱くなっていく。
「…これが、今の俺の精一杯だ。やっぱ、まだ伊月の顔見てこんなこと言えねえし、お前を寝てると思って言ってたときみたいに堂々と言うことはできねえ」
抱きしめられたまま横に視線を向ければ、ほんのり赤く染まった彼の耳が見えた。それを見るとなんだか可愛らしく思えてきて、少しだけ緊張が和らぐ。
「だから、しばらくの間は、たぶんこんな感じになっちまうと思うけど……」
「…わかった、大丈夫、待ってるから」
花宮の背中に手を回し、こちらからも強くぎゅっと抱きしめる。
少しずつ、こういうことに慣れていければいい。
花宮だけじゃない。俺もだ。…少しずつじゃないと心臓が持つ気がしない。
まだまだ俺たちには時間がある。
ゆっくりゆっくり時間をかけて進んでいけばいい。
「俺も好きだよ、真」
そう言って少し体を離し、彼の頬に唇を軽く触れさせた。彼の顔が先ほどより赤くなっていくのを見て、俺はしたり顔で笑む。
「本当……お前ってやつは」
赤くなった顔を見られたくないのか、再び強く抱きしめられ、首筋に噛みつくようなキスをされた。
「愛してるぜ、俊」
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